結論:吉田松陰の死因は、安政の大獄による斬首刑
吉田松陰は病死でも事故死でもなく、幕府に死罪を言い渡されて処刑された。安政6年10月27日(1859年11月21日)、江戸の伝馬町牢屋敷で斬首され、享年は29とされる。
決め手になったのは、取り調べの場で松陰が老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)を襲う計画、いわゆる「間部要撃策」を自分から話したことだった。幕府が本来知りたかったのは別の件だったが、松陰はこの計画を「自ら進んで告白してしまう」と日本語版Wikipediaは記している。
この記事では、なぜ処刑に至ったのか、最期の様子、遺書『留魂録』、遺体がどこに葬られたかを順に整理する。
基本情報
- 人物:吉田松陰(よしだ しょういん)。長州藩士で、思想家・教育者
- 没年:安政6年10月27日(1859年11月21日)、享年29
- 時代:江戸時代末期(幕末)
- 死因:斬首(安政の大獄での死罪)
- 処刑の場所:江戸の伝馬町牢屋敷(現在の東京都中央区日本橋小伝馬町付近)
- 最後の著作:『留魂録』
- 墓所:東京都世田谷区若林(松陰神社の境内)ほか
吉田松陰の死因と処刑までの経緯
安政の大獄に巻き込まれたきっかけ
安政の大獄は、大老・井伊直弼のもとで進められた、幕府による尊王攘夷派などへの弾圧である。連座した者は100人以上にのぼったとされる。
松陰が巻き込まれたのは安政6年(1859年)だった。梅田雲浜(うめだ うんぴん)が幕府に捕らえられたことが発端である。雲浜が萩に滞在したとき、松陰は面会していた。さらに、松陰らが関わった伏見要駕策(ふしみようがさく)を立案した大高又次郎と平島武次郎は、雲浜の門下生だった。この二つのつながりから、松陰も取り調べを受けることになった。松陰は江戸へ檻送され、伝馬町牢屋敷に入れられた。
松陰はこの時点ですでに、長州藩の野山獄に入れられていた。藩政府の対応に不信を抱いた松陰が「草莽崛起論」を唱え、幕府を日本最大の障害と批判して倒幕を持ちかけたことで、長州藩に危険視されたためである。
老中暗殺計画「間部要撃策」とは
間部詮勝は、条約問題をめぐって京都に向かう幕府の老中だった。英語版Wikipediaによれば、幕府が朝廷の許可なく条約を結んだのち、松陰は間部が京都へ向かう途中でこれを捕らえる案を唱えた。しかし長州藩は武器の提供を断り、弟子たちの多くも反対するか慎重な姿勢を示した。計画は実行されなかった。
実行されなかった計画だが、幕府の側から見れば、老中の命を狙う構想があったという事実そのものが重大だった。
評定所で何が起きたのか
幕府が評定所で確かめようとしたのは、梅田雲浜が萩に滞在した際の会話の内容などだった。松陰に対する嫌疑の中心は、そこにあったと読み取れる。
ところが松陰は、尋問の中で間部要撃策を自分から打ち明けた。取り調べる側が把握していなかった計画を、本人が語ったことになる。その結果、松陰には死罪が言い渡された。
安政の大獄で厳しい処分に決まった経緯について、日本語版Wikipediaは「寛典論を退けて厳刑に処すことを決したのは井伊直弼と言われる」と書いている。形式上は将軍・徳川家定の命による処罰だが、実際には井伊直弼がすべての命令を発したとされる。ただし、松陰の判決に至る個々の協議の中身を、確かめられた資料から示すことはできない。
伝馬町牢屋敷での最期と処刑の日
伝馬町牢屋敷とはどんな場所か
伝馬町牢屋敷は、江戸の幕府の牢獄である。日本橋小伝馬町に置かれ、広さは2,677坪だった。天正年間に常盤橋外に牢屋敷にあたる施設ができ、慶長年間に小伝馬町へ移ったとされる。明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使われた。
収容先は身分で分かれていた。庶民は大牢や二間牢、御家人や僧侶などは揚屋に入れられ、旗本などの高位の者は揚座敷に収容された。ここでは斬首、敲(たたき)、入れ墨などの刑も執行された。
処刑の様子
英語版Wikipediaによると、松陰は自分の弟子が3人処刑されるまでは自分は処刑されないと考えていたという。松陰は血を吸わせるために掘られた穴の上の筵(むしろ)に、静かにひざまずいて斬首されたと記されている。同じ英語版には、執刀した山田浅右衛門が「立派な最期だった」と語ったという記述もある。
いずれも英語版に書かれた内容であり、日本語版Wikipediaにはこの細部は載っていない。伝わり方が異なる点があるため、ここでは「英語版Wikipediaはこう記している」という範囲にとどめる。
松陰は安政の大獄で処刑された人々のうち、最後の刑死者だったとされる。安政の大獄の一覧には、同じく斬罪とされた橋本左内(越前福井藩)や頼三樹三郎(京都の儒者)の名もある。
遺書『留魂録』と辞世の歌
『留魂録』が書かれた日
『留魂録』は、松陰が小伝馬町の獄中で門弟たちに宛てて書いた、最後の著作である。執筆は安政6年10月25日から26日にかけて行われた。処刑の前日までに書き上げたことになる。全十六章からなり、冒頭と末尾に歌が置かれている。
冒頭の歌と末尾の五首
冒頭には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂」の歌が置かれ、「十月念五日 二十一回猛士」と記されている。署名の二十一回猛士については、ここで取り上げた資料に説明がない。
末尾には五首が並び、「十月二十六日黄昏書す」とある。内容は、自分を討たれた者として哀れむ人に攘夷を求めること、友を求めること、攘夷の志を忘れないことなどである。日本語版Wikipediaの吉田松陰の項は、刑の前夜に詠まれた歌として「討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めてえびす払へよ」を挙げている。
牢の仲間が守り抜いたもう1通
松陰は直筆の書を2通作った。1通は門弟の飯田正伯を通じて、高杉晋作ら萩の塾生に送られた。写しは門人の間で伝わったが、この1通は行方不明とされる。
もう1通は、獄で松陰と起居をともにした沼崎吉五郎が持っていた。沼崎は三宅島へ遠島となる際、これを褌(ふんどし)の中に隠して携行し、維新を迎えたと伝わる。1874年に東京へ戻った沼崎は、1876年に神奈川県権令の野村靖を訪ね、別の本があることが初めて明らかになった。いま萩の松陰神社に伝わるのは、この本である。
遺体の行方と墓所:回向院から世田谷へ
処刑直後の埋葬
日本語版Wikipediaによると、処刑直後の松陰は豊国山回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られ、墓石は今も残る。英語版は、伊藤博文ら長州の同志が、処刑場の近くに最初に埋葬したと記す。
文久3年の改葬と松陰神社
文久3年(1863年)、松陰は東京都世田谷区若林の現在の墓所に改葬された。ここは長州藩が江戸時代初期に土地を購入し、抱屋敷を持っていた場所である。明治15年(1882年)には、同じ地に松陰神社が創建された。松陰神社の公式サイトによれば、創建の日は11月21日、松陰の処刑の日と同じ月日にあたる。境内には「松陰先生他烈士の墓所」がある。
誰が改葬を主導したかについては、日本語版Wikipediaの吉田松陰の項には書かれていないため、ここでは特定しない。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 十思公園(東京都中央区):伝馬町牢屋敷の跡の一部で、公園内に「吉田松陰終焉乃地碑」と「留魂碑」がある。時の鐘も置かれている。牢屋敷の石垣は十思スクエアに残り、東京都の旧跡に指定されている
- 回向院(東京都荒川区):処刑直後に葬られた墓地で、墓石が残る
- 松陰神社(東京都世田谷区若林):改葬後の墓所があり、境内には松下村塾の模築がある
- 萩の松陰墓地:死後100日目に遺髪を埋めた遺髪塚で、萩市の史跡に指定されている
- 萩の松陰神社:『留魂録』のもう1通が伝わる。明治23年(1890年)の建立
- 下関市の桜山神社:高杉晋作の発願による招魂墓がある
関連する人物
- 井伊直弼:安政の大獄を主導した大老。厳しい処分を決めたと言われる
- 間部詮勝:松陰が襲撃を構想した老中
- 梅田雲浜:先に捕らえられ、松陰が連座するきっかけになった人物
- 高杉晋作:『留魂録』を受け取った萩の塾生の一人。桜山神社の招魂墓の発願者
- 沼崎吉五郎:獄で同房になり、『留魂録』のもう1通を守った人物
- 橋本左内・頼三樹三郎:同じ安政の大獄で斬罪となった人物
よくある質問
吉田松陰は何歳で亡くなったのですか
享年は29とされる。安政6年10月27日(1859年11月21日)に処刑された。
吉田松陰はなぜ処刑されたのですか
安政の大獄の取り調べで、老中・間部詮勝を襲う計画を自ら語ったことが決め手になった。幕府が確かめようとしていたのは、梅田雲浜が萩に滞在した際の会話などだった。
吉田松陰の遺書は何という書ですか
『留魂録』である。処刑の前日までの安政6年10月25日から26日に、小伝馬町の獄中で書かれた。全十六章で、冒頭と末尾に歌がある。
吉田松陰の墓はどこにありますか
東京都世田谷区若林の松陰神社の境内に墓所がある。処刑直後に葬られた荒川区の回向院にも墓石が残る。萩には遺髪を埋めた松陰墓地がある。
ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の死因一覧から探せます。






