内村鑑三

結論:内村鑑三を顕彰して1988年に建てられた、石とガラスのアーチの教会

内村鑑三記念堂は、長野県北佐久郡軽井沢町星野にある「石の教会・内村鑑三記念堂」の地下部分にあたる。明治・大正期のキリスト教指導者である内村鑑三を顕彰するための建物で、1988年に竣工した。設計はアメリカ人建築家のケンドリック・バングス・ケロッグである。

建物は地上が礼拝堂、地下が記念堂という二層の構成をとる。石とガラスの異なるアーチが重なる独特の形が特徴で、旧称は「軽井沢高原教会内村鑑三記念堂」だった。この記事では、建物の事実と、内村の思想の出発点になった出来事を分けて整理する。

基本情報

  • 名称:石の教会・内村鑑三記念堂(旧称:軽井沢高原教会内村鑑三記念堂)
  • 所在地:長野県北佐久郡軽井沢町星野(ホテルブレストンコートに隣接)
  • 竣工:1988年
  • 設計:ケンドリック・バングス・ケロッグ(アメリカ人建築家)
  • 構造・規模:鉄筋コンクリート造、地上2階・地下1階、延床面積482平方メートル
  • 内部:地上が礼拝堂、地下が内村鑑三記念堂
  • 交通:しなの鉄道中軽井沢駅から徒歩20分
  • 顕彰される人物:内村鑑三(1861年3月23日〈万延2年2月13日〉生、1930年3月28日没、69歳。時代は明治・大正、立場はキリスト教の指導者・思想家)

内村鑑三記念堂の建築と見どころ

石とガラスのアーチが重なる礼拝堂

この建物でいちばん目を引くのは、石のアーチとガラスのアーチが重なり合う外観である。素材の違うアーチを組み合わせた形は、「石は男性を、ガラスは女性を象徴している」と説明される。ただし、これは設計に込められた意味として紹介されているもので、内村鑑三自身の言葉ではない。

設計者のケロッグは、アメリカ人の建築家である。外国人建築家が、日本の思想家の記念堂を軽井沢の森の中に建てた点は、この建物の成り立ちを語るうえで外せない。

光と水が入る堂内

公式サイトの案内によると、礼拝堂では石とガラスのアーチを通して日の光が差し込む。堂内には水の流れる「せせらぎ」の音もあり、天井は奥へ向かって高くなる形だと紹介されている。石・ガラス・光・水という要素が、建物の印象をつくっている。

なお、アーチの並びが太陽の軌道に沿っているか、建物が南を向いているかといった細かな設計意図は、今回確かめた資料には書かれていなかった。そのため、ここでは断定しない。見学するときは、現地の案内や公式の説明で確かめるのがよい。

地上は礼拝堂、地下は記念堂

建物は地上2階・地下1階の鉄筋コンクリート造で、地上が礼拝堂、地下が内村鑑三記念堂である。祈りの場と顕彰の場が上下に重なる構成になっている。地下の展示の中身は、今回確かめた資料では詳しく分からなかったため、具体的な展示品は書かない。

無教会主義と内村鑑三の思想の原点

無教会主義とは何か

無教会主義は、内村鑑三が提唱した日本独特のキリスト教信仰のあり方である。洗礼や聖餐などの聖礼典と、教会制度の必要性を認めないため、通常はカトリックにもプロテスタントにも含まれないキリスト教と見なされている。

特徴としては、按手礼を受けた牧師がいないこと、教会堂や全国的な組織を持たないこと、集会が主に公共施設や私宅で開かれ、聖書の講義が中心になることが挙げられる。ただし、洗礼や聖餐に反対しているわけではなく、内村自身も子に洗礼を授けている。「無教会」は教会制度から離れようとする立場であり、福音の信仰そのものを否定するものではない。

「無教会」という言葉は、内村の処女作『基督信徒のなぐさめ』(1893年)で初めて使われたとされる。後に内村は「無教会」という誌名の雑誌も創刊し、教会に属せない人々が交流できる場をつくろうとした。

教会堂を持たない思想と、教会の名を持つ建物

ここで一つ、気づく点がある。無教会は教会堂を持たない立場なのに、記念堂は礼拝堂を備えた建物だということだ。記念堂は内村鑑三の顕彰を目的として建てられた教会、記念館であり、内村が自分で建てた施設ではない。没後半世紀以上たってから、別の人々が彼を記念して建てたものである。

この建物が無教会主義をどう受け止めて設計されたのかは、今回確かめた資料では確認できなかった。だからこそ、礼拝堂の空間を内村の思想の「再現」と受け取るより、内村を記念してつくられた建築として見るほうが、事実に近い。

1891年の不敬事件

内村の生涯の大きな転機が、1891年(明治24年)1月9日の不敬事件である。この日、第一高等中学校の講堂で教育勅語の奉読式が行われた。内村はこの式で、天皇宸筆の御名に対して最敬礼をしなかった。

内村が礼を拒んだのではなく、「最敬礼」をしなかったことが問題とされた。同僚教師や生徒からの非難が広がり、社会問題になった。東京帝国大学教授の井上哲次郎が内村を激しく攻撃したことでも知られる。一方で、日本基督教会の植村正久は、勅語への拝礼は憲法や法律、教育令のいずれにも定められておらず、解職の理由としては不合理だと主張した。ただし、この主張は大きな影響を与えなかった。

内村はこのとき流感で病床にあり、本人の知らないうちに辞職願が出された。2月3日付で依願解嘱となり、第一高等中学校を離れている。

内村鑑三の歩みと「二つのJ」「後世への最大遺物」

札幌農学校からアメリカ留学まで

内村は札幌農学校に学び、1878年にメソジスト派のM.C.ハリスから受洗した。1884年に渡米し、1887年にアマースト大学を卒業している。

札幌農学校の卒業時には、新渡戸稲造、宮部金吾と札幌の公園で、将来を「二つのJ」に捧げることを誓い合ったとされる。ただし、確かめた資料はこの誓いに触れるだけで、二つのJの中身までは説明していない。ここでは、そういう誓いの逸話が伝わっているところまでにとどめる。

『聖書之研究』と社会への発言

不敬事件のあとも、内村は発言をやめなかった。『萬朝報』の英文欄主筆などを経て、日本初の聖書雑誌とされる『聖書之研究』を創刊し、これを死去まで続けた。

活動は信仰の分野にとどまらない。足尾銅山鉱毒問題への取り組み、日露戦争期の非戦論、1918年からの再臨運動などにも関わった。

『後世への最大遺物』

『後世への最大遺物』は、1894年7月にキリスト教徒夏期学校で行われた講演をまとめたもので、1897年に便利堂から刊行された。講演の細かな中身は今回確かめた資料では確認できていないため、ここでは成り立ちだけを記す。

ゆかりの地と関連する人物

石の教会・内村鑑三記念堂(軽井沢町星野)

この記事の中心となる場所である。ホテルブレストンコートに隣接し、しなの鉄道中軽井沢駅から徒歩20分とされる。開館時間や見学の条件は、訪れる前に公式の案内で確かめたい。

墓所:多磨霊園

内村鑑三の墓所は多磨霊園にある。死去したのは東京府豊多摩郡淀橋町柏木(現在の東京都内)だった。

関連する人物

  • 新渡戸稲造・宮部金吾:札幌農学校の卒業時に、「二つのJ」への誓いを交わしたとされる人物
  • M.C.ハリス:1878年に内村に洗礼を授けたメソジスト派の宣教師
  • 井上哲次郎・植村正久:不敬事件で、内村を攻撃した側と擁護した側の人物

なお、内村が軽井沢で過ごした時間や、軽井沢との個人的なつながりについては、今回確かめた資料に記述がなかった。記念堂が軽井沢にある理由を、内村の足跡と結びつけて説明することは避ける。

よくある質問

内村鑑三記念堂は「石の教会」と同じ建物ですか。

同じ建物です。正式には「石の教会・内村鑑三記念堂」で、地上が礼拝堂(石の教会)、地下が内村鑑三記念堂になっています。旧称は「軽井沢高原教会内村鑑三記念堂」です。

設計したのは誰で、いつ完成しましたか。

設計はアメリカ人建築家のケンドリック・バングス・ケロッグで、竣工は1988年です。鉄筋コンクリート造、地上2階・地下1階、延床面積482平方メートルです。

無教会主義とは何ですか。

内村鑑三が提唱した日本独特のキリスト教信仰のあり方です。洗礼や聖餐などの聖礼典と教会制度の必要性を認めず、聖書の研究を中心にします。福音の信仰そのものを否定するものではありません。

不敬事件とはどんな出来事ですか。

1891年1月9日、第一高等中学校の教育勅語奉読式で、内村鑑三が最敬礼をしなかったことが非難され、社会問題になった事件です。内村は2月3日付で依願解嘱となりました。

見学に行く前に気をつけることはありますか。

見学の条件や開館時間などは、訪れる前に公式の案内で確かめてください。