結論:田中正造は、足尾銅山の鉱毒被害を議会と直訴で訴え続け、谷中村の廃村後も現地に留まった政治家
田中正造(1841〜1913)は、下野国(現在の栃木県)出身の名主で、のちに衆議院議員になった人物です。日本初の公害事件とされる足尾銅山鉱毒事件で、被害を受けた渡良瀬川流域の農民の側に立ち、帝国議会で政府を追及しました。1901年12月10日には議員を辞めたうえで、東京の日比谷で明治天皇に直訴を試みています。
直訴は警官に取り押さえられて失敗し、正造はその日のうちに釈放されました。その後は鉱毒の被害地・谷中村に入り、村が強制的に廃村となったあとも抵抗を続けます。1913年9月4日、支援者の家で71歳で亡くなりました。遺品は信玄袋ひとつに収まるほどだったと伝えられています。
基本情報
- 生年:1841年12月15日(天保12年11月3日)、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)
- 没年:1913年(大正2年)9月4日、栃木県足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市)で71歳
- 時代:幕末から明治時代
- 立場:名主、栃木県議会議員・議長、衆議院議員
- 主な業績:足尾銅山鉱毒事件の告発、議会での質問、明治天皇への直訴の試み、谷中村での抵抗
- 墓所:遺骨は栃木・群馬・埼玉の6か所に分骨されている
田中正造と足尾銅山鉱毒事件:議員から直訴までの歩み
名主の家に生まれ、県議会議長へ
正造は小中村の名主の家に生まれ、父のあとを継いで名主になりました。1868年には、領主に対する抗議の動きにかかわって投獄されています。その後は自由民権運動の流れのなかで新聞の編集などにも携わり、1880年に栃木県議会議員となって、1886年には議長を務めました。
1890年の第1回衆議院議員総選挙では、栃木3区から初当選しています。ちょうど同じ年の8月、渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認されました。鉱毒の問題は、正造が国会議員になったその年に、地域の大きな問題として表に出てきたのです。
渡良瀬川の異変と古河市兵衛の経営
足尾銅山は1877年に古河市兵衛が買収しました。洋式の技術を取り入れた結果、6年後には製銅額が買収時の十数倍になったとされます。一方、渡良瀬川では1878年と1885年にアユの大量死が起き、当時は原因が分かりませんでした。1885年10月31日には、下野新聞が足尾で木が枯れ始めていると報じています。銅の増産と、川や山の異変が、同じ時期に重なっていました。
帝国議会での質問と「亡国」の質問書
正造は1891年(明治24年)の第2回帝国議会から、鉱毒問題を繰り返し取り上げました。速記録には、同年12月25日と26日の質問が残っています。
1900年2月の川俣事件のあとには、「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」を提出しました。同じ年、正造は所属していた政党を離れています。
川俣事件と議員辞職
被害農民は何度も上京して請願する「押出し」を行いました。1897年3月には2,000人余りが上京し、約800人が日比谷に集まっています。この年には鉱毒調査委員会が置かれ、5月には予防令が出されて、濾過池・沈殿池などの設置が命じられました。ところが1898年には、その沈殿池が決壊して鉱毒が再び流れ出しています。
1900年2月の4回目の押出しでは、上京しようとした農民と警察が衝突し、多数の逮捕者が出ました。これが川俣事件です。正造は国会で抗議しましたが、事態は動かず、1901年に衆議院議員を辞職しました。
明治天皇への直訴の真実と、谷中村の悲劇
1901年12月10日の直訴
1901年12月10日、正造は日比谷で、帝国議会の開院式から戻る明治天皇に直訴しようとしました。しかし警備の警官に取り押さえられ、直訴状が天皇に届くことはありませんでした。
政府はこれを、狂人が馬車の前によろめいただけの出来事として扱い、正造は即日釈放されました。
直訴状は、幸徳秋水が書いたものに正造が手を入れたと伝えられています。正造自身がすべてを書いたわけではない点は、教科書に載りにくい事実です。
鉱毒調査委員会と、谷中村が選ばれた経緯
1902年3月、勅令で第二次の鉱毒調査委員会が設置されました。1903年には、予防工事のあと鉱毒は減ったという結論が出されています。
鉱毒の発生源を止めるより、下流の谷中村一帯を洪水対策の遊水池にする方向が進みました。1904年12月10日、栃木県議会は秘密会で谷中村の買収を決めています。買収額は、鉱毒で作物が育たなくなった後の地価を基準に、田が1反あたり20円、畑が30円でした。これは近隣の村の約5分の1の価格だと、谷中村の記録には書かれています。
谷中村の廃村と1907年の強制破壊
谷中村は、およそ1904年の時点で人口約2,500人、387戸、面積約10平方キロメートルの村だったとされます(出典により数字には幅があります)。1906年3月、栃木県は住民に4月17日までの立ち退きを命じました。4月15日の村会は合併案を否決しましたが、5月11日に県は藤岡町への合併を発表し、7月1日付で谷中村は廃村となりました。
1907年1月には土地収用法の適用が告げられ、多くの住民が村を離れます。そして6月29日から7月2日にかけて、残った住民の家が強制執行で壊されました。壊されたのは16戸で、そのなかに正造の家も含まれます。正造は1904年7月から実質的に谷中村に住んでいました。壊されたあとも16戸は村に住み続け、その後1戸が去っています。
谷中村のその後
1908年7月21日には、村の全域が河川敷として指定されました。1914年には残った住民が正造をまつる田中霊祠を建てましたが、河川法違反で逮捕され、罰金を科されています。1917年2月、約18人が藤岡町に移り、村はほぼ無人になりました。
田中正造の最期と遺品、事件のその後
71歳の最期
正造は晩年、支援者のもとを訪ね歩いていました。1913年9月4日、栃木県足利郡吾妻村下羽田の支援者の家で亡くなります。財産はほぼ使い果たしており、遺品は信玄袋ひとつだったとされます。
信玄袋の中身
袋に入っていたのは、書きかけの原稿、『新約聖書』、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法と『マタイ伝』を合わせた本でした。議員を務めた人物の遺品が、書き物と数冊の本、小さな身の回りの品だけだったことが分かります。
分骨された6か所
遺骨は6か所に分けて納められています。
- 惣宗寺(佐野市):本葬の寺
- 雲龍寺(館林市):密葬の寺
- 浄蓮寺(佐野市):田中家の菩提寺
- 田中霊祠(栃木市藤岡町):谷中村跡
- 利島小学校敷地内(加須市、現・北川辺西小学校)
- 壽徳禅寺(足利市):1989年に公表された分骨先
その後の渡良瀬川と足尾銅山
渡良瀬川では1910年から1927年にかけて大規模な河川工事が行われました。足尾銅山は1973年に閉山しています。1972年に農民971人が古河鉱業を相手に調停を申請し、1974年5月11日に調停が成立して、古河鉱業が加害責任を認めました。補償金は15億5,000万円でした。事件は正造の死後も、半世紀以上にわたって続いたことになります。
ゆかりの地と関連する人物
- 佐野市小中町:正造の生誕地。生家のあった小中村にあたる
- 旧谷中村跡(栃木市):現在は渡良瀬遊水地の一部。谷中村役場跡や雷電神社跡などの遺構があり、見学できる
- 旧谷中村の合同慰霊碑:栃木市藤岡地区にある
- 幸徳秋水:直訴状を書いたと伝えられる人物
- 古河市兵衛:1877年に足尾銅山を買収した経営者
よくある質問
田中正造の直訴は成功したのですか。
直訴状は天皇に届かず、形の上では失敗しました。正造は警官に取り押さえられ、その日のうちに釈放されています。
直訴状は田中正造が書いたのですか。
幸徳秋水が書いたものに、正造が加筆修正したと伝えられています。
谷中村はなぜなくなったのですか。
洪水対策の遊水池にするために、栃木県が土地を買い上げたからです。1906年7月1日に藤岡町へ合併されて村はなくなり、1907年には残った住民の家が強制執行で壊されました。
田中正造の遺品には何があったのですか。
信玄袋ひとつに、書きかけの原稿、『新約聖書』、日記3冊、小石3個などが入っていたとされます。
田中正造の墓はどこにありますか。
遺骨は佐野市の惣宗寺や浄蓮寺、館林市の雲龍寺、栃木市藤岡町の田中霊祠、加須市、足利市の壽徳禅寺の6か所に分けられています。




