結論:名作を共作した2人は、挿絵をめぐって衝突した。ただし「絶交」の確証は薄い
滝沢馬琴(曲亭馬琴)と葛飾北斎は、『椿説弓張月』をはじめとする読本を共作した。馬琴が文章を書き、北斎が挿絵を描いた組み合わせである。北斎は馬琴の作品に最も多くの挿絵を描いた浮世絵師とされる。
一方で、北斎は馬琴の挿絵の指示に従わず、自分の構図に描き換えることがよくあったという。そのため2人はしばしば衝突した。共作は文化年間の末に途絶えた。
「激しく絶交した」という話はよく知られているが、その説が見られるのは明治期の資料が中心で、同時代の資料にはほとんど見当たらない。この記事では、確かめられる共作の事実と、確執の実際の中身を分けて整理する。
基本情報
- 滝沢馬琴(曲亭馬琴):明和4年(1767年)〜嘉永元年(1848年)、享年82。江戸時代後期の戯作者。江戸深川の生まれ
- 葛飾北斎:宝暦10年(1760年)〜嘉永2年(1849年)。生年は自身の作品の落款をもとにした推定。浮世絵師
- 時代:江戸時代後期(文化年間を中心に共作)
- 共作の代表作:『椿説弓張月』(1807〜1811年)、『新編水滸画伝』(1805年)など
- 馬琴の他の代表作:『南総里見八犬伝』
- 馬琴の墓所:東京都文京区の深光寺
馬琴と北斎の共作:出会いから代表作まで
馬琴はどんな作家だったか
馬琴は江戸深川で、旗本松平家の用人の子として生まれた。若いころは俳諧や医術、儒学を学んだが定職が続かず、1790年ごろに山東京伝へ入門を願い出て断られたものの、交際は許された。1791年に黄表紙『尽用而二分狂言』で戯作者としてデビューしている。
その後、版元の蔦屋重三郎の店で働き、1793年に会田お百と結婚した。副業の履物商を営みながら執筆を重ね、1796年の読本『高尾船字文』で注目された。1804年の『月氷奇縁』で読本の流行を生み、読本の第一人者になっていく。
北斎と読本の挿絵
北斎が関わった最古の読本は、1803年刊行の『蜑捨草』とされる。本格的に読本の挿絵を手がけ始めたのは1805年ごろからで、馬琴らと組んで仕事をした。読本の挿絵は、墨と薄墨で複雑な場面を的確に描き分ける技術と知識が求められるものだった。北斎が手がけた読本は約200冊、総画数は約1400図に及ぶとされる。
北斎が馬琴宅に身を寄せた数か月
2人は仲の悪い関係と思われがちだが、少なくとも一時期は親しかった。1806年(文化3年)の春から夏にかけて、北斎が馬琴宅に3〜4か月ほど身を寄せていたとされる。
主な共作
馬琴の項に挙がる主な共作は次のとおりである。
- 『新編水滸画伝』(1805年):北斎の挿絵が途中で中絶し、高井蘭山に代わったと記される
- 『新累解脱物語』(1807年)
- 『椿説弓張月』(1807〜1811年)
- 『三七全伝南柯夢』(1808年)
- 『頼豪阿闍梨恠鼠伝』(1808年)
- 『青砥藤綱摸稜案』(1812年、合巻)
1805年から1812年まで、わずか数年のあいだに、ここまで多くの作品を組んで世に出したことになる。
『椿説弓張月』と『新編水滸画伝』:名作の中身
『椿説弓張月』とはどんな作品か
『椿説弓張月』は文化4年(1807年)から文化8年(1811年)にかけて刊行された読本で、全5編29冊。版元は平林庄五郎と文刻堂西村源六である。当初は前篇・後篇の全12巻で完結する予定だったが、反響が大きく、続篇・拾遺・残篇が加えられた。
前篇・後篇は『保元物語』に基づき、弓の名手・源為朝の活躍を描く。保元の乱の後、伊豆大島に流された為朝が脱出して兵を挙げ、暴風雨に遭って琉球に漂着するまでが中心である。続篇以降の琉球の物語は馬琴の創作部分で、為朝の子が初代琉球王・舜天になるという伝説を題材にしている。
当時の評価と広がり
この作品は庶民に大きな人気を博し、商業的に成功して、馬琴の読本作者としての地位を確立した。現在は『南総里見八犬伝』のほうが有名だが、当時は『椿説弓張月』のほうが評価が高かったとされる。
刊行中の文化5年(1808年)には、浄瑠璃『鎮西八郎誉弓勢』、歌舞伎『島巡弓張月』として上演された。合巻、錦絵、双六などにも展開し、歌川国芳、月岡芳年、歌川芳艶らも錦絵の題材をここから得ている。1969年には三島由紀夫が歌舞伎『椿説弓張月』を書き下ろし、国立劇場で初演された。三島にとって最後の舞台作品である。
『新編水滸画伝』は途中で担当が変わった
『新編水滸画伝』は1805年の共作に挙がるが、馬琴の項によれば、北斎の挿絵が途中で中絶し、高井蘭山に代わっている。北斎の項には、後編の挿絵をめぐって馬琴と北斎が衝突し、刊行中断の危機に陥ったとあり、版元の仲裁で訳出者が馬琴から高井蘭山に変更されたと記される。最も早い時期の共作のひとつが、すでに順調ではなかったことになる。
確執の実像:何がぶつかり、絶交説はどこまで本当か
衝突の原因は「挿絵の描き換え」
確執の中心は、挿絵の構図である。北斎は凝り性で自信家だったため、馬琴の指示に従わず、自分の構図に描き換えることがよくあった。そのため2人はしばしば衝突した。北斎の項でも、挿絵の内容をめぐって馬琴と口論になり、後年には両者の間に確執が生じたと伝えられている。
馬琴自身の書簡には、北斎が人物の配置を入れ替えてしまう癖があるため、あえて逆の位置に下図を描いておいた、という趣旨の記述がある。指示を守らせることをあきらめ、相手の癖を見越して手を打っていたことになる。
馬琴は北斎の画力を認めていた
馬琴は書簡などで、北斎の画力を高く評価する記述も残している。そのため、お互いが嫌い合っていたというより、制作上のやり取りでずれが大きかったと考えられる。文章を書く側が場面を細かく設計し、描く側がそれを画面として組み直す、という分業のもとで起きた摩擦だった。
「絶交説」の根拠は弱い
共作は文化年間の末に途絶えた。これを「絶交した」と説明する説があるが、その説が見られるのは明治期の資料が中心で、同時代の資料にはほとんど見当たらない。北斎の項にも、文化8年(1811年)に挿絵の件で馬琴と絶縁したとする説は載るが、確証は示されていない。
別の可能性として、版元が原稿料の上昇や北斎の多忙を理由に、この組み合わせを避けたためとも推測されている。つまり、共作が終わった原因が個人の喧嘩だったと断定する材料は、今のところ乏しい。「口論はあったが、絶交の確証はない」というのが、資料の範囲で言える線である。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 深光寺(東京都文京区):馬琴の墓所
- 誓教寺(浅草):北斎が葬られたとされる寺。墓碑には「川村氏」と刻まれているとされる
- すみだ北斎美術館(東京都墨田区亀沢二丁目):2016年11月22日開館。約1,800点の所蔵作品を持ち、4階の常設展示室では高精細レプリカやアトリエの再現模型を見られる。1階の図書室は一般にも公開されている
関連する人物
- 山東京伝:馬琴が入門を願い出て断られたが、交際を許された戯作者
- 蔦屋重三郎:馬琴が一時期その店で働いた版元
- 高井蘭山:『新編水滸画伝』で担当が代わった際に関わった人物(北斎の項では訳出者が馬琴から蘭山に変更されたとある)
- お路(みち):馬琴の息子・興継の妻。馬琴は1839年に失明し、お路の口述筆記で執筆を続け、1841年に『南総里見八犬伝』の執筆を終えた(刊行は1842年)
馬琴の家は、孫の太郎が祖父の没後の1849年に22歳で亡くなり、滝沢家の男系は絶えたとされる。長女の幸は婿を迎えて飯田町の滝沢家として分家している。
よくある質問
馬琴と北斎は本当に仲が悪かったのですか。
挿絵の構図をめぐってしばしば衝突したと伝えられている。一方で、馬琴は北斎の画力を高く評価する記述も残している。
2人は絶交したのですか。
絶交したという説はあるが、それが見られるのは明治期の資料が中心で、同時代の資料にはほとんど見当たらない。共作が文化年間の末に途絶えたことは確かだが、理由は確定していない。
北斎は馬琴の家に住んでいたのですか。
1806年(文化3年)の春から夏にかけて、3〜4か月ほど馬琴宅に身を寄せていたとされる。
2人の最も有名な共作はどれですか。
『椿説弓張月』である。1807〜1811年に刊行され、庶民に大きな人気を博した。馬琴の代表作として知られる『南総里見八犬伝』は、この作品の後の大作で、北斎との共作としては挙げられていない。






