結論:太宰治の墓は三鷹の禅林寺にあり、鷗外の墓の斜め向かいに立つ
太宰治の墓は、東京都三鷹市下連雀の禅林寺(黄檗宗)にあります。JR中央本線の三鷹駅から徒歩10分ほどの場所です。墓は、同じ寺に眠る森鷗外の墓と向き合う位置にあり、正確には斜め向かいです。この配置は、鷗外を敬愛した太宰本人の希望によるものとされています。
毎年6月19日は、墓前で「桜桃忌」が営まれます。この日は太宰の誕生日であり、玉川上水で亡くなった太宰の遺体が見つかった日でもあります。命日の6月13日とは別の日なので、混同しやすい点です。
以下では、墓の場所、鷗外との関係、桜桃忌の由来を、Wikipedia と三鷹市の広報で確かめられた範囲でまとめます。
基本情報
- 人物:太宰治(本名は津島修治。生まれは1909年)
- 没年:1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で入水。満38歳
- 遺体の発見:6日後の6月19日。この日は満39歳の誕生日にあたる
- 墓所:東京都三鷹市下連雀、禅林寺(山号は霊泉山、黄檗宗)
- アクセス:JR中央本線三鷹駅から徒歩10分
- 戒名:文綵院大猷治通居士
- 墓石の文字:「太宰治」。井伏鱒二の筆とされる
- 法要:毎年6月19日の桜桃忌。7月9日には鷗外を偲ぶ「鴎外忌」もある
太宰治の墓地・禅林寺はどこにある?場所と墓の様子
三鷹駅から徒歩10分の黄檗宗の寺
禅林寺の所在地は三鷹市下連雀4-18-20で、三鷹駅の南方、市域のほぼ中央にあたります。駅からは歩いて10分ほどです。三鷹市の広報も、桜桃忌の記事で「墓所のある禅林寺(下連雀)」と案内しています。
宗派は黄檗宗です。開山は梅嶺道雪、開基は駒田孫右衛門、中興は賢州とされます。
禅林寺の成り立ち:明暦の大火から黄檗宗へ
寺の起こりは江戸時代初期です。明暦の大火で神田連雀町を離れた町民が移り住み、浄土真宗本願寺派の寺として創建したと伝わります。のちに台風で堂が倒れ、黄檗宗の賢洲元養が再興して「禅林寺」と改めました。
墓石と並ぶ墓
墓石には筆名の「太宰治」が刻まれています。Wikipedia によると、その文字は師の井伏鱒二が書きました。津島美知子夫人の墓は、太宰の墓の隣にあります。
なお、太宰を寺に葬ることには、当初は檀家から強い反対があったと伝えられます。当時の住職が説得したという話です。いまは全国からファンが訪れる墓所ですが、もとは地元の檀家の寺の墓地でした。
なぜ太宰治は森鷗外の向かいに眠るのか?墓にまつわる諸説
太宰が書いた「たち依らば大樹の陰」
Wikipedia には、太宰が「たち依(よ)らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」と書いたとあります。鷗外を、寄り添うべき大樹にたとえた一文です。禅林寺の項には、太宰の墓が鷗外の墓の向かいに建てられたのは、鷗外を敬愛していた太宰本人の希望によるとあります。
ただし、太宰が自分の死後の墓所をどこまで具体的に望んでいたかを、一次資料で詳しく確かめることは、この記事ではしていません。ここで言えるのは、墓の位置は太宰自身の希望によるとされている、という点までです。
鷗外の墓がここにある理由
鷗外は1922年(大正11年)7月9日に満60歳で亡くなりました。墓は最初、東京の弘福寺にありました。関東大震災のあとに、禅林寺と、出生地である津和野の永明寺に改葬されています。年譜では、1927年(昭和2年)に墓が禅林寺へ移されたとされます。禅林寺の項は、元の寺院が被災したために移ってきたと説明しています。
つまり鷗外の墓は、先に禅林寺にありました。太宰の墓は、その向かいを選んで建てられたことになります。
「森林太郎ノ墓」と「太宰治」
鷗外の墓には、「鷗外」の号も、生前の階級・位階・勲等も刻まれていません。刻まれたのは「森林太郎ノ墓」だけで、墓碑銘は中村不折が書きました。1922年7月6日付の遺言は、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まります。
本名を刻んだ鷗外と、筆名のまま眠る太宰は、並べてみると対照的です。ただし、筆名を刻んだ理由を太宰の遺族や関係者が語った記録は、確かめられませんでした。両者の違いを物語として読むのは、読者の自由な楽しみ方にとどめておきます。
桜桃忌とは?6月19日の由来と、命日との違い
6月13日・6月19日・誕生日の関係
太宰は1948年6月13日に玉川上水で入水し、満38歳で亡くなりました。遺体が見つかったのは6日後の6月19日で、この日は太宰の39回目の誕生日でした。桜桃忌の日付は、遺体が発見された日であり、誕生日でもあるこの6月19日に決められています。命日は6月13日なので、「命日の法要」ではありません。
名付け親は今官一、由来は短編「桜桃」
桜桃忌の名は、太宰が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、同郷の友人の今官一が提案しました。「メロス忌」などの案もあったと Wikipedia は記します。桜桃は太宰の故郷・津軽を代表する果物で、鮮烈な生涯と珠玉の短編を残した作家のイメージに合うとされました。
太宰の初七日のころ、友人や知人の間から、毎年集まって偲ぼうという声が出ました。翌1949年に最初の桜桃忌が開かれています。
桜桃忌のうつりかわり
初期は友人・知人だけの小さな集まりでした。亀井勝一郎が取り仕切り、小山清ら弟子が事務を担当しました。遺族を招き、墓前で酒を酌み交わし、サクランボをつまみながら思い出話をするのが常でした。1949、50年ごろは参列者が多く、その後は30〜40名ほどに減ります。
1957年ごろから、全集の刊行や教科書への掲載をきっかけにファンが急増しました。筑摩書房が主催するようになり、1965年以降は弟子たちの世話人会が運営します。1960年代から80年代は、毎年数百人が集まりました。世話人会は1992年に解散しましたが、いまも6月19日には各地のファンが墓前に集まっています。
太宰治の墓参りの心得と、よくある誤解
桜桃忌の日の三鷹
三鷹市の広報(2016年6月5日号)は、6月19日の桜桃忌に、墓所のある禅林寺に毎年多くの太宰ファンが参拝に訪れると伝えています。この年は、三鷹駅南口周辺で太宰にちなむ催しが企画されました。観光ガイド協会が、墓参りをした人を太宰ゆかりの場所へ案内する催しもありました。年によって内容は変わるので、最新の予定は三鷹市や観光協会の案内で確かめてください。
墓参りで気をつけたいこと
禅林寺の墓地は、檀家の人々が眠る寺の墓地です。見学地ではなく墓参りの場所として、静かに手を合わせるのが基本です。供え物や撮影、混雑時の動き方には、寺や遺族の事情があります。現地の掲示と寺の案内に従ってください。
よくある誤解
- 「桜桃忌は命日」:命日は6月13日で、6月19日は遺体の発見日であり誕生日です。
- 「墓石に本名が刻まれている」:刻まれているのは筆名の「太宰治」です。
- 「鷗外の墓は昔から禅林寺にあった」:最初は弘福寺にあり、関東大震災のあとに禅林寺へ改葬されました。
ゆかりの地と関連する人物
- 禅林寺(三鷹市下連雀):太宰治と森鷗外の墓がある。7月9日の鴎外忌には、鷗外のファンが太宰の墓にも花を供えることで知られる。
- 太宰治文学サロン(三鷹市下連雀):三鷹市の広報に載る、太宰関連の展示や朗読会の会場。
- 金木:太宰の出身地。桜桃忌の行事が行われていたが、遺族の要望で1999年から「太宰治生誕祭」に改められた。
- 森鷗外:太宰が敬愛した作家。墓は禅林寺と津和野の永明寺にある。
- 井伏鱒二:太宰の師。墓石の「太宰治」の文字を書いたとされる。
- 今官一:太宰の同郷の友人で、桜桃忌の名付け親。
よくある質問
太宰治の墓はどこにありますか?
東京都三鷹市下連雀の禅林寺にあります。三鷹駅から徒歩10分ほどで、森鷗外の墓の斜め向かいです。
桜桃忌はいつですか?
毎年6月19日です。太宰の誕生日で、遺体が発見された日でもあります。命日は6月13日です。
「桜桃忌」の名前は誰が付けましたか?
太宰の同郷の友人の今官一が提案しました。太宰が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなんでいます。
なぜ鷗外の墓の向かいに太宰の墓があるのですか?
鷗外を敬愛していた太宰本人の希望によるとされています。鷗外の墓は関東大震災のあとに禅林寺へ改葬されたもので、太宰の墓が後から向かいに建てられました。
墓石には何と刻まれていますか?
「太宰治」と刻まれています。文字は師の井伏鱒二の筆とされます。





