源頼朝 日本史トリビア

結論:源頼朝は、平氏を倒して東国に武士の政権を築き、鎌倉幕府の基礎をつくった人

源頼朝(1147〜1199)は、1180年に伊豆で挙兵し、鎌倉を拠点に東国の武士を組織して平氏との戦いに勝った人物です。その過程で侍所・公文所・問注所といった役所を整え、1185年には朝廷から守護・地頭の設置を認めさせました。1192年には征夷大将軍に任じられています。

ただし「鎌倉幕府はいつ成立したか」は、一つの年に決められません。1180年・1183年・1185年・1190年・1192年など、何を成立の基準にするかで説が分かれます。この記事では、頼朝が実際に何をしたのかを年代順にたどり、成立時期の見方も整理します。

基本情報

  • 生没年:久安3年4月8日(1147年5月9日)〜建久10年1月13日(1199年2月9日)。享年は数えで53(満51歳)
  • 時代:平安時代末期〜鎌倉時代初期
  • 立場:鎌倉幕府の初代将軍(鎌倉殿)。1192年に征夷大将軍に任じられた
  • 父母:父は源義朝、母は藤原季範の娘(由良御前)
  • 生誕地:尾張国熱田とされるが、京都出生説もある
  • 妻と子:北条政子との間に大姫、源頼家、三幡、源実朝。ほかに貞暁(母は大進局)
  • 主な業績:挙兵と平氏打倒、侍所・公文所・問注所の整備、守護・地頭の設置、奥州藤原氏の滅亡、征夷大将軍就任

源頼朝は何をした人?鎌倉幕府成立までの歩み

14歳での伊豆流罪と、流人としての暮らし

頼朝の父・義朝は平治の乱で平清盛側に敗れました。頼朝は永暦元年(1160年)3月、14歳で伊豆国へ流されます。流人としての生活は長く続き、乳母だった比企尼の一族が支えたと伝えられています。

伊豆では北条氏との縁ができ、北条政子との結婚は治承元年(1178年)ごろとされています。この結婚が、のちの鎌倉幕府を支える北条氏との結びつきの出発点になりました。

1180年の挙兵と、敗北からの再起

治承4年(1180年)4月27日、頼朝は以仁王の令旨を受け取りました。8月17日に山木兼隆を討って挙兵しましたが、8月23日の石橋山の戦いで敗れ、安房国へ逃れます。最初の戦いは敗北だったわけです。

それでも頼朝は東国の武士を集め、10月7日に鎌倉へ入りました。10月20日の富士川の戦いでは平氏の軍に勝利しています。弟の義経がかけつけたのも、このころとされています。

侍所・公文所・問注所で統治の仕組みをつくる

鎌倉に入った頼朝は、同年11月17日に和田義盛を侍所の別当に任じました。侍所は、関東の武士団をまとめる役所です。

元暦元年(1184年)には、大江広元を別当とする公文所(行政を担当。のち1190年に政所と改称)と、三善康信を執事とする問注所(訴訟を担当)が開かれました。武力で勝つだけでなく、行政と裁判の窓口を持つ政権へ形を整えていったことが、頼朝の大きな特徴です。

守護・地頭と、御家人との主従関係

文治元年(1185年)11月28日、「文治の勅許」により、守護・地頭の設置が朝廷に認められました。守護は諸国の治安維持を担い、地頭には兵糧米を徴収する権利などが与えられました。ただし、設置の当初は、地頭は平家の旧領などに限られていたとされます。この勅許の解釈には、従来の理解に異論を唱える研究者もいます。

頼朝のもとに集まった武士は御家人と呼ばれました。頼朝は本領を認めたり、新しい領地を与えたりして(御恩)、御家人は軍役や京都大番役などを務めます(奉公)。この関係が幕府の土台でした。

1192年、征夷大将軍に就任

頼朝は建久元年(1190年)11月に上洛し、権大納言(11月9日)と右近衛大将(11月24日)に任じられましたが、12月3日には両官を辞しています。そして建久3年7月12日(1192年8月21日)、征夷大将軍に任じられます。

鎌倉幕府の成立については、おもに次のような見方があります。

  • 1180年:鎌倉に拠点を置き、侍所を設けて東国支配を始めた
  • 1183年:寿永二年十月宣旨で、朝廷が頼朝の東国支配を事実上認めた
  • 1185年:文治の勅許で守護・地頭の設置が認められた(戦前の通説とされる)
  • 1190年:権大納言・右近衛大将に任じられ、政所を開く権限を得た
  • 1192年:征夷大将軍に任じられた(帝国書院の教科書などは1192年を残している)

研究者の中には、特定の一時点で成立を論じるのは難しいと指摘する人もいます。頼朝の政権は、いくつもの段階を経て形づくられたと考えるのが実態に近いようです。

頼朝の素顔と最期:義経との対立、奥州合戦、死因の諸説

弟・義経との対立

義経は平家滅亡に大きく貢献しましたが、無断で朝廷から官職を受けたことや専横を理由に、頼朝と対立しました。文治元年(1185年)6月、頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかったとされ、10月には家人の土佐坊昌俊を京へ送って義経を討たせようとします。義経は11月に京を逃れ、のち文治5年(1189)閏4月30日に藤原泰衡に討たれました。

奥州合戦で内乱が終わる

文治5年7月19日、頼朝は鎌倉を出陣しました。8月の阿津賀志山の戦いを経て、9月3日に泰衡が討たれ、奥州藤原氏は滅亡します。これにより内乱は終結し、頼朝は10月24日に鎌倉へ帰還しました。

寺社への信仰と鶴岡八幡宮

頼朝は寺社の保護にも力を入れました。治承4年(1180年)には、由比郷にあった八幡宮を小林郷北山へ移しており、これが現在の鶴岡八幡宮の位置にあたります。鶴岡八幡宮は、頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、武士の信仰を集めたとされています。

父義朝の菩提を弔うため勝長寿院を建立し、建久3年(1192年)には戦没者の鎮魂のため永福寺を建てました。南都焼討で被害を受けた東大寺の再興も支援しています。また『法華経』の写経や暗誦を行い、「法華八幡の持者」と称されたと伝わります。

頼朝の死:落馬説と「飲水の病」説

建久9年(1198年)12月27日、頼朝は相模川の橋の供養からの帰り道で体調を崩しました。建久10年1月11日に出家し、1月13日に亡くなっています。

死因は、史料によって書き方が異なります。『吾妻鏡』は落馬を伝え、『猪隈関白記』は「飲水の病」とします。このほか病死説、尿崩症説などもありますが、確定していません。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門):頼朝の墓所。遺骸は持仏堂に葬られ、1200年から法華堂と呼ばれました。石塔は1779年に島津重豪が建て、1927年に史跡に指定されています
  • 白旗神社(鶴岡八幡宮の境内):明治初年の廃仏毀釈で法華堂が壊された後の1872年に建てられました
  • 鶴岡八幡宮(鎌倉市):1180年に頼朝が現在地へ移した神社です
  • 源頼朝上陸地(千葉県鋸南町竜島):石橋山で敗れた頼朝が安房に渡ったとされる場所で、1935年に千葉県指定史跡となりました

関連する人物

  • 北条政子:妻。大姫・頼家・三幡・実朝の母
  • 源義経:弟。平家討伐で活躍したが、のち頼朝と対立した
  • 源頼家:2代将軍。のち伊豆の修禅寺に流され暗殺された
  • 源実朝:3代将軍。頼家の次男・公暁に暗殺された
  • 大江広元・三善康信・和田義盛:公文所・問注所・侍所を担った家臣

よくある質問

源頼朝は何をした人ですか?

平氏を倒すために1180年に挙兵し、鎌倉を拠点に武士の政権をつくった人です。1185年に守護・地頭の設置を認めさせ、1192年に征夷大将軍となりました。

鎌倉幕府は何年にできたのですか?

1192年を成立とする見方のほか、1180年・1183年・1185年・1190年を成立とする見方もあります。何を成立の基準にするかで答えが変わります。

頼朝はどう亡くなったのですか?

建久9年12月に相模川の橋の供養からの帰りに体調を崩し、翌年1月13日に亡くなりました。『吾妻鏡』は落馬、『猪隈関白記』は「飲水の病」と伝え、死因は確定していません。

頼朝は何歳で亡くなりましたか?

数えで53歳、満年齢では51歳です。

頼朝の墓はどこにありますか?

鎌倉市西御門の法華堂跡にあります。隣接する鶴岡八幡宮の境内には白旗神社もあります。