徳川家康 日本史トリビア

結論:家康の妻は正室1人・継室1人・多数の側室。将軍家と御三家は側室の子から続いた

徳川家康の正室は築山殿、継室(正室に次ぐ後妻)は豊臣秀吉の妹の朝日姫です。そのほかに、日本語版Wikipediaの系譜には、西郡局、於古茶、於愛、於竹、於都摩、於茶阿、於亀、阿茶局など、20人近い側室や女性が挙がっています。

江戸幕府の2代将軍・秀忠の母は側室の於愛(西郷局)です。尾張・紀伊・水戸の御三家の祖となった義直、頼宣、頼房も、いずれも側室の子です。嫡男の松平信康は正室・築山殿の子でしたが、家康より先に亡くなりました。

この記事では、すでに亡くなった人物の系譜に絞り、正室・継室・側室と、家康の子の世代までを整理します。なお、Wikipediaの系譜の節には妻や子の生没年が書かれていないため、別の項目で確かめられた年だけを添えます。

基本情報

  • 人物:徳川家康(江戸幕府の初代将軍)
  • 正室:築山殿(清池院)。関口親永の娘
  • 継室:朝日姫(南明院)。豊臣秀吉の妹
  • 側室:西郡局、於古茶、於愛、於竹、於都摩、於茶阿、於亀、於久、蔭山殿、於梶、阿茶局ほか
  • 子の世代:男子は松平信康から蔭山殿の子・頼房まで11人が系譜に並び、女子は亀姫、督姫、振姫、松姫、市姫の5人が記されている
  • 家としての行く末:秀忠が江戸幕府2代将軍となり、義直・頼宣・頼房が御三家(尾張・紀伊・水戸)の祖となった

家康の正室・継室・側室の一覧(徳川家康の家系図と妻たち)

正室・築山殿と継室・朝日姫

築山殿は関口親永の娘で、弘治3年(1557年)正月、今川家の人質だった松平元信(のちの家康)と結婚したとされます。生年は天文8年(1539年)から天文11年(1542年)の間とする諸説があり、確定していません。母の出自にも諸説があります。子は嫡男の松平信康(永禄2年・1559年)と長女の亀姫(永禄3年・1560年)です。

築山殿は天正7年(1579年)8月29日に亡くなりました。岡崎から二俣城へ送られる途中で命を落としたと伝えられます。処分の理由とされる武田氏への内通は、信頼できる同時代の記録がないと指摘する研究者もおり、評価が分かれています。

朝日姫は豊臣秀吉の妹で、天正14年(1586年)に家康の継室となりました。秀吉が家康との結びつきを強めるために取り決めた婚姻とされ、駿河御前と呼ばれました。天正18年(1590年)1月14日に京都の聚楽第で亡くなり、墓所は京都の東福寺の塔頭・南明院にあります。静岡市の瑞龍寺にも墓があります。

側室たちと子女の対応

系譜の節に記された側室と、その子を整理します。

  • 西郡局(蓮葉院):鵜殿長持の娘。次女・督姫の母
  • 於古茶(長勝院):永見吉英の娘。次男・結城秀康の母
  • 於愛(宝台院、西郷局):戸塚忠春の娘で、西郷清員の養女。三男・秀忠、四男・松平忠吉の母
  • 於竹(良雲院):市川昌永の娘。三女・振姫の母
  • 於都摩(妙真院):秋山虎康の娘で、穴山信君の養女。五男・武田信吉の母
  • 於茶阿(朝覚院):六男・松平忠輝、七男・松平松千代の母
  • 於亀(相応院):志水宗清の娘。八男・平岩仙千代、九男・義直の母
  • 於久(普照院):間宮康俊の娘。四女・松姫の母
  • 蔭山殿(養珠院):正木頼忠の娘で、蔭山氏広の養女。十男・頼宣、十一男・頼房の母
  • 於梶(英勝院):太田康資の娘。五女・市姫の母
  • 阿茶局(雲光院):飯田直政の娘。家康の子は産んでいない

このほか、於富(信寿院)、於夏(清雲院)、於六(養儼院)、於仙(泰栄院)、於梅(蓮華院)、於牟須(正栄院)、於松(法光院)、三条氏、松平重吉の娘が、側室として系譜に名を連ねます。名前の呼び方や院号は、資料によって表記が分かれることがあります。

なお、Wikipediaの注釈には、子の生母について「一説に下山殿(於都摩)」「一説に於梶」といった別説が記されている例もあります。生母は、資料によって見方が割れる場合があるということです。

主な側室の人物像

於愛(西郷局)は、天正6年(1578年)に家康が見初め、浜松に連れ帰ったとされます。翌年に秀忠、その翌年に忠吉を産み、天正17年(1589年)5月19日に駿府で亡くなりました。院号は宝台院です。生年は1552年説と1561年説があります。『家忠日記』が「西郷殿」と記すことから、正室だったとする説もあります。

阿茶局は天正7年(1579年)ごろに家康に召されたとされ、奥向きの取り締まりを任されました。慶長19年(1614年)の大坂の陣では和睦の交渉に加わり、元和6年(1620年)には和子(秀忠の娘)が宮中に入る際の母代わりを務めた功により従一位を得たと記されています。1637年に京都で83歳で亡くなり、雲光院の名で知られます。子は産まず、養子や養女を迎えました。

家康の子女と家の流れ(将軍家と御三家へ)

嫡男・信康と、世継ぎが秀忠になるまで

松平信康は織田信長の娘・徳姫と結婚しましたが、天正7年(1579年)9月15日、父・家康の命により二俣城で切腹しました。20歳でした。同じ年に生まれた三男・秀忠は、のちに江戸幕府の2代将軍となります。

結城秀康と督姫:他家に出た子

次男の結城秀康は、小牧・長久手の戦い後の和睦の条件として、羽柴(豊臣)秀吉の養子になったとされます。天正18年(1590年)に下総の結城晴朝の養子となって結城家を継ぎ、慶長5年(1600年)には越前北ノ庄68万石余に移りました。のちの越前松平家の祖とされます。

次女の督姫は、北条氏直に嫁ぎ、氏直の死後は池田輝政と再婚しました。輝政との間に5男2女が生まれたと記されています。

御三家の成立:義直・頼宣・頼房

九男の義直は、甲府、清洲を経て名古屋藩の初代藩主となり、尾張徳川家の祖となりました。十男の頼宣は、水戸、駿府を経て紀伊の和歌山藩の初代藩主となり、紀州(紀伊)徳川家の祖です。十一男の頼房は、下妻を経て水戸藩の初代藩主となり、水戸徳川家の始祖です。頼宣と頼房は同じ母・蔭山殿の子です。8代将軍・吉宗は頼宣の孫にあたり、紀州藩主の家系から将軍になりました。

ゆかりの地と関連する人物

  • 京都・東福寺の塔頭 南明院:朝日姫の墓所
  • 静岡市・瑞龍寺:朝日姫の墓があるとされる寺
  • 東京都江東区・雲光院:阿茶局の墓所の一つ。もう一つは京都の上徳寺
  • 二俣城(遠江国):松平信康が切腹した城として記される
  • 関連する人物:豊臣秀吉(朝日姫の兄)、織田信長(信康の妻・徳姫の父)、徳川秀忠、結城秀康、徳川義直・頼宣・頼房

よくある質問

家康の側室は何人いたのですか?

日本語版Wikipediaの系譜には、正室と継室のほかに、側室として20人近い名前が挙がっています。資料によって数え方や名前の表記が異なるため、人数は一つに定まりません。

2代将軍・秀忠の母は誰ですか?

側室の於愛(西郷局、宝台院)です。天正7年(1579年)に秀忠を産み、翌年に松平忠吉も産みました。

御三家の祖はどの側室の子ですか?

尾張の義直は於亀(相応院)、紀伊の頼宣と水戸の頼房は蔭山殿(養珠院)の子です。

阿茶局に子はいましたか?

家康の子は産んでいません。実子は先夫・神尾久宗との間の神尾守世と神尾守繁と記されており、養子や養女も迎えています。

この系譜は確定した事実ですか?

側室の出自や子の生母には、資料によって別説が記されている部分があります。この記事では、Wikipediaに記された範囲を紹介しました。

ほかの人物についても知りたいときは、歴史上の人物の子孫と家系図まとめから探せます。