夏目漱石 日本史トリビア

結論:本名は「夏目金之助」。「漱石」は正岡子規ゆかりの号

夏目漱石の本名は夏目金之助(読みは「きんのすけ」)です。「金」の字は、生まれた日が庚申の日にあたり、この日に生まれた子は大泥棒になるという迷信があったため、厄除けとして付けられたとされています。

「漱石」は本名ではなく号(ペンネーム)です。中国の故事「漱石枕流」から取られたもので、もとは同窓の友人である正岡子規が数多く持っていた筆名の一つを、のちに漱石が譲り受けたと伝わります。幼少期には養子に出されて塩原姓を名乗り、夏目姓に戻ったのは21歳のときでした。名前の由来には「とされる」と書くしかない部分もあるため、この記事では、確かめられることと諸説あることを分けて整理します。

基本情報

  • 本名:夏目金之助(きんのすけ)
  • 生年:慶応3年正月5日(西暦1867年2月9日)。江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)の生まれ
  • 没年:大正5年(1916年)12月9日、自宅で死去
  • 時代:幕末から明治・大正
  • 主な号:漱石、俳号の愚陀仏
  • 戒名:文献院古道漱石居士
  • 墓所:東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園

夏目漱石の本名「金之助」の由来と、塩原姓から夏目姓へ戻るまで

「金」の字は庚申の日の厄除け

金之助が生まれたのは慶応3年正月5日で、暦の上では庚申の日でした。庚申の日に生まれた赤子は大泥棒になる、という俗信があったため、厄除けの意味で名前に「金」の字を入れたとされています。名前に金があれば盗みを働く必要がない、という発想です。

ここで注意したいのは、この由来が「〜とされる」という形で伝わっている点です。命名のときに誰が何を考えたかを書き残した同時代の記録が、この記事の確認範囲にあるわけではありません。広く知られた説明として受け止めるのが妥当でしょう。

五男として生まれ、里子に出された話

生家は牛込馬場下横町にあり、父は夏目直克です。直克には5男3女がおり、金之助は五男でした。兄は大一、栄之助、和三郎、久吉、姉はさわ、ふさ、ちかの名が伝わっています。母の千枝にとって高齢での出産だったと記されています。

生まれて間もなく、金之助は四谷の古道具屋に里子に出されたと伝わります。姉が不憫に思って実家へ連れ戻した、という話です。里子に出された先を八百屋とする一説もあり、細部は一定しません。

塩原昌之助の養子になる

明治元年(1868年)11月、金之助は新宿の名主だった塩原昌之助の養子になり、塩原姓を名乗ります。つまり幼い頃の名前は「塩原金之助」でした。

ところが養父母の仲が悪く、7歳のときにいったん生家に戻り、9歳のときに養父母が離縁して、あらためて生家に戻りました。Wikipedia でも7歳の時期と9歳の時期が別々の箇所に書かれており、一時的に戻った時期と離縁後に戻った時期を分けて理解すると整理しやすくなります。

復籍は21歳、明治21年1月

生家に戻っても、すぐに夏目姓に戻れたわけではありません。実父と養父の対立のために復籍が遅れ、塩原家から夏目家に籍が戻ったのは明治21年(1888年)1月、21歳のときです。

この養父母との関係は、のちの自伝的な小説『道草』の題材になりました。養父から金を求められる場面も、この作品で扱われています。名前の変遷は、そのまま少年期の落ち着かない暮らしの記録でもありました。

「漱石」の号の由来と、子規から譲られた経緯・諸説

「漱石枕流」という故事

「漱石」の出典は、『晋書』や『世説新語』に見える「漱石枕流」の故事とされます。西晋の孫楚は、田舎で自然のままに暮らしたいと考えていました。友人の王済にそのことを語るとき、本来は「石に枕して流れに漱ぐ」と言うべきところを、「石に漱ぎ流れに枕す」と言い間違えます。

王済が「流れを枕にし、石で口をすすぐことはできないだろう」と指摘すると、孫楚は「流れを枕にするのは耳を洗うため、石で口をすすぐのは歯を磨くためだ」と言い逃れました。ここから「漱石枕流」は、負け惜しみが強いこと、こじつけの理屈が巧みなことを表す言葉になりました。漱石はこの故事を気に入って号にしたとされ、頑固さや世に受け入れられにくい性格を自嘲を込めて表したものと考えられています。

もとは子規の筆名の一つだった

「漱石」はもともと、正岡子規が多数持っていた筆名の一つでした。それを漱石が後に譲り受けた、と記されています。

初めてこの号を使ったとされるのは明治22年(1889年)です。同窓の子規が作った文集『七草集』に対して、漱石が漢文で批評を書いたときでした。この批評をきっかけに、二人の本格的な交友が始まったと説明されています。作家の筆名が、学生時代の友人との往来から生まれたものだとわかります。

俳号「愚陀仏」と、ほかの名前

漱石の俳号は「愚陀仏」です。松山時代に住んだ寓居も「愚陀仏庵」と呼ばれました。号の意味については確かめられた記述がないため、ここでは由来を断定しません。

この記事で確認できた号は「漱石」と「愚陀仏」の二つです。ほかの号は、確かめられなかったため書いていません。

名前をめぐる「よくある誤解」と、ゆかりの記録

「漱石」は本名だという誤解

国語や日本史の授業で「夏目漱石」と習うため、「漱石」まで含めて本名と思われがちです。本名は夏目金之助で、漱石は号です。作品の署名は「夏目漱石」ですが、それは筆名としての名前です。

「塩原金之助」だった時期がある

漱石は、生まれながらずっと夏目姓だったわけではありません。養子に出された明治元年11月から、復籍する明治21年1月までの間、戸籍上は塩原姓でした。「夏目金之助」は、生まれたときの名前であり、21歳でようやく戻ってきた名前でもあります。

戒名と、死後の「漱石」

大正5年(1916年)12月9日、漱石は自宅で亡くなりました。戒名は「文献院古道漱石居士」で、号の「漱石」の字が戒名に入っています。生前の名前の変遷が、死後の名にも反映されているのは興味深い点です。なお、解剖の際に取り出された脳は寄贈され、現在も東京大学医学部で保管されていると記されています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 生誕地(新宿区喜久井町):江戸牛込馬場下横町にあった生家の跡です。生家の前の坂を「夏目坂」と名付けたというエピソードが、新宿区のページに残っています。
  • 漱石山房記念館(新宿区):生誕150周年を記念して開設された、新宿区立の記念館です。開館日や観覧料は、公式の案内で確認してください。
  • 雑司ヶ谷霊園(豊島区南池袋):墓所は同霊園の1種14号1側3番です。

関連する人物

  • 正岡子規:「漱石」の号のもとの持ち主で、『七草集』の批評をきっかけに交友が深まった同窓の友人です。
  • 塩原昌之助:新宿の名主で、金之助の養父です。
  • 夏目直克:実父です。復籍をめぐって塩原昌之助と対立したと記されています。

よくある質問

夏目漱石の本名は何ですか。

夏目金之助(なつめ きんのすけ)です。「漱石」は、のちに使うようになった号です。

なぜ「金之助」という名前なのですか。

生まれた日が庚申の日で、この日生まれの子は大泥棒になるという迷信があったため、厄除けに「金」の字を入れたとされています。

「漱石」の名前は誰がつけましたか。

もとは正岡子規が持っていた多数の筆名の一つで、のちに漱石が譲り受けたと記されています。故事「漱石枕流」にちなむ号で、明治22年(1889年)に子規の『七草集』の批評で初めて使ったとされます。

塩原姓だったのはいつですか。

明治元年(1868年)11月に塩原昌之助の養子になってから、明治21年(1888年)1月に夏目姓へ復籍するまでです。

墓はどこにありますか。

東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園にあります。戒名は「文献院古道漱石居士」です。