今川了俊

結論:了俊は九州を平定した名将であり、歌と史論も残した人物。解任の理由は一つに定まらない

今川了俊(貞世)は、室町幕府の九州探題として南朝方の征西府を追い詰め、南北朝合一の前後に九州の南朝勢力を帰順させた武将です。その一方で、冷泉為秀や二条良基らに和歌・連歌を学び、紀行文『道ゆきぶり』や、今川氏の歴史を子孫に伝える史論書『難太平記』を著しました。「文武両道」と呼ばれるゆえんです。

ただし、生没年には異説があり、九州平定の後に探題を罷免された理由も、史料から一つに断定できません。この記事では、確かめられる事実と、説が分かれる点を分けて整理します。

基本情報

  • 生年:嘉暦元年(1326年)が定説。『今川記』『今川家譜』は正中2年(1325年)とする
  • 没年:応永27年8月28日(1420年10月5日)とされるが異説があり、享年も87〜96歳と諸説ある
  • 時代:南北朝時代〜室町時代
  • 立場:室町幕府の武将。侍所頭人・山城守護を経て九州探題。法名は了俊、名は貞世、通称は六郎、官位は左京亮・伊予守
  • 父・兄弟:父は今川範国。兄に範氏、弟に氏兼・仲秋
  • 主な業績:九州探題として征西府を攻略、1393年までに九州の南朝勢力を帰順させた
  • 主な著作:『難太平記』『道ゆきぶり』『鹿苑院殿厳島詣記』『二言抄』『言塵集』『了俊一子伝』
  • 墓所:静岡県袋井市の海蔵寺

今川了俊の生涯:九州探題としての功績と水島の変

畿内での活動と出家

了俊は足利氏一門の今川範国の子として生まれました。観応の擾乱では将軍方として戦い、1366年から1368年にかけて侍所頭人と山城守護を務めています。貞治6年(1367年)に将軍・足利義詮が亡くなると出家し、「了俊」と名乗りました。

この前後の1365年、兄の範氏が亡くなっています。父の範国は駿河守護の地位を了俊に譲ろうとしましたが、了俊は辞退しました。その後は、甥の今川氏家・泰範の家督継承にも関わっています。

九州探題への就任と大宰府攻略

応安3年(1370年)ごろ、細川頼之の推薦で九州探題に任じられました。了俊は1371年11月29日に長門の赤間関に到着し、翌1372年8月12日に大宰府を攻略します。九州の南朝方の拠点であった大宰府を押さえたことが、その後の戦いの土台になりました。

水島の変と島津氏の離反

1375年、了俊は肥後へ侵攻しました。同年8月26日の「水島の変」で、陣中にいた少弐冬資を謀殺します。ところがこの事件をきっかけに島津氏久が離反し、了俊は9月8日に水島から撤退しました。味方に引き入れるべき相手を死なせたことで、軍勢の足並みを崩した出来事です。

島津氏との戦いはその後も長引き、1379年の蓑原の合戦では敗れています。それでも征西府に対しては優勢を保ち、1381年には隈府城などを落としました。

南北朝合一と九州平定

1392年の南北朝合一を機に、了俊は菊池武朝と和睦します。1393年までに九州の南朝勢力は帰順しました。足かけ二十年余りにわたる九州経営が、ここで一つの区切りを迎えます。

了俊は本当に「文武両道」か?解任の理由と著作をめぐる諸説

九州探題の罷免:なぜ解かれたのか

応永2年(1395年)、了俊は上京を命じられ、九州探題を罷免されました。後任は渋川満頼です。平定の功があった人物が解任された理由については、次のような説が挙げられています。

  • 将軍・足利義満が、九州で力をつけた了俊を警戒したとする説
  • 大友親世や大内義弘との対立が深まったとする説
  • 九州の大名どうしの協調関係が崩れたとする説

どれか一つが決定的だったとは言い切れず、複数の要因が重なったと見るのが無理のない読み方です。

『難太平記』は何を語る書物か

『難太平記』は応永9年(1402年)に了俊が著した書物で、子孫に向けて今川氏と足利氏の歴史を伝える内容です。題名は後世のものとみられ、前半では『太平記』が今川氏の働きを軽く扱っていることへの不満が述べられています。

今川氏は南北朝期に台頭した新しい勢力であり、了俊は父・範国以前の家の歴史が乏しいことを嘆いています。系図や先祖の事績を持たない家を「氏なき民」にたとえ、家の忠節と戦功を記録に残そうとしました。

一方で、この書には了俊自身の不満も表れています。九州探題の解任に関わった人物として斯波義将や渋川満頼への恨みが書かれ、甥の今川泰範への批判や、義満への不満もうかがえます。研究者は、この書を了俊の政治観と自己弁護を示す史料として、隠れた動機にも注意しながら読んでいます。

応永の乱と晩年

『難太平記』は応永の乱をめぐり、鎌倉公方・足利満兼の挙兵を正当化しつつ、了俊自身の関与は否定し、責任を大内義弘に転嫁しています。これについて小川剛生氏は、了俊が大内義弘の要請に応じて満兼と義弘の間を仲介し、満兼の援助を受けていたと論じています。平瀬直樹氏は、これを仲介の事実を隠すための自己弁護と見ています。ここは研究者の間で見方が分かれる点です。

応永の乱(1399年)の際、了俊には応永7年(1400年)1月に追討令が出されましたが、同年10月に赦免されました。以後は「堀越」の名字を名乗るよう命じられています。

歌人としての了俊

了俊は冷泉為秀、京極為基、二条良基らに和歌や連歌を学びました。勅撰和歌集には計5首が入集しています。歌人の正徹との交流も知られています。

著作には、九州下向の道中を記した紀行文『道ゆきぶり』、『鹿苑院殿厳島詣記』、歌学書の『二言抄』『言塵集』『了俊一子伝』があります。戦場に立った人物が、歌学の理論書まで残した点が、「文武両道」と評されるゆえんです。

ゆかりの地と関連する人物

海蔵寺(静岡県袋井市)

了俊の墓所は、静岡県袋井市の海蔵寺にあります。愛知県西尾市今川町にも供養墓があります。

関連する人物

  • 今川範国:父。了俊の家の歴史の出発点として、『難太平記』でも重みを持つ
  • 細川頼之:了俊を九州探題に推薦した人物
  • 足利義満:了俊を罷免した将軍
  • 少弐冬資:水島の変で謀殺された九州の武将
  • 島津氏久:水島の変の後に了俊から離反した武将
  • 菊池武朝:南北朝合一の際に了俊と和睦した人物
  • 二条良基・冷泉為秀:和歌・連歌の師
  • 渋川満頼:了俊の後任の九州探題

子には貞臣、各和貞継、言世、尾崎貞兼らがおり、弟の仲秋は養子になっています。

よくある質問

今川了俊は何歳まで生きたのですか?

応永27年(1420年)没とする説に立つと、享年は87〜96歳と諸説あります。生年にも嘉暦元年(1326年)と正中2年(1325年)の二説があり、確定していません。

了俊とはどんな人物ですか?

足利氏一門の今川氏に生まれ、九州探題として南朝勢力を抑えた武将です。同時に歌人として勅撰和歌集に5首が入り、『難太平記』などの著作も残しました。

水島の変とは何ですか?

1375年8月26日、肥後に出陣した了俊が水島の陣で少弐冬資を謀殺した事件です。これをきっかけに島津氏久が離反し、了俊は9月8日に水島から撤退しました。

九州探題を解任されたのはなぜですか?

応永2年(1395年)に罷免されましたが、理由は一つに定まりません。義満の警戒、大友親世や大内義弘との対立、九州大名の協調関係の崩壊など、複数の説があります。

『難太平記』は信頼できる史料ですか?

今川氏と足利氏の歴史を伝える貴重な書ですが、家の名誉を守る目的や了俊自身の不満が反映されています。研究者は、そうした動機を踏まえて読んでいます。