結論:同志として維新を進め、国の進路をめぐって決裂した二人
西郷隆盛と大久保利通は、薩摩藩の鹿児島城下で育った同郷の仲間です。若いころから学問の場を共にし、幕末には薩摩藩の中心で動き、明治になると廃藩置県まで進めました。
二人が分かれたのは1873年(明治6年)の明治六年政変です。西郷は朝鮮への使節派遣を主張し、内政を優先する岩倉具視や大久保らの側が派遣を延期させ、西郷は辞表を出して鹿児島へ帰りました。4年後の1877年に西南戦争が起こり、西郷は9月24日に城山で49歳で亡くなります。大久保は翌1878年5月14日、東京の紀尾井町清水谷付近で不平士族6人に襲われて亡くなりました(満47歳)。
この記事では、幼少期から最期までを、二人の関係に注目して順に見ていきます。
基本情報
- 西郷隆盛:1828年1月23日(文政10年12月7日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町に生まれる。1877年(明治10年)9月24日没。薩摩藩士から明治政府の参議・陸軍大将となり、のち西南戦争の中心に立った
- 大久保利通:1830年9月26日(文政13年8月10日)、鹿児島城下の高麗町に生まれ、幼少期に加治屋町へ移る。1878年(明治11年)5月14日没。薩摩藩士から明治政府の参議・大蔵卿・初代内務卿となった
- 時代:幕末から明治時代
- 二人の関係:同じ郷中・藩校で学んだ同郷の仲間。幕末は薩摩藩の同志、明治六年政変以降は政治上の対立者
- 最期:西郷は西南戦争の最後の戦い(城山)で自害、大久保は紀尾井坂の変で暗殺
西郷隆盛と大久保利通の関係:幼少期から薩長同盟・廃藩置県まで
同じ加治屋町で学んだ二人の出会い
西郷は加治屋町の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれました。大久保は高麗町の生まれで、父は薩摩藩士の大久保利世です。幼少期に大久保は加治屋町へ移り、郷中や藩校の造士館で西郷らと学んだと記されています。生まれ年は西郷が1828年、大久保が1830年で、西郷のほうが年上です。
西郷には少年期の挫折もありました。1839年、郷中の争いの仲裁に入って右腕に傷を負い、武術を断念して学問に進むことにしたといいます。
1850年には、薩摩藩でお由羅騒動が起こりました。西郷は赤山靭負の切腹をきっかけに島津斉彬が藩主になることを願うようになり、同じ年、大久保(当時は正助)らと『近思録』の輪読会を始めています。大久保の側でも、この騒動で父が流罪となり、本人も謹慎処分を受けました。二人はこの時期に、同じ政争の余波の中にいたことになります。
島津斉彬のもとで広がった視野
1851年に島津斉彬が薩摩藩主となり、西郷は1854年、斉彬の江戸参勤に従って「御庭方役」として直接教えを受けました。1858年7月16日に斉彬が急逝すると、西郷は殉死を考えたものの、月照らに説得されて斉彬の遺志を継ぐ決意をしたと伝えられています。
この年の11月、西郷は月照とともに竜ヶ水沖で入水し、西郷だけが蘇生しました。その後、西郷は奄美大島への潜居にあたり、大久保らに後事を託しています。大久保はこの西郷の失脚後、精忠組を率いる立場になりました。
島流しと再会を支えた大久保
西郷は1859年2月(安政6年1月)に奄美大島へ向けて山川港を出て、同月のうちに龍郷村へ入りました。1862年7月には徳之島へ移され、のちに沖永良部島へ遠島となります。一方の大久保は、1860年3月11日に島津久光と初めて面会し、1861年10月23日に御小納戸役に抜擢されて藩政に関わるようになりました。
西郷が赦免され召還されたのは1864年のことです。西郷の項には、この召還が大久保や小松帯刀の後押しによるものだったと書かれています。鹿児島に残って藩内で地位を築いた大久保が、島にいた西郷を呼び戻す形になりました。
薩長の提携と討幕へ
1866年1月21日ごろ、西郷は桂小五郎(木戸孝允)と小松帯刀邸で薩長提携の六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその内容に裏書きをしました。いわゆる薩長同盟です。
大久保は1867年9月8日、京都で長州藩の広沢真臣らと三藩盟約を結んでいます。1868年1月3日(慶応3年12月9日)には王政復古の大号令を断行しました。
戊辰戦争では、西郷が東海道先鋒軍の参謀として進軍し、1868年3月13日・14日に勝海舟と会談しました。4月11日には江戸城の明け渡しが行われています。
廃藩置県で見せた息の合った動き
明治政府は1871年8月29日(明治4年7月14日)に廃藩置県を行いました。この改革には、大久保と木戸孝允が秘かに集権化を進めていたという経緯があります。西郷は同年8月21日(旧暦7月6日)、山県有朋に説得されて同意しました。薩摩の士族を養う負担に苦しみ、藩制の限界を感じていたことも背景にあったとされます。
西郷の同意を得たあと、薩長の指導者7人が木戸邸で計画を練りました。抵抗を抑えるために用意されたのは、薩摩・長州・土佐の兵から成る強大な親兵(御親兵)です。大久保と西郷が同じ方向を向いていた最後の大きな場面といえます。
西郷隆盛と大久保利通の決別:明治六年政変から西南戦争・紀尾井坂の変まで
岩倉使節団と留守政府
1871年11月(旧暦)、大久保は岩倉使節団の副使として欧米へ出発しました。出発は新暦で1872年1月1日(明治4年11月12日)に当たり、西郷らが留守政府を預かりました。
使節団と留守政府の間では、同年11月7日に12ヶ条の約定が交わされ、その中に「大規模な内政改革は行わないこと」が含まれていたと記されています。その一方、学制や秩禄処分などの大きな改革は、留守政府の期間に決まったとも書かれており、帰国した側との食い違いが生じました。なお、西郷は政治方針の多くを他の参議に任せていたとされます。
明治六年政変:遣使をめぐる対立
1873年8月17日の閣議で、西郷を朝鮮への使節とする案が決まりましたが、日程などの詳細は決まっていませんでした。9月13日に帰国した岩倉は、内治優先の立場から派遣の延期を主張します。大久保は財政が厳しい中で開戦は難しく、まず国力を充実させるべきだと考えていたとされ、10月12日に伊藤博文の奔走で参議に復帰しました。
10月15日の閣議でも西郷の派遣は再確認されましたが、17日に岩倉が辞意を示し、18日に三条実美が発病、20日に岩倉が太政大臣摂行に就きます。この過程で、大久保が考えた「秘策」として、明治天皇が三条邸を見舞ったあと岩倉邸に行幸したと記されています。10月23日に岩倉が天皇に経緯を奏上し、24日に遣使の延期が決まりました。
西郷は10月23日に辞表を出し、24日に受理されて参議と近衛都督を辞めました(陸軍大将の辞任は却下)。同じ24日に板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の参議も辞表を出し(受理は25日)、西郷らに近い軍人・官僚600名余りも辞職したとされます。西郷は11月10日に鹿児島へ帰り着きました。ページには、大久保がこの政変で西郷と対決する覚悟を固め、遺書を残したとも書かれています。
このとき政府が分かれたのは「征韓論」という名前で語られることが多いのですが、西郷の主張は使節を送ることでした。派遣の可否と時期をめぐる争いだったことは押さえておきたい点です。
西南戦争:敵味方になった二人
西郷は帰郷後、鹿児島で過ごします。1874年6月ごろに鹿児島に私学校がつくられ、1877年1月29日、私学校の生徒が陸軍の草牟田火薬庫を襲撃しました。2月15日には薩軍の一番大隊が鹿児島から出発し、西南戦争が始まります。熊本城の総攻撃は2月22日、田原坂の戦いは3月1日から20日までで、20日に政府軍が田原坂を奪いました。
大久保は西南戦争で京都で政府軍を指揮したとされます。8月15日に和田峠で最後の大戦に敗れた西郷は、翌16日に解軍の令を出し、9月1日に鹿児島へ入って城山を占拠しました。9月24日午前4時に政府軍の総攻撃が始まり、西郷は被弾して自害しました。49歳でした。大久保は西郷の死を知って号泣したとされています。
紀尾井坂の変:大久保の最期
1878年5月14日の午前8時半ごろ、大久保は二頭立ての馬車で、赤坂の仮皇居へ向かう途中でした。紀尾井町の清水谷、紀尾井坂のふもと近くで、士族6人(石川県出身5人、島根県出身1人)に襲われます。島田一郎が中心だったと記されています。襲撃者は馬の脚を切り、馬車の両側の戸をふさいで大久保を引き出し、御者の中村太郎も殺害されました。
襲撃者は斬奸状を携えていました。内容は、言論を封じ民権を抑えている、法が不安定で人事が情実に流れている、公共事業に無駄が多い、国を憂う人々を抑えて内乱の原因をつくった、外交を誤り国威を損なった、の5項目です。5月17日には青山霊園で葬儀が行われています。
二人の最期をめぐるエピソードと、よくある誤解
大久保が持っていた西郷の手紙
紀尾井坂の変の記録によると、大久保は西郷からの手紙を入れた袋を携えており、うち2通は胸のポケットに入っていました。襲撃のとき、大久保は馬車の中で書類を読んでいたとされます。持っていた書類には、前日の1878年5月13日付の楠本正隆の手紙もあり、血に染まったその手紙は重要文化財に指定されています。
手紙の内容は資料に書かれていないため、何が書かれていたのかは分かりません。それでも、政治上は敵味方に分かれた相手の手紙を、亡くなる日にも身につけていた事実は残っています。
よくある誤解:「親友が殺し合った」ではない
二人の最期は並べて語られがちですが、大久保を襲った6人が携えた斬奸状に挙げられていたのは、言論の抑圧、人事、公共事業、外交といった大久保の政治への批判の5項目でした。この文書に西郷の名が出てくるとは、参照した資料には書かれていません。
西郷の死後の扱いにも触れておきます。1877年2月25日に官位を褫奪され、1889年2月11日、大日本帝国憲法の発布に伴う大赦で赦されて正三位を追贈されました。
「遣使は戦争のため」という単純な話ではない
明治六年政変は「戦争を望んだ西郷」と「平和を望んだ大久保」の対立と説明されることがあります。ただ、経過を追うと、閣議で決まった遣使を延期するかどうか、その手続きを岩倉・三条実美・明治天皇を通じてどう進めるか、という政治の動きが大きな部分を占めています。大久保が閣議で遣使に明確に反対した発言の記録は、参照した資料にはありません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 加治屋町(鹿児島市):西郷が生まれ、大久保が幼少期に移り住んだ町
- 城山(鹿児島市):西郷が最期を迎えた場所。死没地は当時の鹿児島府下山下町(現在の城山町)と記されている
- 南洲墓地(鹿児島市上竜尾町):西郷は当初、浄光明寺跡に仮埋葬され、1879年(明治12年)に南洲墓地へ改葬された
- 紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町):大久保が襲われた紀尾井町清水谷付近
- 青山霊園(東京都港区):大久保の墓所
関連する人物
- 島津斉彬:薩摩藩主。西郷を御庭方役に取り立てた
- 島津久光:大久保が登用された薩摩藩の実力者
- 小松帯刀:薩長提携の舞台となった邸宅の主で、西郷の召還を後押しした一人
- 木戸孝允(桂小五郎):長州藩の代表として西郷と提携を結び、廃藩置県でも大久保と共に動いた
- 岩倉具視:使節団を率い、帰国後は内治優先の立場で遣使の延期を主張した
よくある質問
西郷隆盛と大久保利通は幼なじみですか?
同じ薩摩藩の鹿児島城下で育ちました。西郷は加治屋町の生まれで、大久保は高麗町で生まれたあと幼少期に加治屋町へ移り、郷中や造士館で西郷らと学んだと記されています。
二人が決裂した原因は何ですか?
1873年の明治六年政変です。朝鮮への遣使を主張する西郷に対し、岩倉や大久保らが内治優先の立場から派遣を延期させ、西郷は辞表を出して鹿児島へ帰りました。
西郷隆盛はどこで、いつ亡くなりましたか?
1877年9月24日、西南戦争の最後の戦いで、鹿児島の城山で自害しました。49歳でした。
大久保利通はどのように亡くなりましたか?
1878年5月14日の朝、東京の紀尾井町清水谷付近で、馬車で皇居へ向かう途中に不平士族6人に襲われて亡くなりました(紀尾井坂の変)。数え49歳、満47歳です。
廃藩置県で二人はどう関わりましたか?
大久保と木戸孝允が秘かに集権化を進め、西郷が同意したことで計画が動きました。1871年8月29日(明治4年7月14日)に廃藩置県が行われています。





