結論:木下家定は、秀吉の妻おねの兄として出世し、関ヶ原で動かず家を残した人物
木下家定(1543〜1608)は、豊臣秀吉の正室おね(のちの高台院)の兄です。杉原家に生まれ、妹が木下藤吉郎(のちの秀吉)に嫁いだことで秀吉の家人となり、義弟の姓である「木下」を名乗りました。秀吉の一門衆の中心的な存在となり、姫路城主、大坂城の留守居役を務めました。
1600年の関ヶ原の戦いでは東西どちらにもつかず、京都で高台院の警護にあたりました。徳川家康はこの態度を中立と評価して減封せず、1601年に備中足守(2万5,000石)へ移しました。家定は慶長13年(1608)に亡くなりましたが、足守の木下家は、後述する曲折を経て明治まで続きました。
基本情報
- 生没年:天文12年(1543)〜慶長13年8月26日(1608年10月4日)、享年66
- 時代:戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期
- 出自:杉原家(母の実家は尾張国朝日村、現在の愛知県清須市)。父は杉原定利(婿養子)。初めは杉原孫兵衛と名乗った
- 立場:豊臣秀吉の正室おね(高台院)の兄。秀吉の一門衆。従五位下肥後守、のちに二位法印
- 領地:播磨姫路2万5,000石、のち備中足守2万5,000石
- 主な働き:姫路城主、大坂城留守居、関ヶ原での中立と高台院の警護、足守藩の初代藩主
- 墓所:京都市東山区の建仁寺塔頭・常光院。高台寺にも高台院が築いた供養墓がある
木下家定とは?杉原孫兵衛から豊臣一門の筆頭格へ
杉原孫兵衛から「木下」姓へ
家定の父・杉原定利は婿養子として杉原家に入った人物です。家定の母の実家は尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)にありました。妹のおねが木下藤吉郎に嫁ぐと、家定は秀吉の家人となり、義弟の姓にならって木下を名乗ります。秀吉と家定のあいだに血縁はありません。つながりは、妹の結婚だけでした。
家定の家族は、ほかにも秀吉の周辺に広がっています。妹の長生院は浅野長政の正室で、長政は家定の義弟にあたります。家定の正室の雲照院は、杉原家次の娘です。
杉原家次の死と、一門衆の筆頭
天正12年(1584)に杉原家次が亡くなると、家定は秀吉の一門衆のなかで筆頭格になりました。翌天正13年(1585)、羽柴秀長が大和郡山城へ移ると、家定は播磨の姫路城の城代になります。
天正15年(1587)9月24日には、播磨国内で1万1,341石を知行し、従五位下肥後守に叙任されました。このとき羽柴の姓と豊臣の姓を与えられ、朝廷から菊と桐の紋の使用も認められています。文禄4年(1595)8月17日には正式に姫路城主となり、2万5,000石に加増されました。
戦場より留守を預かる役目
家定は、大坂城の留守居を務めることが多かったとされます。城と財産を預かる役目なので、信頼できる身内でなければ任せられません。家定の価値は、秀吉に最も近い親族の一人であることでした。
子どもたちはどうなったか
家定には八人の男子が知られています。長男は歌人としても知られる木下勝俊(長嘯子)、次男は利房、三男は延俊、四男は俊定、五男は小早川秀秋、六男は俊忠、七男は秀規、八男は周南紹叔です。
このうち勝俊は、文禄年間に若狭国の後瀬山城と8万1,500石を与えられました。五男の秀秋は、天正12年(1584)に秀吉の猶子となり、翌年に養子となりました。さらに文禄3年(1594)ごろ、秀吉の命で小早川隆景の養子に入っています。家定の子が秀吉の養子となり、さらに別の大名家を継いだことになります。
関ヶ原で動かなかった理由と、足守への移封
東西どちらにもつかず、高台院を守る
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、家定は東西どちらにもつかず、中立を保ちました。京都の新城で、妹の高台院の警護にあたっていたのです。
この間の逸話が一つ伝わっています。9月16日、大津城の戦いから戻った立花宗茂が、大坂城に籠城して秀頼に忠節を尽くすよう家定に勧めました。家定は即答を避け、あらためて相談すると伝えて、この申し出を断っています。
ここで、この時期の木下家の動きを並べておきます。
- 五男・秀秋:小早川家を継いでいた。関ヶ原の戦後、備前岡山55万石に加増・移封された
- 長男・勝俊:家康の命で伏見城の松の丸を守っていたが、戦いが始まると、東軍の鳥居元忠から退去を迫られた。勝俊は城を離れて京都へ向かい、戦後に所領を没収された。改易の理由は、伏見城を離れた独断の行動とされる
- 家定:中立を保ち、高台院の警護にあたった
家族それぞれが別の立場にあったため、家定が最初から全体を見通して配置したのかどうかは、資料からは分かりません。確かなのは、家定が動かなかったことと、家康がそれを減封の理由にしなかったことです。
慶長6年、姫路から備中足守へ
家康は家定を中立と評価し、減封はしませんでした。慶長6年(1601)、家定は備中足守(現在の岡山市北区)へ移され、石高は姫路時代と同じ2万5,000石でした。姫路は、池田輝政に与えられています。
足守には家定の陣屋が置かれ、足守藩が成立しました。ただし家定は領国に下らず、京都に住んで出家しました。慶長9年(1604)7月2日には二位法印に叙されています。
五男・小早川秀秋の最期
岡山藩主となった秀秋は、慶長7年(1602)10月18日に岡山城で亡くなりました。享年21とされています。家定の晩年は、五男に先立たれたあとの時期でもありました。
足守木下家のその後:遺領をめぐる混乱と再興
家定の死と遺領の分割命令
家定は慶長13年(1608)8月26日に亡くなりました。幕府(家康)は、遺領を長男の勝俊と次男の利房に分けて継がせようとしました。ところが、高台院が浅野長政を通じて、遺領をすべて勝俊に与えるよう願い出ます。これが家康の怒りを買い、慶長14年(1609)に木下家の所領は没収されました。
浅野家の時期を経て、利房が再興
足守には、1610年から浅野長政の次男・長晟が2万4,000石で入りました。しかし1613年に兄の幸長が亡くなると、長晟は浅野本家(紀州)を継ぎ、足守は一時的に幕府の直轄になります。
転機は大坂の陣でした。利房は、高台院の大坂城入城を阻止した功により、元和元年(1615)に旧領の足守2万5,000石に復帰します。以後の木下家は、12代、約256年にわたって足守を治めました。三男の延俊は、豊後国に日出藩を興しています。
明治まで続いた足守藩
足守藩は、寛政11年(1799)に約2万2,000石分の領地が陸奥国へ移されて財政が苦しくなるなど、変化もありました。最後の藩主は木下利恭で、明治2年(1869)の版籍奉還で藩知事となり、藩は明治4年(1871)に廃止されました。
家定が興した足守の木下家は、藩がなくなったあとも家として続いています。のちに、詩人の木下利玄が、藩主だった木下利恭の死後に本家を継ぎました。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 建仁寺塔頭・常光院(京都市東山区):家定が葬られた寺で、晩年の家定の肖像画が残っています
- 高台寺(京都市東山区):高台院が築いた家定の供養墓があります
- 足守(岡山市北区):足守藩の陣屋があった地です。木下家の陣屋跡、足守の武家屋敷、木下権之助屋敷門が保存されています。藩主家の庭園である近水園は、陣屋に隣接しています
- 木下利玄生家:足守に、詩人・木下利玄の生家があります
関連する人物
- 高台院(おね):家定の妹。豊臣秀吉の正室で、家定とは関ヶ原の際も京都で行動をともにしました
- 木下勝俊(長嘯子):長男。若狭小浜の領主から、関ヶ原を機に所領を失いました
- 小早川秀秋:五男。秀吉の養子から小早川家を継ぎ、岡山藩主となりました
- 木下利房:次男。大坂の陣のあと、足守藩を再興しました
- 木下延俊:三男。日出藩を興しました
- 浅野長政:家定の義弟。高台院の願いを取り次ぎました
よくある質問
木下家定は秀吉の親戚ですか?
妻の兄にあたります。家定の妹のおね(高台院)が秀吉の正室だったためで、秀吉と家定のあいだに血縁はありません。
なぜ「木下」という名字なのですか?
もとは杉原孫兵衛と名乗っていました。妹のおねが木下藤吉郎(のちの秀吉)に嫁いだことで秀吉の家人となり、義弟の姓である木下を名乗りました。
関ヶ原の戦いで、家定はどちらについたのですか?
どちらにもつかず、中立を保ちました。京都で高台院の警護にあたり、戦後、家康は減封せずに足守へ移しました。
家定は足守に住んでいたのですか?
領国には下らず、京都に住んで出家しました。足守には陣屋が置かれ、藩として成立しています。
足守の木下家はいつまで続いたのですか?
家定の死後、いったん所領を没収されましたが、次男の利房が元和元年(1615)に足守へ復帰しました。その後、約256年、12代にわたって続き、明治4年(1871)に藩が廃止されました。






