足利尊氏

結論:勇猛で寛大、物惜しみしない人柄。かつての主君を倒し、のちに天皇とも戦った

足利尊氏は、鎌倉幕府の御家人でありながら1333年に幕府を見限って六波羅探題を滅ぼし、その後は後醍醐天皇と対立して室町幕府を開いた武将です。人柄については、親交のあった禅僧・夢窓疎石が「心が強い」「慈悲深く、敵も許した」「金銀に執着しない」という3点で評したと伝わります。

鎌倉幕府を倒した功労者が、その後に天皇方と戦うことになった経緯は、尊氏の性格と時代の事情の両方から語られます。この記事では、人柄を伝える逸話、幕府滅亡から南北朝、室町幕府の成立までの流れ、そして評価が時代で変わった理由を順にたどります。

基本情報

  • 生没年:嘉元3年(1305年)生まれ、延文3年4月30日(1358年)没。享年54。生まれた日は史料が見つかっておらず不明とされる
  • 時代:鎌倉時代末期〜南北朝時代(室町時代の初代将軍)
  • 立場:足利氏の当主。初名は「高氏」で、後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を受けて「尊氏」と改名した(1333年)
  • 父母:父は足利貞氏、母は側室の上杉清子
  • 主な業績:六波羅探題の攻略、建武式目の制定、暦応元年(1338年)の征夷大将軍就任と室町幕府の成立、安国寺・利生塔の設立
  • 死因:背中の腫れ物とされる
  • 菩提寺:京都の等持院。戒名は「等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿」

足利尊氏はどんな性格だった?人柄を伝えるエピソード

夢窓疎石が語った「強さ」「慈悲」「無欲」

尊氏と親交のあった夢窓疎石は、尊氏の魅力を次の3点で説明したとされています。

  • 心が強く、命の危険が何度もあっても、笑みを含んで死を恐れる様子がなかった
  • 生まれつき慈悲深く、他人を恨むことを知らず、多くの仇敵も許して我が子のように接した
  • 心が広く、金銀に執着せず、武具や馬なども人々に与えた

これは本人に近い立場の人物による評であり、尊氏を好意的に見る視点が入っている点は頭に置いておく必要があります。ただ、後で見るように、行動の記録にもこの評を裏づけるような話が残っています。

八朔の贈り物は夕方には空っぽ

『梅松論』には、八朔(旧暦8月1日)の逸話が載っています。この日は贈答の習慣があり、尊氏のもとにも品物が次々に届きました。ところが尊氏は、それらを届いた先から人に与えてしまい、夕方には手元に何も残らなかったといいます。夢窓疎石の「物に執着しない」という評を、そのまま絵にしたような話です。

降参した敵は許して幕閣に迎えた

寛大さは政治の場にも表れています。畠山国清や斯波高経のように、一度は敵方についた者でも、降参すれば許して幕府の役職に迎えました。軍記物の逸話だけでなく、こうした人事の面でも寛大な対応が確認できます。

胆力を伝える記録もあります。『源威集』は、文和4年(1355年)の東寺合戦で、尊氏が動揺せず落ち着いていた様子を記しています。

鎌倉幕府を裏切った理由と六波羅探題攻略

北条高時の名をもらった御家人

尊氏は元応元年(1319年)に元服し、従五位下・治部大輔に叙されました。このとき、鎌倉幕府の得宗・北条高時から一字をもらって「高氏」と名乗ったとされます。正室の赤橋登子も北条一門の出で、足利氏は北条氏と深い姻戚関係で結ばれていました。

尊氏が13歳のとき、母違いの兄・高義が21歳で亡くなったため、尊氏が後継者の立場になりました。足利氏の嫡男が通例名乗る「三郎」ではなく「又太郎」と名づけられていた点について、父・貞氏が北条氏との関係を重んじ、兄の遺児に家督を継がせることを意識したためと考えられています。

元弘の乱:父の喪中でも出陣を命じられる

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇方の挙兵に対し、幕府は笠置山や下赤坂城の攻撃を高氏に命じました。高氏は父・貞氏の喪中であることを理由に辞退しましたが、許されませんでした。『太平記』は、これが幕府への反感につながったとしています。また、元弘3年(1333年)に上洛する際、幕府は妻の登子と嫡男・千寿王(のちの義詮)を人質として鎌倉に残させました。

篠村八幡宮で挙兵、8日後に六波羅探題が滅亡

元弘3年(1333年)4月29日、高氏は篠村八幡宮で挙兵します。そして5月7日、六波羅探題を滅亡させました。幕府の京都での拠点が倒れたことが、鎌倉幕府滅亡の大きな転機になりました。

その後、後醍醐天皇のもとで高氏は従四位下・左兵衛督に任じられ、同年8月5日には従三位・武蔵守に叙任されます。このとき後醍醐天皇の諱から一字を受け、「尊氏」と改名しました。

後醍醐天皇との協力から対立へ、南北朝の分裂

建武政権での立場:「尊氏なし」と言われた

建武の新政の機関に、尊氏は名を連ねませんでした。このため「尊氏なし」と皮肉られたといいます。ただし、尊氏が早い時期に奉行所を設けて多数の文書を出していたことも指摘されています。

中先代の乱と、天皇の許しを待たない出陣

建武2年(1335年)、北条時行が反乱を起こし、鎌倉が一時占拠されます(中先代の乱)。尊氏は8月2日、天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かいました。8月9日に天皇は征東将軍の任命でこれを追認し、尊氏は8月19日に鎌倉を回復します。以後、尊氏は自ら恩賞を与えるようになりました。

同年11月、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏の討伐を命じ、12月に箱根・竹ノ下の戦いが起こります。尊氏はこれに勝ちました。

九州への敗走から、湊川の戦いで巻き返し

勝ったあとの形勢は、すぐに逆転します。建武3年(1336年)1月30日には京都周辺の戦いで敗れて篠村八幡宮へ撤退し、2月11日の豊島河原の戦いで大敗して九州へ向かいました。

ところが3月2日、多々良浜の戦いで菊池武敏らを破って勢力を立て直します。5月25日の湊川の戦いでは新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月に京都を再び制圧しました。

この間の8月17日、尊氏は清水寺に、遁世(俗世を離れること)を願う願文を納めています。勝ち続けていた武将が出家を願っていたという事実は、「勇猛で寛大」という評とは別の、迷いを抱えた一面を示す資料としてよく取り上げられます。

三種の神器と南北朝の始まり

同年11月2日、三種の神器が光明天皇に譲られました。11月7日には『建武式目』十七条が制定され、12月に後醍醐天皇は吉野へ脱出して南朝を立てます。京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代の始まりです。尊氏が征夷大将軍に任じられたのは、暦応元年(1338年)8月11日で、これをもって室町幕府の成立とされます。

室町幕府の始まりと観応の擾乱、評価の移り変わり

弟・直義との争い(観応の擾乱)

幕府成立後、政治の面では弟の足利直義が重要な役割を担いました。『難太平記』などをもとに、尊氏と直義が役割を分けて支える「二頭政治」だったという見方が定説とされてきましたが、この呼び方には疑問も出され、尊氏自身の発給文書の多さから、尊氏の意思も強く反映されていたとする反論もあります。

やがて兄弟は対立します。1349年閏6月の御所巻事件で直義は出家して政務から退き、1350年に直義は南朝に降伏しました。1351年10月には尊氏も南朝と和睦しています(正平一統)。1352年2月26日、直義は死去しました。『太平記』は毒殺をほのめかしていますが、真相は不明です。

天龍寺と安国寺・利生塔に込めた弔い

尊氏は1339年以降、夢窓疎石の勧めで、後醍醐天皇の冥福を祈るために天龍寺を造営しました。造営費は、元へ派遣した天龍寺船で賄ったとされます。さらに諸国に安国寺と利生塔を設けました。戦で敵対した相手を弔う姿勢は、前に見た「敵も許す」という評と重なります。

戦前は「逆賊」、戦後に再評価

江戸時代の水戸学では、尊氏は「逆賊」とされました。昭和9年(1934年)には、中島久万吉商工大臣が尊氏の再評価を述べたことが問題となり、辞任しています。昭和14年(1939年)には、映画法の認定基準で尊氏を善人として描くことが問題視されました。

戦後は、発給文書を実証的に分析する研究が進み、尊氏の政治手腕を高く評価する研究者が現れました。一方、1960年代には佐藤進一が尊氏を双極性障害と推測しましたが、2010年代に呉座勇一が、専門家でない者が断定する危うさを指摘し、尊氏の行動は後醍醐への忠誠と直義への兄弟愛で一貫していたと論じています。尊氏の性格の「振れ幅」は、今も研究者の間で解釈が分かれる点です。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 鑁阿寺(栃木県足利市家富町):足利氏の氏寺。1196年に足利義兼が持仏堂を建て、1234年に足利義氏が伽藍を整えました。本堂は2013年に国宝に指定され、境内は「足利氏宅跡」として国の史跡です。
  • 等持院(京都市北区):足利氏の菩提寺。尊氏の墓所と木像があります
  • 篠村八幡宮:1333年4月に挙兵した地として知られます
  • 天龍寺(京都市):後醍醐天皇の冥福を祈り、尊氏が造営しました

関連する人物

  • 後醍醐天皇:尊氏が名の一字を受けた天皇であり、のちに敵対した相手
  • 足利直義:弟。幕府の運営を担い、のち観応の擾乱で兄と争う
  • 足利義詮:嫡男で、のちの二代将軍
  • 新田義貞・楠木正成:建武の乱で戦った相手
  • 夢窓疎石:尊氏と親交があった禅僧で、天龍寺造営を勧めた

よくある質問

足利尊氏の性格はどんな人でしたか?

夢窓疎石は、心が強いこと、慈悲深く敵を許すこと、金銀に執着しないことの3点を挙げたと伝わります。八朔の贈り物を全部人に与えた逸話も、その評に合います。一方で、清水寺に遁世を願う願文を納めるなど、迷いを抱えた面もうかがえます。

足利尊氏は、どのように鎌倉幕府を滅ぼしたのですか?

1333年4月29日に篠村八幡宮で挙兵し、5月7日に六波羅探題を滅亡させました。この京都での拠点の崩壊が、幕府滅亡の転機になりました。

後醍醐天皇との関係は、なぜ悪くなったのですか?

1335年の中先代の乱で、尊氏が天皇の許可なく鎌倉へ向かい、鎌倉回復後は自ら恩賞を与えるようになったことが対立の背景にあります。同年11月に後醍醐天皇が新田義貞に尊氏討伐を命じ、戦いに発展しました。

なぜ南北朝時代が始まったのですか?

1336年に尊氏が京都を制圧し、光明天皇に三種の神器が譲られた後、後醍醐天皇が12月に吉野へ脱出して南朝を立てたためです。

足利尊氏の評価は、なぜ時代で違うのですか?

江戸時代の水戸学以来、尊氏は天皇に背いた「逆賊」とされ、戦前もその見方が強く、1934年には再評価の発言をした大臣が辞任しました。戦後は文書の分析による実証的な研究が進み、評価が見直されています。