徳川光圀とは?『水戸黄門』のモデルの素顔

『水戸黄門』として、お供の助さん・格さんと共に諸国を漫遊し、悪を懲らしめる正義の味方――。多くの人が徳川光圀にそんなイメージを抱いているだろう。しかし、その素顔は、物語の姿とは大きく異なる、複雑で人間味あふれるものだった。

若い頃は派手な身なりを好む「かぶき者」として、常識はずれの行動を繰り返す破天荒な青年。それが一冊の歴史書との出会いをきっかけに、学問の道に目覚め、生涯をかけた大事業『大日本史』の編纂に着手する。この事業は、日本の歴史学に大きな足跡を残しただけでなく、約200年後の日本の歴史そのものを動かす思想的な源流ともなった。

藩主としては領民の暮らしを思う合理的な改革を進める一方、日本で初めてラーメンを食べたと言われるほどの旺盛な好奇心も持ち合わせていた。

この記事では、そんな伝説のベールに包まれた徳川光圀の、知られざる実像に迫っていく。

徳川光圀とはどのような人物だった?

水戸徳川家に生まれた生涯と「黄門さま」の由来

徳川光圀は、1628年6月10日、水戸藩の初代藩主である徳川頼房の三男として生まれた 。徳川家康の孫にあたる人物だ。テレビドラマ『水戸黄門』で描かれる、印籠を手に悪をこらしめる好々爺のイメージが強いが、実際の光圀は学問を深く愛し、日本の歴史に大きな足跡を残した人物だった。 

その生涯は、藩主としての政治から、学者としての探究、そして静かな隠居生活まで、いくつかの時期に分けられる。

できごと
1628年 水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として生まれる  

1633年 兄がいたが、世子(跡継ぎ)に決まる  

1657年 歴史書『大日本史』の編纂を始める  

1661年 水戸藩の第2代藩主となる  

1690年 藩主の座を養子の綱條に譲り、隠居する  

1691年 西山荘(せいざんそう)に移り住み、静かな生活を送る  

1700年 73歳で生涯を終える  

多くの人が彼を「水戸黄門」や「黄門さま」と呼ぶ。この「黄門」とは、彼が就いていた役職名に由来する 。光圀は朝廷から「権中納言(ごんちゅうなごん)」という位を与えられていた。この中納言という役職を、昔の中国(唐)での呼び名に倣って「黄門」と言うことがあったのだ 。そのため、「水戸藩の中納言さま」という意味で「水戸黄門」と呼ばれた。

しかし、実は「水戸黄門」は光圀一人だけではなかった。水戸藩の歴代藩主の中で、光圀を含めて7人が中納言の位に就いている 。それにもかかわらず、今日「水戸黄門」といえば誰もが光圀を思い浮かべる。これは、後世に作られた講談や物語が、光圀の人物像や功績を特に魅力的に描き、その伝説が他の6人の存在をかすませるほど強烈なイメージとして定着したからだ 。歴史的な事実よりも、一つの物語が人々の記憶をいかに強く形作るかを示す良い例と言える。

若き日は破天荒?「かぶき者」としての一面

今では賢者のイメージが強い光圀だが、若い頃は全くの別人だった。派手な服装や常識はずれの行動を好む「かぶき者」として知られ、その行動はかなり破天荒だった

家臣の忠告に耳を貸さずわがままに振る舞い、父である頼房を心配させたという記録が残っている 。遊郭(ゆうかく)に入り浸り、朝帰りになった際には魚売りに変装して屋敷に戻ったこともあった 。さらに、友人との帰り道に人を斬り殺したという衝撃的な逸話まで伝わっている 。大変な美男子でもあったため、彼が江戸城に現れると、その姿を一目見ようと人だかりができて騒ぎになったこともあり、そうした人気が彼の奔放な振る舞いに拍車をかけたのかもしれない

そんな光圀が生まれ変わるきっかけとなったのが、18歳の時に読んだ一冊の本、中国の歴史家・司馬遷が書いた『史記』だった 。特にその中の一編、「伯夷伝(はくいでん)」に彼は心を揺さぶられた

「伯夷伝」には、伯夷と叔斉という兄弟の物語が記されている。父である王は弟の叔斉に跡を継がせたいと考えていた。父の死後、叔斉は兄の伯夷に王位を譲ろうとするが、伯夷は父の遺志を尊重してこれを拒否する。結局、兄弟は二人とも王位を辞退して国を去ってしまうという話だ

この物語は、光圀自身の境遇と深く重なった。光圀は三男でありながら、病弱な兄を差し置いて跡継ぎに選ばれていた 。この「長幼の序(年長者を敬う儒教の教え)」に反する状況は、彼の心に大きな葛藤を生み、それが若き日の非行の一因だったとも考えられる 。伯夷と叔斉が権力よりも兄弟の筋を通した生き方を選んだことに感銘を受けた光圀は、自らの行いを深く恥じ、学問に打ち込むようになった。この出来事は、彼がただ「良い人」になろうと決意しただけでなく、自らの人生の根本的な問題に向き合うための哲学的な指針を得た瞬間だった。

家族構成と子孫について

光圀の家族関係、特に兄との関係は、彼の人生を理解する上で非常に重要だ。父は初代水戸藩主の徳川頼房、母は側室の久子 。光圀には、同じ母から生まれた松平頼重という兄がいた

本来であれば長男である頼重が水戸藩を継ぐはずだった。しかし、頼重が生まれた当時、頼房の兄である尾張徳川家と紀伊徳川家にまだ跡継ぎがおらず、頼房はそれに遠慮して頼重の存在を公にしなかった 。そのため、後に生まれた光圀が正式な跡継ぎとして幕府に届け出られたのだ。

兄を差し置いて家督を継ぐことになった罪悪感は、光圀の心に生涯重くのしかかっていた 。そして、「伯夷伝」から得た教えを、彼は驚くべき形で実行に移す。自分の跡継ぎとして、兄・頼重の息子である綱條(つなえだ)を養子に迎えたのだ。そして、自分の実の子である頼常(よりつね)は、兄の頼重が治める高松藩の跡継ぎとして養子に出した 。これは、自らが学んだ哲学を現実の行動で示した、彼の誠実さを象徴する決断だった。この出来事を通して、彼はようやく心の安らぎを得ることができたと言われている  

この光圀の決断により、水戸徳川家は兄の血筋によって受け継がれていくことになった。その家系は現代まで続いており、現在の第15代当主・徳川斉正(なりまさ)氏は、徳川ミュージアムの理事長などを務めている

光圀の人柄がわかる有名な逸話

学問によって生まれ変わった光圀の人柄は、数々の逸話からうかがい知ることができる。彼の判断基準は、法律や慣習に盲目的に従うのではなく、人間性や理性を重んじる独自の倫理観に基づいていた。

ある時、領内で親を殺した男が捕まった。男は反省の色を見せず、「自分の親を殺しただけだ」と開き直った。これを聞いた光圀は、彼をすぐに処刑せず、「道徳を教えなかった為政者である自分の責任だ」と考えた。そして、男に3年間『論語』の講義を受けさせた。やがて男は自らの罪の重さを悟り、自ら死刑を願い出たという 。これは、罰よりも教育による更生を信じる彼の姿勢を示している。

また、光圀が大切に飼っていた鶴を殺してしまった農民・長作がいた。光圀は激怒したが、いざ斬り捨てようという瞬間に刀を収め、「この者を殺しても鶴は生き返らない。獣一匹のために人を殺すわけにはいかない」と言って彼を許した。さらに、「無一文で放り出せば、またどこかで悪事を働くだろう」と考え、彼に米と銭を与えて立ち直る機会を与えた 。自分の感情よりも、一人の人間の未来を優先した、深い慈悲の心が見て取れる。

一方で、彼は時の将軍・徳川綱吉が出した「生類憐れみの令」には公然と反対した。特に犬を過剰に保護するこの法律を非合理的だと考え、幕府の役人に対して批判的な言葉を述べた記録が残っている 。犬の毛皮を将軍に送りつけたという話は伝説のようだが 、彼が悪法と見なしたものには、相手が将軍であっても臆せず異を唱える気骨を持っていた。

これらの逸話は、光圀が状況に応じて、人間性と理性を天秤にかける、非常に人間味あふれる為政者であったことを物語っている。

質素倹約を旨とした食生活

光圀は藩の財政のために倹約令を出すなど、質素倹約を奨励したことで知られる 。しかし、彼自身の食生活は、質素という言葉とはほど遠い、好奇心に満ちたものだった。彼は美食家、いわゆるグルメであったようだ

特に鮭が好物で、カマやハラス、皮の部分を好んで食べたという 。また、今や水戸の名産品である納豆も好んだ。当時の納豆は、コショウや山椒で味付けされ、酒の肴として食べられていたようだ 。光圀が納豆の食文化を広めたことが、今日の水戸納豆の発展につながったのかもしれない

藩の財政を預かる為政者として倹約を推進する一方で、個人の生活では食文化の探求を楽しむ。この二面性は、彼が公的な責任と私的な興味を明確に区別できる、洗練された人物であったことを示している。藩の財政を引き締めることは、自らの知的好奇心や探求心を抑圧することと同じではないと考えていたのだろう。

歴史に名を刻んだ徳川光圀とは?その偉大な功績と意外な一面

生涯を捧げた一大事業『大日本史』の編纂

徳川光圀の最大の功績は、日本の歴史書『大日本史』の編纂事業を始めたことだ。1657年に着手されたこの事業は、光圀の死後も続けられ、最終的に完成したのは1906年(明治39年)、実に250年もの歳月を要した壮大なプロジェクトだった

この歴史書は、初代・神武天皇から南北朝時代を統一した後小松天皇までの歴史を、中国の『史記』に倣った「紀伝体」という形式で記述している 。その根底には、「大義名分論」という儒教の思想があった 。これは、歴史上の出来事や人物を道徳的な基準で評価し、君主と家臣のあるべき姿を明らかにしようとする考え方だ

『大日本史』は、その内容において、当時の常識を覆す三つの大きな特徴(三大特筆)で知られている

  1. 神功皇后を天皇ではなく、天皇の后として扱ったこと。
  2. それまで天皇と認められていなかった大友皇子を、弘文天皇として正式な天皇としたこと。
  3. そして最も重要なのが、皇室が二つに分かれて争った南北朝時代において、南朝こそが正統な皇室であると結論付けたこと。

この事業は、単なる歴史書の編纂にとどまらなかった。光圀は江戸の藩邸に「彰考館」という研究機関を設立し、全国から優れた学者たちを招聘した 。彰考館は、いわば一大シンクタンクとなり、その研究活動を通じて「水戸学」という独自の学問と思想体系が形成されていった

そして歴史の皮肉とも言うべきことに、この水戸学が、幕末の日本に大きな影響を与えることになる。特に、天皇の絶対的な正統性を強調する「尊王論」は、徳川幕府を倒して天皇中心の新しい国を作ろうとする思想(尊王攘夷運動)の強力な理論的支柱となった 。徳川家の一員である光圀が始めた学問が、200年の時を経て、自らの一族が築いた幕府を終わらせる原動力の一つになったのだ。

名君として行った藩政改革

光圀は藩主として、領民の生活を豊かにするための様々な改革を行った。その根底には、若き日に学んだ「民を愛する」という思想と、物事を合理的・実践的に捉える姿勢があった。

代表的な功績の一つが、1663年に完成させた「笠原水道」だ 。これは、城下町の低地で飲み水に苦しんでいた人々のために、大規模な上水道を整備する事業だった。当時の技術で、わずか1年半という短期間で完成させたこの水道は、明治時代まで長く水戸の人々の暮らしを支えた

社会の慣習にもメスを入れた。藩主となった1661年、彼は家臣が主君の死を追って殉死する「殉死」を厳しく禁じた 。父・頼房が亡くなった際には、殉死しようとする家臣たちの家を自ら訪ねて説得し、水戸藩からは一人の殉死者も出さなかった 。これは、有能な人材を失うことは藩にとって大きな損失であるという、人命を尊重する合理的な考えに基づいていた

また、宗教制度の改革にも着手した。領内の寺社を調査し、不正や堕落が見られた寺院を約1,000カ寺も整理・廃止する一方で、由緒正しい寺社は手厚く保護した 。さらに、神道と仏教が混ざり合っていた状態を改め、神社の神聖さを保つための「神仏分離」を進めた 。これらの改革は、無秩序な状態に論理的な秩序をもたらし、社会をより良くしようとする、彼の一貫した改革者としての姿勢を物語っている。

日本で初めてラーメンやチーズを食べた?旺盛な好奇心

光圀の功績は政治や学問だけではない。彼は未知の文化に対しても非常に強い好奇心を持っていた。その象徴が、日本で初めてラーメンを食べた人物という逸話だ

きっかけは、彼が師として招いた中国の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)との交流だった 。朱舜水が光圀に振る舞った中国式の麺料理が、日本におけるラーメンの元祖とされる。光圀はこの料理を「後楽うどん」と名付け、自らも作り方を学んで客人に振る舞うほど気に入っていた 。この麺はレンコンの粉を練り込み、スープは豚や鶏からだしを取り、薬味にはニンニクやニラなど「五辛」と呼ばれる香味野菜を使った、本格的なものだった

彼の食への探求はそれだけにとどまらず、朱舜水から牛乳を加工して作る「白牛酪(はくぎゅうらく)」というチーズのような乳製品や、餃子の作り方も教わったと言われている

光圀にとって、これらの食体験は単なる珍しいものを味わう以上の意味を持っていた。それは、尊敬する師である朱舜水の文化そのものを受け入れ、学ぶという行為だった。食を通じて異文化への理解を深め、知識を実践する。これは、彼の学問に対する姿勢、すなわち書物の上だけでなく、実体験を重んじる「実学」の精神そのものを表している。

全国の優れた学者や文化人との交流

光圀の周りには、常に優れた学者や文化人が集まっていた。『大日本史』編纂のために設立した彰考館には、彼の学識を慕って全国から才能ある人々が集結した

その中でも最も重要な人物が、明(当時の中国)の滅亡にともない日本へ亡命してきた儒学者・朱舜水だ 。光圀は彼を師として深く敬い、その教えを受けた。朱舜水の、空理空論を排して実践的な学問を重んじる「実学」の思想は、水戸学の学風に決定的な影響を与えた

また、『水戸黄門』の物語でおなじみの「助さん」と「格さん」にも、実在のモデルがいた。助さんのモデルは佐々宗淳(さっさむねきよ)、格さんのモデルは安積澹泊(あさかたんぱく)という、いずれも彰考館の中心的な学者だった 。しかし、彼らは物語のような腕利きの武芸者ではなく、一流の学者であった。彼らが諸国を旅したのは、悪人を懲らしめるためではなく、『大日本史』の編纂に必要な古い記録や資料を収集するためだったのだ

この事実は、歴史上の人物が伝説の中でいかに姿を変えるかをよく示している。実際の光圀とその家臣たちの功績は、地道な学問的探求の積み重ねにあった。しかし、物語はそれを、より大衆に受け入れられやすい、勧善懲悪の冒険活劇へと作り変えた。歴史上の光圀と、伝説の「水戸黄門さま」との間には、こうした大きな隔たりが存在するのである。

独特の死生観と「瑞龍山」の寿陵

晩年の光圀は、自らの死と向き合い、生前に自身の墓「瑞龍山寿陵(ずいりゅうさんじゅりょう)」を造営した。生きているうちに建てる墓を「寿陵」といい、これは彼の独特な死生観の表れだった。

墓の様式は、仏教式ではなく、彼が生涯を通じて探求した儒教の教えに厳格に基づいている 。華美な装飾を排した、質素で威厳のある学者らしい墓だ。

さらに彼は、自らの葬儀において仏教的な儀式を一切行わないよう、そして墓所には僧侶を立ち入らせないよう遺言した 。これは、彼が藩政改革で推し進めた神仏分離の理念を、自らの死をもって貫き通すという、最後の意思表示だった。

瑞龍山の墓は、光圀にとって単なる終の棲家ではなかった。それは、彼の人生を懸けた知的探求の最終的な結論であり、自らの哲学を形にした記念碑だった。当時の主流であった仏教の死生観に頼るのではなく、自らが信じる儒教の倫理観と理性の力によって、人生を締めくくろうとしたのだ。この墓は、彼の生き様そのものを象徴する、最後の、そして最も雄弁なメッセージと言えるだろう。

まとめ:徳川光圀とは?

  • 徳川光圀は徳川家康の孫で、水戸藩の第2代藩主だった。
  • 「水戸黄門」の「黄門」とは、彼が就いていた権中納言という役職の中国風の呼び名に由来する。
  • 若い頃は「かぶき者」として知られる破天荒な人物だったが、18歳で『史記』「伯夷伝」を読んで感銘を受け、学問に目覚めた。
  • 兄を差し置いて跡継ぎになったことを生涯気にかけ、兄の息子を養子に迎えて水戸藩を継がせた。
  • 生涯をかけた事業として、日本の歴史書『大日本史』の編纂を始め、これが後の「水戸学」の基礎となった。
  • 『大日本史』が掲げた天皇を尊ぶ思想は、約200年後に徳川幕府を倒す運動の理論的支柱の一つとなった。
  • 藩主として、上水道「笠原水道」の建設や、家臣の殉死の禁止など、合理的で民を思う改革を行った。
  • 好奇心旺盛で、日本で初めてラーメンやチーズ、餃子を食べた人物の一人と言われている。
  • 物語の「助さん・格さん」のモデルは、武士ではなく、歴史資料収集のために全国を旅した一流の学者だった。
  • 自らの墓を生前に儒教の様式で作り、仏教的な儀式を拒否するなど、独自の死生観を貫いた。