結論:北斎の代表作は『冨嶽三十六景』と『北斎漫画』。作風は改号とともに変わり、最晩年まで描き続けた
葛飾北斎の代表作は、1831〜34年(天保2〜5年)に刊行された錦絵の揃物『冨嶽三十六景』と、1814年(文化11年)に初編が出た絵手本『北斎漫画』です。前者は当初36図の予定でしたが、売れ行きが好調で10図が追加され、全46図になりました。
北斎は生涯に30回以上画号を改めたとされ、勝川春朗、宗理、北斎、戴斗、為一、画狂老人卍と名を変えるたびに、役者絵、読本挿絵、風景画、肉筆画へと主戦場を広げました。亡くなったのは1849年(嘉永2年)で、この年にも「九十老人卍筆」と落款を入れた作品が15点ほど確認されています。
この記事では、代表作を年代順にたどりながら、生年や享年、娘・応為との関係など、史料の上で説が分かれる点も整理します。
基本情報
- 生没年:宝暦10年9月23日(1760年10月31日)〜嘉永2年4月18日(1849年5月10日)。生年は、85歳の作品『大黒天図』の落款にある「宝暦十庚辰年九月甲子ノ出生」が根拠とされる
- 時代:江戸時代後期
- 身分・職業:浮世絵師。勝川春章に入門し、のちに独立
- 出生地:本所割下水とする説が有力
- 代表作:『冨嶽三十六景』『北斎漫画』『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』『百物語』、花鳥画、小布施の祭屋台の天井絵
- 没した場所:浅草聖天町の遍照院境内の長屋
葛飾北斎の作品で知っておくべき代表作と年代
『冨嶽三十六景』:36図の予定が46図になった大ヒット作
『冨嶽三十六景』は大判の錦絵で、版元は西村屋与八(永寿堂)です。刊行は1831年(天保2年)から、『富嶽百景』の版行が始まる1834年頃までと考えられています。当初の計画は36図でしたが、好評のため10図が加わりました。この追加分は「裏富士」と呼ばれます。
落款には変化があります。早い時期の10図は「北斎改為一筆」、その後は「前北斎為一筆」と署名されており、落款の違いから制作順を推測する研究があります。『神奈川沖浪裏』『凱風快晴』『山下白雨』は、この推測では最初期の10図に含まれます。
この揃物では、輸入された化学染料のプルシアン・ブルー(ベロ藍)が使われました。藍の単色摺りやベロ藍を主体にした作品は10図あります。「裏富士」の10図は主版が墨摺りで、それ以外の36図は在来の藍を主版に用いています。ベロ藍が流行した背景には、天保の改革の奢侈禁止令で錦絵の色が制限されたことがある、と説明されています。
『諸国瀧廻り』と『諸国名橋奇覧』:為一期の揃物
『諸国瀧廻り』は1833年(天保4年)頃の大判錦絵で全八図、『諸国名橋奇覧』は1834年(天保5年)頃で全十一図です。どちらも「前北斎為一筆」の落款があり、版元は西村屋与八と見られます。
瀧廻りの特徴は、名の知れた滝だけでなく、民間信仰の対象になっている場所を選んでいることです。名橋奇覧には、実在せず言い伝えだけが残る橋も含まれます。風景を写すだけでなく、土地の信仰や伝承まで題材にしていた点が分かります。
『百物語』と花鳥画:同じ頃に描かれた別ジャンル
『百物語』は1831年(天保2年)頃の中判錦絵で、現在確認されているのは「お岩さん」「さらやしき」「笑ひはんにや」「しうねん」「小はだ小平二」の5図です。百図まで続かなかった揃物で、怪談を題材にしています。
花鳥画も天保期に集中します。天保初期(1830〜31年頃)の大判に『芥子』『杜若にきりぎりす』『牡丹に蝶』『朝顔に蛙』『菊に虻』があり、1834年には長大判の『桜に鷹』が作られました。富士の風景と同時期に、怪談と花鳥を描き分けていたことになります。
葛飾北斎の生涯と画風の変化:30回以上の改号と最晩年
勝川春朗から北斎へ:入門と改号の流れ
1778年(安永7年)に勝川春章に入門し、「勝川春朗」の名で1779年の役者絵が初出の作品とされます。1794年(寛政6年)頃に俵屋宗理を襲名したとされ、1795年頃から落款に「宗理」が見られます。「葛飾北斎」の号は1805〜1809年頃に使われ、続いて1810年頃から1819年まで戴斗、1820年頃から1833年まで為一を名乗りました。
「画狂人北斎」という落款は享和年間(1801〜04年)の作品に見られます。また、1807年の『椿説弓張月』をはじめ、曲亭馬琴らと組んだ読本の挿絵は、総数で約200冊、約1400図とされます。
『北斎漫画』:3900余の図を収めた絵手本
『北斎漫画』は1814年(文化11年)に初編が出て、1878年(明治11年)までに全15編が刊行されました。1812年(文化9年)には名古屋の門人・牧墨僊の家で、300余の版下絵を描いたとされます。収められた図案は総数3900余です。
この絵手本は、シーボルトによってヨーロッパに持ち込まれたとされ、『ホクサイ・スケッチ』の名で親しまれました。
画狂老人卍:70代以降も続いた創作
1834年(天保5年)の『富嶽百景』の自跋で、北斎は「画狂老人卍」の号を使い、半生と今後の決意を語っています。「卍」を含む落款は天保期以降の作品に多く、1839年の『西瓜図』には「画狂老人卍翁筆齢八十」、1840年には「画狂老人卍筆 齢八十一」と署名した作品があります。
肉筆画の面では、1835〜1844年頃の『肉筆画帖』(十図)、1842〜43年の『日新除魔図』があります。『日新除魔図』は九州国立博物館が219枚を所蔵しています。1846年の『朱描鍾馗図』はメトロポリタン美術館の所蔵です。
小布施での制作:高井鴻山に招かれて
1844年(天保15年)、門人の高井鴻山に招かれて信州の小布施を訪れ、東町祭屋台の天井絵『龍図』『鳳凰図』を描きました。1845年(弘化2年)にも再び訪れ、上町祭屋台の天井絵『怒涛図』(男浪・女浪の2面)を描いています。小布施には、岩松院の『八方睨み鳳凰図』も伝わります。
北斎をめぐる諸説:生年・出自・享年・応為との合作
出自の説:川村家の子か、鏡師の子か
生年月日は作品の落款に根拠がありますが、父親ははっきりしません。川村家の子とする説と、幕府御用の鏡師・中島伊勢の子または養子とする説があり、確定していません。幼名を時太郎、のちに鉄蔵とするのも通説です。
享年は88歳か90歳か
没年の嘉永2年(1849年)に、北斎は「九十老人卍筆」と署名しています。数え年で数えれば90歳に当たります。一方、生年を1760年10月31日、没日を1849年5月10日とすると、満年齢では88歳です。Wikipediaでも、情報欄は88歳、本文は90歳(卒寿)と、表記に揺れがあります。数え年か満年齢かで数字が変わるので、書籍や展示で年齢が違っていても、誤りとは限りません。
娘・応為との合作説
三女のお栄は葛飾応為と名乗る浮世絵師となり、北斎と行動を共にしました。絶筆とされる1849年の『富士越龍図』(北斎館所蔵)について、美術研究家の中には、大部分を応為が手がけた可能性を指摘する人がいます。ただし、これは議論のある見解です。落款は「宝暦十庚辰ノ年出生 九十老人卍筆」で、北斎の名義になっています。
ドビュッシー「海」と『神奈川沖浪裏』
1905年に出版されたドビュッシーの「海」の楽譜の表紙には、『神奈川沖浪裏』が使われました。ただし、曲の着想をこの作品から得たと断定できる根拠は十分ではないとされています。表紙に使われた事実と、作曲の動機は分けて考える必要があります。
ジャポニスムへの影響
『冨嶽三十六景』は、19世紀後半のヨーロッパでジャポニスムを起こし、ヴュイヤールなどに影響を与えました。アンリ・リヴィエールは、これに触発されて『エッフェル塔三十六景』を描いています。マネ、モネ、ゴッホ、ドガらにも影響を与えたと言われます。1998年には、アメリカの雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な100人」に、日本人として唯一選ばれました(86位)。
『冨嶽三十六景』の構図は独創か
河村岷雪の『百富士』(1767年、全4冊)から、構図や全体の構成の影響を受けたと指摘されています。「深川万年橋下」は『百富士』の「橋下」の構図の影響を受けたとされ、「常州牛堀」は、北斎が訪れた記録のない場所なのに、『百富士』の「牛堀常洲」にならったと考えられています。先行作品を踏まえた上で、新しい揃物に仕立てたということです。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- すみだ北斎美術館(東京都墨田区):2016年開館。北斎の生誕地とされる墨田区にある
- 北斎館(長野県小布施町):1976年開館。小布施の祭屋台の天井絵に関わる
- 岩松院(長野県小布施町):『八方睨み鳳凰図』が伝わる
- 遍照院(浅草聖天町):境内の長屋で没した。辞世の句は「悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原」で、墓碑に刻まれている
島根県津和野町には、1990年に開館した葛飾北斎美術館がありましたが、2015年に閉館しています。創設者の所蔵品2,398点は、2017年に島根県へ寄贈されました。
関連する人物
- 勝川春章:1778年に北斎が入門した師
- 曲亭馬琴:読本の挿絵で北斎と組んだ作者
- 葛飾応為:北斎の三女お栄。浮世絵師として北斎と行動を共にした
- 高井鴻山:北斎を小布施に招いた門人
- 牧墨僊:名古屋の門人。1812年に北斎が滞在して版下絵を描いた
- 歌川広重:『東海道五拾三次』(1833年)で、北斎と並ぶ風景画の名手とされる
よくある質問
葛飾北斎の代表作は何ですか?
1831〜34年に刊行された『冨嶽三十六景』(全46図)と、1814年に初編が出た『北斎漫画』が代表作です。『神奈川沖浪裏』『凱風快晴』『山下白雨』は、『冨嶽三十六景』の中でも最初期のグループに含まれます。
北斎は何回名前を変えましたか?
30回以上とされています。勝川春朗、宗理、北斎、戴斗、為一、画狂老人卍などが知られ、「北斎」は北斎辰政の略称です。
北斎は何歳で亡くなりましたか?
1849年(嘉永2年)に没しました。数え年なら90歳、生年を1760年10月31日として満年齢で数えると88歳です。資料によって表記が分かれます。
北斎と小布施にはどんな関係がありますか?
1844年に門人の高井鴻山に招かれて小布施を訪れ、祭屋台の天井絵『龍図』『鳳凰図』を描きました。1845年にも再訪し、『怒涛図』を描いています。
『富士越龍図』は本当に北斎だけの作品ですか?
落款は北斎の名義ですが、美術研究家の中には、大部分を娘の応為が手がけた可能性を指摘する人がいます。これは議論のある見解で、確定した事実ではありません。





