源頼朝の肖像画

歴史の教科書を開くと、必ずと言っていいほど目にする一枚の肖像画がある。きりりとした表情で、まっすぐに前を見つめるその人物は、鎌倉幕府を開いた初代将軍、源頼朝。多くの人が、この顔を「頼朝の顔」として記憶しているだろう。しかし、もし、この有名な肖像画に描かれている人物が、源頼朝ではなかったとしたらどうだろうか。

近年、この肖像画をめぐる研究が進み、「描かれているのは別人である」という説が有力になっているのだ。これは、日本の歴史の常識を揺るがす大きな謎と言える。この記事では、国宝にも指定されているこの肖像画に秘められた謎を、様々な証拠をもとに解き明かしていく。教科書が教えてくれなかった、一枚の絵画が語る壮大な歴史のミステリーに迫る。

本当は別人?有名な源頼朝の肖像画にまつわる謎

教科書でおなじみ「伝源頼朝像」とは?

多くの人が源頼朝の顔として思い浮かべるこの肖像画は、京都市にある神護寺(じんごじ)が所蔵する国宝だ。正式な文化財としての名称は「絹本著色伝源頼朝像(けんぽんちゃくしょくでんみなもとのよりともぞう)」という。この名前の最初についている「伝」という一文字が、この謎を解く鍵となる。「伝」とは、「~と伝えられている」という意味で、描かれている人物が源頼朝本人であるとは断定できないことを示している。

この肖像画は一枚だけではなく、「伝平重盛像(たいらのしげもりぞう)」「伝藤原光能像(ふじわらのみつよしぞう)」という二枚の肖像画と合わせて「神護寺三像(じんごじさんぞう)」と呼ばれ、三枚一組で国宝に指定されている。

絵画そのものを見てみると、縦143cm、横112.8cmという、ほぼ等身大の大きな作品である。驚くべきことに、この大きな画面は複数の絹を貼り合わせたものではなく、一枚の巨大な絹に描かれている。描かれた人物は、畳の上に座り、黒い袍(ほう)という上着を着て冠をかぶる「束帯(そくたい)」という、位の高い役人の正装をしている。手には笏(しゃく)を持ち、腰には毛抜形太刀(けぬきがたたち)という種類の刀を差していることから、身分の高い武官であることがわかる。その表情や姿からは、強い意志と威厳が感じられ、日本の肖像画の中でも最高傑作の一つとされている。

なぜ別人説が?有力な「足利直義説」の根拠

この肖像画が源頼朝ではないという説は、1995年に美術史家の米倉迪夫氏によって提唱され、歴史界に大きな衝撃を与えた。その説とは、この人物は源頼朝ではなく、室町幕府の初代将軍・足利尊氏の弟である「足利直義(あしかがただよし)」だというものだ。その根拠は、いくつもの証拠に基づいている。

最大の根拠は、1345年に書かれた『足利直義願文(がんもん)』という古文書の発見だ。願文とは、神仏への願い事を記した文章のことで、この中で直義は「兄である将軍・尊氏と自分の肖像画を神護寺に奉納し、幕府の安泰を祈る」とはっきりと記している。この文書は、足利兄弟の肖像画が神護寺に納められた決定的な証拠となった。

さらに、絵画そのものにも、頼朝の時代とは合わない点がいくつも見つかっている。例えば、人物がかぶっている冠の形式や、腰に差した太刀の様式は、頼朝が生きた12世紀末の鎌倉時代初期のものではなく、直義が生きた14世紀の南北朝時代の特徴を示している。また、これほど大きな一枚絹は、鎌倉初期には存在せず、南北朝時代になってから使われるようになったという指摘もある。

神護寺三像の構成にも謎を解くヒントが隠されている。三枚の絵は、よく見ると「伝頼朝像」と「伝重盛像」が対になるように作られ、「伝光能像」は少し後に描き加えられたと考えられている。そして、二人の人物を並べて描く場合、身分の高い人物を向かって右側(絵の左側)に置くという決まりがあった。三像のうち、「伝頼朝像」だけが右を向いており、これは対の絵の左側、つまり身分が下の人物の席に置かれることを意味する。「伝重盛像」は左を向いており、右側の上の席に置かれる。この関係は、将軍である兄・尊氏(伝重盛像)と、その弟・直義(伝頼朝像)の関係にぴったりと当てはまるのだ。

やはり頼朝本人か?近年の研究による反論

足利直義説が有力になる一方で、「やはり源頼朝本人だ」と主張する意見も根強く残っている。その最大の根拠は、神護寺に伝わる『神護寺略記』という記録文書だ。この文書には、神護寺の仙洞院という建物に、藤原隆信という画家が描いた後白河法皇、平重盛、源頼朝、藤原光能らの肖像画が飾られていた、と記されている。現存する三像は、この時に描かれたものだと考えられてきた。

神護寺自身も、この伝統的な説を支持している。神護寺の住職は、足利幕府と神護寺の歴史的なつながりは薄い一方で、源頼朝やその妻・北条政子からの手紙が今も残っていることなどから、頼朝本人と考える方が自然だと述べている。

さらに、この「伝源頼朝像」を模写して描かれた肖像画が、イギリスの大英博物館に所蔵されている。この模写作品は南北朝時代から室町時代にかけて作られたと考えられているが、そこにはっきりと「頼朝像」と記されており、当時すでにこの絵が頼朝の肖像として認識されていたことを示している。このように、どちらの説にも証拠があり、専門家の間でも議論が続いている。この論争は、古い記録や伝承といった伝統的な証拠と、科学的な分析や新しく発見された文書といった近代的な証拠がぶつかり合う、歴史研究の面白さそのものを示している。

作者は藤原隆信?肖像画の芸術的価値と特徴

この肖像画は、一体誰が描いたのか。伝統的には、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した貴族であり、似絵(にせえ)の名手として知られる藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)の作と伝えられてきた。似絵とは、人物の顔をそっくりに描く写実的な肖像画のことだ。

しかし、現在ではこの説も疑問視されている。隆信は1205年に亡くなっているが、絵の具の分析などから、この肖像画が制作されたのはそれ以降の13世紀である可能性が高いからだ。また、隆信は歌人として有名で、絵は余技であったとされ、彼が描いたと確実に言える作品は一つも現存していない。

作者が誰であれ、この肖像画が芸術的に極めて優れた作品であることは間違いない。その画風は、日本の伝統的な絵画である大和絵(やまとえ)の技法を基礎としながら、当時の中国・宋の絵画の影響を取り入れている。特に顔の表現は秀逸で、淡い朱色の隈取(くまどり)を施すことで立体感を出し、人物の内面にある強い意志や精神性まで描き出そうとしている。眉や髭、髪の生え際などは、細い線を何本も重ねて描くことで、驚くほどリアルな質感を表現している。

この作品は、似絵と呼ばれることもあるが、厳密には少し違う。本来の似絵は、紙に墨で描かれた小型の肖像画を指すことが多い。しかし、この作品は絹に彩色で描かれた大きなもので、単に外見を似せるだけでなく、人物の内面性まで表現しようとする、より格の高い肖像画と言える。描かれた人物が誰であれ、この絵が日本の肖像画の歴史を語る上で欠かせない傑作であることに変わりはないのだ。

なぜこの絵が「頼朝の顔」として定着したのか

では、もしこの肖像画が足利直義を描いたものだとすれば、なぜ「源頼朝の顔」としてこれほどまでに広く知られるようになったのだろうか。その背景には、長い歴史の中でのいくつかの出来事が関係している。

まず、南北朝時代に書かれたとされる『神護寺略記』に、頼朝の肖像画が神護寺にあったという記述があることが、最初のきっかけとなった。この記録によって、神護寺にある武将の肖像画が頼朝のものだと考えられる土台ができた。

そして、その認識が決定的に広まったのは、江戸時代だと考えられている。当時、神護寺は徳川家康からの援助を求めていた。徳川家康は、自らが源氏(源頼朝の氏族)の末裔であることをアピールして、天下の支配者としての正当性を固めようとしていた。そこで神護寺は、寺にあった身元不明の武将の肖像画を「源氏の棟梁である頼朝公の御影(みえい)です」と家康に見せたのではないか、という説がある。家康にとって、鎌倉幕府の創始者の肖像画は自らの権威を高めるのに好都合であり、神護寺にとっても有力な庇護者を得る絶好の機会だった。この時、神護寺は家康から260石の寺領を与えられており、この出来事をきっかけに「神護寺の肖像画=頼朝」という認識が定着していった可能性がある。

近代に入ると、この肖像画は歴史の教科書に掲載されるようになり、国民的なイメージとして完全に定着した。特に40代以上の世代にとっては、この顔以外に頼朝の顔は考えられないほど、深く記憶に刻まれている。しかし、近年の研究成果を受け、現在の教科書では「伝」の字をつけたり、別の肖像を掲載したりするなどの対応が進んでいる。一枚の絵の「顔」が、時代の政治や教育によって作られ、そしてまた新たな研究によって書き換えられていく。この肖像画の歴史は、まさに歴史そのものがどう語り継がれていくかを示す、興味深い事例なのである。

「伝源頼朝像」だけじゃない!様々な源頼朝の肖像画と見られる場所

もう一つの頼朝像?甲斐善光寺所蔵の木像

「伝源頼朝像」が別人だとすると、本当の頼朝はどのような顔をしていたのだろうか。その最も有力な手がかりとされるのが、山梨県甲府市にある甲斐善光寺(かいぜんこうじ)に伝わる木造の坐像だ。

この「木造源頼朝坐像」は、現存する頼朝の肖像彫刻としては日本最古のものとされている。この像が頼朝本人に極めて近いとされる理由は、像の内部から発見された銘文(めいぶん)にある。そこには、この像が頼朝の死後まもなく、妻である北条政子の命令によって作られたと解読できる記述があったのだ。

像は一度火災に遭い、胴体部分は文保三年(1319年)に修理されているが、最も重要な顔の部分は、頼朝が生きていた時代に近い鎌倉時代初期の作と特定されている。そのため、この像こそが頼朝の本当の姿を最もよく伝えていると考えられている。神護寺の肖像画のシャープな印象とは異なり、少しふっくらとした顔立ちをしており、こちらが本当の頼朝の顔なのかもしれない。この像はもともと信濃(長野県)の善光寺にあったが、戦国時代に武田信玄が戦火を避けるために甲斐(山梨県)に移したと伝えられている。

絵巻物や各地の伝承に描かれた頼朝の姿

公式な肖像画や彫刻のほかにも、源頼朝の姿は物語の中で描かれてきた。その代表が、『平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)』のような合戦絵巻だ。

『平治物語絵巻』は、源平合戦の前に起こった「平治の乱」(1159年)を描いたもので、鎌倉時代に制作された。この物語には、若き日の頼朝も登場する。父・源義朝や兄たちと共に戦に参加するが、平清盛に敗れ、捕らえられて伊豆へ流罪となる場面が描かれている。絵巻の中の頼朝は、大勢の武士の一人として描かれており、特定の顔を写実的に描いたものではない。しかし、こうした物語を通して、頼朝がどのような人物として語り継がれてきたかを知ることができる。

また、各地には頼朝にまつわる伝承と共に、その姿をかたどった像が残されていることもある。例えば、静岡県の智満寺(ちまんじ)では、2012年に倒れた「頼朝杉」という杉の木を使って、新しい頼朝像が作られた。これらは歴史的な正確さとは別に、頼朝という人物が後世の人々にいかに記憶され、敬われてきたかを示す貴重な資料と言えるだろう。

源頼朝の肖像画はどこで見られる?

これまで見てきた源頼朝の肖像画や彫刻は、実際に私たちの目で見ることができる。

まず、大きな議論の的となっている「伝源頼朝像」は、普段は京都国立博物館に寄託(きたく)されている。しかし、毎年5月1日から5日までの間、本来の所蔵先である京都の神護寺で「曝涼展(ばくりょうてん)」という虫干しを兼ねた特別公開が行われ、里帰りした本物を見ることができる。同じく神護寺三像の「伝平重盛像」もここで公開され、「伝藤原光能像」は東京国立博物館に寄託されており、常設展などで見ることが可能だ。

一方、頼朝の真の姿を伝えるとされる「木造源頼朝坐像」は、山梨県甲府市にある甲斐善光寺の境内の宝物館で公開されている。また、山梨県立博物館などで特別展として展示されることもある。歴史の謎に思いを馳せながら、本物の作品が持つ迫力を間近で感じてみるのも、貴重な体験になるだろう。

そもそも鎌倉時代の武士と肖像画の関係性

なぜ鎌倉時代には、これほど写実的な肖像画が作られるようになったのだろうか。その背景には、時代の大きな変化がある。平安時代の貴族たちは、呪詛に悪用されることを恐れるなど、自らの姿をありのままに描かれることを避ける傾向があった。しかし、武士が力を持つ鎌倉時代になると、現実を直視し、個人の姿を後世に残そうという意識が高まり、「肖像画の時代」と呼ばれるほど多くの肖像画が制作された。

鎌倉時代の肖像画には、大きく分けていくつかの種類がある。一つは、藤原隆信・信実親子が得意とした「似絵(にせえ)」だ。これは主に貴族の姿を紙に墨で素早く写し取ったもので、スナップ写真のような記録性の高い肖像画だった。

もう一つは、禅宗で師匠から弟子へと法を受け継いだ証として与えられた「頂相(ちんそう)」という肖像画だ。これは崇拝の対象ともなる、宗教的に重要な意味を持つものだった。

そして、「伝源頼朝像」のような武家の棟梁を描いた肖像画は、これらとはまた違う目的を持っていたと考えられる。これらは単なる記録や宗教的な意味だけでなく、一族の権威を示し、その支配の正当性を後世に伝えるための、いわば政治的なシンボルだった。寺社に奉納することで、神仏の加護を祈ると同時に、自らの力を世に示す役割も果たしていたのだ。武士の時代の到来が、肖像画に新たな役割を与えたのである。

謎多きことが逆に魅力?肖像画が語る頼朝像

結局のところ、「伝源頼朝像」は本当に源頼朝なのだろうか、それとも足利直義なのだろうか。現在のところ、決定的な結論は出ていない。しかし、この謎多き状況こそが、この肖像画の最大の魅力なのかもしれない。

もし、この絵がただ「源頼朝の肖像画」として疑いなく受け入れられていたら、私たちはここまで深くこの作品に注目することはなかっただろう。別人説の登場によって、私たちは一枚の絵の背後にある、南北朝時代の政治状況、江戸時代の寺社と幕府の関係、そして現代の歴史学の研究手法といった、壮大な歴史のドラマに触れることができた。

この肖像画の価値は、描かれた人物が誰かということだけで決まるものではない。その類まれな芸術性の高さ、そして私たちに「歴史の真実とは何か」を問いかけ続ける、そのミステリアスな存在感そのものにある。一枚の肖像画が、これほど多くの物語を秘めている。その事実に気づくとき、歴史は単なる暗記科目ではなく、謎解きのようなワクワクする探求の旅に変わるのだ。

まとめ:源頼朝の肖像画

  • 教科書に載っている有名な源頼朝の肖像画は、別人であるという説が有力視されている。
  • この肖像画は国宝「神護寺三像」の一つで、正式名称は「伝源頼朝像」という。
  • 別人説の根拠は、描かれた人物が室町幕府の足利直義であるというもので、古文書や服装の様式が証拠とされる。
  • 一方、頼朝本人であるという説も、神護寺の古い記録などを根拠に主張されている。
  • 作者は藤原隆信と伝えられてきたが、現在では否定的な見方が強い。
  • この絵が「頼朝の顔」として定着したのは、江戸時代に徳川家康の権威付けに利用されたことなどが背景にある。
  • 頼朝の本当の顔を伝えるとされるのが、山梨県の甲斐善光寺にある木造の坐像である。
  • この木像は、妻の北条政子が頼朝の死後まもなく作らせたとされ、日本最古の頼朝像と言われる。
  • 鎌倉時代は武士の台頭と共に肖像画が盛んに作られ、権威の象徴としての役割も持っていた。
  • 肖像画の謎は、作品の価値を損なうものではなく、むしろ歴史を探求する面白さを教えてくれる。