結論:二人は終始「宿敵」。手を結んだことは一度もない
足利尊氏と北条時行は、同志ではなく宿敵でした。尊氏は1333年に六波羅探題を滅ぼして鎌倉幕府の滅亡に大きく関わった側、時行は幕府最後の得宗・北条高時の遺児で、幕府の側に生まれた人物です。
二人が正面からぶつかったのが、1335年(建武2年)の中先代の乱です。時行は鎌倉を奪いましたが、尊氏の出陣で約20日後に追われました。その後、時行は南朝方に加わって足利方と戦い続け、1353年に捕らえられて鎌倉の龍ノ口で処刑されたと伝わります。一方の尊氏は1358年に京都で亡くなりました。
「数奇な運命」とされるのは、尊氏が時行の乱の鎮圧に動いたことをきっかけに、結果として後醍醐天皇の建武政権から離れていく流れが進んだと見られている点です。倒された側の遺児の挙兵が、倒した側の立場を変えたことになります。
基本情報
- 足利尊氏:1358年(延文3年)4月30日に京都で薨去、享年54(満52歳)。鎌倉幕府を倒した勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を受けて「尊氏」と名乗った。のち室町幕府を開いた人物
- 北条時行:鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の次男。生年は明確ではなく、1329年頃とされる。1353年(正平8年/文和2年)5月20日(西暦1353年6月21日)に処刑されたとされる。享年は20代半ばと推測されている
- 時代:鎌倉時代末期から南北朝時代(室町時代)
- 二人の接点:1335年の中先代の乱、1352年の武蔵野合戦をめぐる戦い
- 時行の通称:「中先代」。北条氏(先代)と足利氏(後代)の間に位置するという意味で、鎌倉の支配が二十日余りだったことから「廿日先代」とも呼ばれる
足利尊氏と北条時行の因縁――鎌倉幕府滅亡から中先代の乱まで
1333年、鎌倉幕府の滅亡と時行の脱出
尊氏は1333年4月29日に丹波国の篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、5月7日に六波羅探題を滅ぼしました。その直後の5月22日、鎌倉では東勝寺合戦で北条高時らが自害し、幕府は滅びます。
幼い時行は、このとき鎌倉を脱出しました。『太平記』では、得宗被官の諏訪盛高の助けで逃れたとされ、叔父の北条泰家が脱出を依頼したという描写もあります。時行は信濃の諏訪神党にかくまわれました。一方、兄の邦時は五大院宗繁と脱出を試みましたが、宗繁の裏切りで捕らえられて処刑されています。同じ遺児でも、運命は分かれました。
建武政権での尊氏の立場
建武政権で尊氏は、1333年6月に従四位下・左兵衛督、8月に従三位・武蔵守、1334年9月に参議と昇進を重ねました。新政府の要職に名を連ねなかったため「尊氏なし」と揶揄されたものの、奉行所を早くに設置し、多くの文書を出していたといいます。東国では、成良親王を擁立して弟の足利直義とともに鎌倉に駐屯しました。
1334年には、後醍醐天皇の命で逮捕された護良親王が鎌倉に送られ、直義に預けられて幽閉されました。この幽閉が、翌年の乱で大きな意味を持ちます。
1335年の挙兵へ
1335年6月に西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画が発覚し、その翌月の7月14日、時行は諏訪氏などに擁立されて信濃で挙兵しました。時行は推定で数え7歳でした。なお、時行を担いだのが諏訪頼重・時継の父子であることは、乱の記述の中で確認できます。ただし、父子のどちらが主導したかは史料によって異なります。
中先代の乱の全貌――鎌倉陥落から相模川、辻堂の戦いまで
破竹の進撃と鎌倉の占拠
信濃では、時行方が守護・小笠原貞宗の船山守護所を襲いましたが、小笠原方に敗れました。それでも7月下旬に武蔵・相模へ進むと、女影原、小手指ヶ原、武蔵府中などで鎌倉将軍府の諸将を破り、井手の沢では足利直義を撃破します。直義は鎌倉を捨てて退きました。
護良親王の殺害
直義は鎌倉を脱出する際、家臣の淵辺義博に命じ、幽閉していた護良親王を殺害させました(7月23日)。尊氏の側にとって、後醍醐天皇の皇子を失わせた重い出来事です。7月25日、時行は鎌倉に入り、その後、駿河の手越河原でも直義を破っています。
勅許なしの出陣と鎌倉の回復
尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍への任官を求めましたが、許されませんでした。それでも8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉へ向かいます。天皇はやむなく、征東将軍の号を与えました(8月9日宣下)。
尊氏軍は遠江の橋本、小夜の中山、箱根、相模川などで戦い、時行軍を後退させました。辻堂の戦いで敗れた諏訪頼重らは勝長寿院で自害し、時行は鎌倉を脱出します。尊氏が鎌倉を回復したのは8月19日でした。
乱のあとに起きたこと
鎌倉に入った尊氏は、自ら征夷大将軍を名乗り、配下に恩賞を与えるようになりました。建武政権からの上洛命令にも従わなかったため、後醍醐天皇との対立は決定的になり、建武の乱から建武政権の崩壊へとつながります。尊氏に最初から武家政権を樹立する意図があったかどうかは、通説と新説で見方が分かれています。
南北朝の動乱で二人が描いた軌跡
時行の南朝帰順は「敵の敵は味方」か
時行が南朝に従った時期は、確実な史料では不明です。『太平記』に従えば、1337年(延元2年)かそれ以前に、朝敵を赦免する綸旨を得たとされます。理由にも複数の説があります。『太平記』は、北条氏の恩恵を受けた尊氏が裏切ったことへの憤りと復讐心を描いています。研究者の家永遵嗣は、光厳上皇が尊氏と結んだことへの反発と解しています。
ここで注意したいのは、時行が南朝に加わったのは尊氏と和解したからではなく、尊氏と戦い続けるためだったという点です。同志になったのは、尊氏ではなく南朝方の北畠顕家や新田義興らです。
北畠顕家との共闘
1337年、顕家の遠征に呼応して、『太平記』は時行が伊豆で挙兵したと描きます。顕家・時行・新田義興の連合軍は、12月23日(『鶴岡社務記録』)に鎌倉を攻め、足利家長(斯波家長)を倒して鎌倉を奪還しました。時行にとって2度目の鎌倉奪還です。
1338年1月に鎌倉を出陣し、洲俣川や青野原で勝利したのち、伊勢経由で京へ向かいました。5月22日の石津の戦いで顕家は戦死しましたが、時行は生き残っています。
観応の擾乱と1352年の三度目の鎌倉奪還
尊氏のほうは、1349年から弟・直義との争い(観応の擾乱)に入ります。1351年10月には直義追討の綸旨を得るため南朝と和睦(正平一統)し、薩埵峠や早川尻の戦いで直義を破りました。直義は1352年2月26日に死去しています。毒殺説は『太平記』にのみ見られ、真相は不明です。
その直後の1352年閏2月、宗良親王、新田義興・義宗、北条時行らの南朝方が尊氏を襲撃し、尊氏は鎌倉を捨てて武蔵国へ退きました。時行は脇屋義治とともに義興の別働隊に加わり、鎌倉で足利基氏を破って3度目の奪還を果たしたとされます。尊氏はすぐに反撃し、小手指原で宗良親王らを破って鎌倉を取り戻しました(武蔵野合戦)。時行の鎌倉支配は、このときも短期間でした。
時行の最期と、尊氏の最期
時行は足利方に捕らえられ、1353年(文和2年)5月20日に鎌倉の龍ノ口(現在の藤沢市龍口)で処刑されました。長崎駿河四郎と工藤二郎も共に処刑されています。根拠は『鶴岡社務記録』『諸家系図纂』『佐野本系図』です。尊氏はその5年後、1358年4月30日に京都で亡くなりました。葬儀は5月2日に真如寺で行われ、6月3日に贈従一位・左大臣となっています。
時行には、伊勢への潜伏説や、各地の潜伏地・子孫を名乗る家系の伝承がありますが、いずれも信憑性は疑問視されています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 龍口刑場跡(神奈川県藤沢市龍口):時行の終焉の地と伝わる
- 勝長寿院跡(鎌倉市):辻堂の戦いで敗れた諏訪頼重・時継父子らが自害した地とされる
- 井手の沢古戦場碑(東京都町田市):時行軍が足利直義を破った戦いの碑
- 大鹿村(長野県):「伝北条時行墓」と「伝・北条時行供養塔」がある。いずれも「伝」であり、確かな墓所とは言えない
- 長寿寺(鎌倉市):鎌倉公方の足利基氏が、父・尊氏の菩提を弔うために建てたと伝わる。境内には尊氏の遺髪を埋めたとされる五輪塔がある。春(4〜6月)と秋(10〜11月)の金・土・日に公開
- 等持院(京都):尊氏の墓所とされる
関連する人物
- 足利直義:尊氏の弟。井手の沢で時行に敗れ、鎌倉を退いた
- 護良親王:鎌倉に幽閉され、乱の混乱のなかで殺害された
- 諏訪頼重:時行を擁立し、勝長寿院で自害した
- 北畠顕家:南朝の武将。時行と共に鎌倉を攻め、石津で戦死
- 新田義興:南朝方の武将。1337年と1352年に時行と行動をともにした
- 後醍醐天皇:尊氏の無断出陣のあと、征東将軍の号を与えた
よくある質問
足利尊氏と北条時行は味方になったことがありますか?
確認できる範囲では、ありません。時行は1335年の中先代の乱で尊氏と戦い、のちに南朝方に加わって足利方と戦い続けました。1352年にも尊氏を襲った南朝方の一人として名が挙がっています。
中先代とはどういう意味ですか?
先代の北条氏と、後代の足利氏の間に立つ存在として時行を呼んだ名称とされます。鎌倉の支配が二十日余りだったため、「廿日先代」とも呼ばれます。
尊氏はなぜ天皇の許可なく出陣したのですか?
尊氏は征夷大将軍への任官を求めましたが許されず、8月2日に勅許を得ないまま鎌倉へ向かいました。天皇はその後、征東将軍の号を与えています。出陣の意図については、確かな史料の裏付けがある範囲では断定できません。
北条時行は何歳で亡くなったのですか?
生年が明確ではないため、確かな年齢は分かりません。享年は20代半ばと推測されています。
時行は生き延びたという話は本当ですか?
伊勢への潜伏説などの伝承はありますが、信憑性は疑問視されています。処刑については『鶴岡社務記録』などの記録に基づいて、龍ノ口で行われたと説明されています。




