結論:終焉の地は江戸の仙台藩上屋敷、死因は食道噴門癌による癌性腹膜炎とされる
伊達政宗が亡くなったのは寛永13年5月24日(1636年)、享年70(満68歳)です。場所は江戸にあった仙台藩の外桜田上屋敷で、現在の日比谷公園内にあたります。
死因は、食道噴門癌による癌性腹膜炎とされています。亡くなる2年ほど前から食欲不振や飲み込みにくさを訴えていました。
「終焉の地」には二つの意味があります。亡くなった場所は東京の日比谷公園付近で、葬られた場所は仙台の瑞鳳殿(ずいほうでん)です。この記事では、最期の約2か月の経過と、のちに墓所で行われた調査で分かったことを、確かめられた事実だけでたどります。
基本情報
- 没年月日:寛永13年5月24日(1636年)、卯の刻(午前6時ごろ)
- 享年:70(満68歳没)
- 時代:安土桃山時代から江戸時代初期
- 立場:仙台藩の初代藩主
- 死去した場所:江戸の仙台藩外桜田上屋敷(現在の日比谷公園内)
- 死因:食道噴門癌による癌性腹膜炎とされる
- 墓所:瑞鳳殿(仙台市青葉区霊屋下)
伊達政宗の死因と最期の経過:江戸で亡くなるまで
2年前から続いた食欲不振と飲み込みにくさ
Wikipedia によると、政宗は寛永11年(1634年)ごろから食欲不振と嚥下困難(飲み込みにくさ)を訴え始めました。
寛永13年4月18日、政宗は母の菩提寺である保春院に参詣し、城下の山々を巡りました。この日、経ヶ峯(きょうがみね)で死後はこの辺りに葬ってほしいと杖を立てて場所を指示したとされます。自分の墓所を、亡くなる約5週間前に決めていたことになります。
病状が急に悪化した最後の参勤
4月20日、政宗は参勤のため仙台を出発しました。ところが途中で病状が急に悪化します。郡山では飲み込みの困難と嘔吐が続き、ほとんど食べられなくなりました。
4月28日に江戸へ入った時には絶食が続き、腹部が腫れていたといいます。この症状が、後世に死因を推定する手がかりになりました。
将軍・家光の見舞いと、行水をして迎えた政宗
5月21日、三代将軍・徳川家光が政宗の上屋敷を訪れ、見舞いました。政宗は行水をして身なりを整えて迎えたとされます。見舞いが終わって奥へ戻る時は、杖にすがり、何度も休みながら歩いたと伝えられています。
その3日後の5月24日に政宗は亡くなりました。5月26日には、忠宗に遺領を相続することが許されています。
妻子にも死に顔を見せなかったという伝え
臨終について、政宗は妻子にも死に顔を見せなかったと伝えられます。弱った姿を見せまいとしたと読めますが、その理由を述べた資料は確かめられていません。理由は推測の域を出ないので、ここでは「見せなかったと伝わる」という事実にとどめます。
政宗の辞世の句は、Wikipedia に次のように載っています。
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
終焉の地・外桜田上屋敷と日比谷公園:場所と歴史
慶長6年に家康から与えられた屋敷
仙台市の公式ページによると、外桜田上屋敷は慶長6年(1601年)に徳川家康から政宗に与えられた屋敷です。寛文元年(1661年)まで、上屋敷として使われ、藩主が住み、公務を行う場所でした。
同じページには、政宗の時代に家康が3回、二代将軍・秀忠と三代将軍・家光がそれぞれ4回訪れ、もてなしを受けたとあります。政宗の最期の見舞いに家光が足を運んだのは、この屋敷でした。
現在の日比谷公園のどのあたりか
仙台市のページでは、屋敷の範囲を、現在の日比谷公園の心字池の西岸あたりから、テニスコートの東端まで、また日比谷濠沿いの道から小音楽堂の近くまで、と推定しています。総面積は記されていません。日比谷公園内が、仙台藩外桜田上屋敷の跡にあたります。
跡地には「伊達政宗終焉の地」を示す説明サインが設けられています。仙台市のページには設置場所の地図が載っていますが、説明文の文面までは確認できませんでした。現地で読む場合は、文面を直接確かめてください。
外桜田の屋敷が上屋敷だった期間
外桜田の屋敷が上屋敷だったのは、前述のとおり慶長6年(1601年)から寛文元年(1661年)までです。政宗が亡くなったのはこの期間のことなので、「終焉の地」を探すときは日比谷公園側を目指してください。
遺体はどう運ばれ、どう葬られたか:瑞鳳殿と発掘調査で分かったこと
防腐処置をして、生前のような大名行列で仙台へ
Wikipedia によると、遺体は束帯姿で木棺に納められ、水銀・石灰・塩を詰めて防腐処置が施されました。駕籠に載せられ、生前と同じような大名行列で、6月3日に仙台へ戻りました。
喪の扱いも記されています。江戸では7日間、京都では3日間、魚や鳥を捕ることと音楽を奏でることが禁じられました。
殉死した家臣は20人
政宗の死に際しては、直臣15人とその家士(陪臣)5人が殉死しました。瑞鳳殿の公式サイトによれば、殉死者と認められるのは、生前に主君から許可を受けた者だけです。許可なく切腹した者は、殉死者とは認められません。
瑞鳳殿の創建から再建まで
瑞鳳殿は、政宗の死去の翌年、寛永14年(1637年)に経ヶ峯に造営された霊屋(おたまや)です。政宗の遺命によると公式サイトにあります。1931年(昭和6年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)の戦災で焼失しました。
再建は1979年(昭和54年)で、2001年(平成13年)には大改修が行われました。この建物は再建されたものですが、墓所そのものは同じ場所です。
発掘調査で分かった身長・血液型・歯
墓所の学術調査の結果、遺骨から推定された身長は159.4cm、血液型はB型でした。
Wikipedia によると、歯周病のため、上あごの左右の犬歯以外は抜け落ちていました。左の腓骨(すねの外側の骨)には骨折の跡があり、天正17年(1589年)の落馬によるものと考えられています。
副葬品は30点余りが確認されています。
掘り下げ:右目の謎と、肖像に残った遺言
幼い頃の疱瘡で右目を失った
Wikipedia は、政宗が幼い頃に疱瘡(天然痘)を患い、右目を失明して隻眼になったと記しています。「独眼竜」の呼び名はこの病気によるものです。
家臣に目をえぐらせたという話を耳にすることがありますが、今回確かめた資料の中に、その逸話の根拠は見つかりませんでした。したがって、この記事では取り上げません。
2019年の調査で、頭骨から隻眼が裏付けられた
瑞鳳殿の公式サイトによると、2019年の国立科学博物館の調査で、頭骨の眼窩の高さに左右で2.5mmの差があることが分かりました。公式サイトはこれを、政宗が隻眼だったことを頭骨から裏付けるものと説明しています。
両目を開いた肖像
Wikipedia には、狩野安信が描いた肖像が、政宗の遺言に従って両目を開いた状態で描かれていると書かれています。生前の希望で右目を黒く描いた肖像もあるとされ、肖像の描き方に政宗の希望が反映されていたことが分かります。
瑞鳳殿には政宗の木像も安置されています。扉は普段閉じられ、命日など年に数回開帳されるそうです。
死因は「推定」であることに注意
「食道噴門癌による癌性腹膜炎」という死因は、Wikipedia が「とされている」と書くものです。当時の記録に残る症状(飲み込みにくさ、嘔吐、腹部の腫れ)からの推定であり、診断書があるわけではありません。ここでは「とされる」として扱うのが正確です。
ゆかりの地と関連する人物
日比谷公園(東京都千代田区)
仙台藩外桜田上屋敷の跡で、政宗が亡くなった場所です。「伊達政宗終焉の地」の説明サインが設けられています。
瑞鳳殿(仙台市青葉区霊屋下23-2)
政宗の霊屋で、墓所です。公式サイトによる情報は次のとおりです。
- 拝観料(個人):一般・大学生570円、高校生410円、小・中学生210円
- 開館時間:2月1日〜11月30日は9:00〜16:50(最終入館16:30)、12月1日〜1月31日は9:00〜16:20(最終入館16:00)
- 休館日:12月31日。1月1日は瑞鳳殿のみ開館
- アクセス:るーぷる仙台の「瑞鳳殿前」から徒歩約7分。路線バスは仙台駅西口から約15分の「霊屋橋・瑞鳳殿入口」から徒歩約10分
料金や時間は変わることがあるので、行く前に公式サイトで確かめてください。
感仙殿と善応殿
同じ敷地には、二代藩主・伊達忠宗の霊屋「感仙殿」と、三代藩主・伊達綱宗の霊屋「善応殿」があります。感仙殿は1664年に四代藩主・綱村が建立し、1945年の戦災で焼失、1985年に再建されました。善応殿は1716年に竣工し、同じく1985年に再建されています。
綱宗の死去は殉死の禁令後だったため殉死者はおらず、家臣が出家して弔う「擬殉」が行われたと公式サイトにあります。
関連する人物
- 愛姫:正室。田村清顕の娘
- 伊達忠宗:政宗の死後、遺領を継ぐことが許された藩主
- 徳川家光:死の3日前に政宗を見舞った三代将軍
このほか、位牌は昌傳庵(仙台市)、瑞巌寺(松島町)、妙心寺塔頭の蟠桃院(京都市)にあり、供養墓は高野山奥の院にあります。
よくある質問
伊達政宗はどこで亡くなりましたか?
江戸の仙台藩外桜田上屋敷で亡くなりました。現在の日比谷公園内にあたります。
伊達政宗の死因は何ですか?
食道噴門癌による癌性腹膜炎とされています。亡くなる約2年前から食欲不振や飲み込みにくさがあり、江戸に入った時は絶食が続いて腹部が腫れていました。
伊達政宗は何歳で亡くなりましたか?
享年は70で、満年齢では68歳です。没年月日は寛永13年5月24日(1636年)です。
伊達政宗のお墓はどこですか?
仙台市青葉区の瑞鳳殿です。経ヶ峯に、死去の翌年の寛永14年(1637年)に造営されました。現在の建物は、1945年の戦災で焼失したあと、1979年に再建されたものです。
伊達政宗の遺体の調査で何が分かりましたか?
身長は159.4cm、血液型はB型でした。2019年の国立科学博物館の調査では、頭骨の眼窩の高さに左右で2.5mmの差があり、隻眼だったことが裏付けられたと説明されています。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。






