
江戸幕府5代将軍徳川綱吉と聞くと、「犬公方」というあだ名や「生類憐みの令」を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、彼の人生はそれだけではない。この記事では、綱吉の側室、謎に包まれた死因、そして驚くべき身長といった、これまであまり知られてこなかった徳川綱吉の意外な一面に光を当てる。教科書では学べない綱吉の真実に触れて、彼の人物像をより深く理解していこう。
- 徳川綱吉の側室「安子」は、実はドラマに登場する架空の人物だった。
- 公式な死因は麻疹(はしか)だが、正室による刺殺説など、さまざまな噂が生まれた背景には当時の社会の不満があった。
- 綱吉の身長は、なんと124cmだった可能性が非常に高い。
- 低身長というコンプレックスが、側用人・柳沢吉保との特別な関係性を築いた。
- 「生類憐みの令」だけでなく、学問を奨励するなど、徳川綱吉の治世には多くの側面があった。
徳川綱吉の側室「安子」の真実:大奥の権力争いと瑞春院
徳川綱吉の側室といえば、NHK大河ドラマや時代劇でよく描かれる「安子」という女性を思い浮かべる人もいるかもしれない。しかし、実はこの「安子」という名前は史料には登場せず、ドラマ「大奥~華の乱~」で創作された架空の人物だ。これは、歴史上の人物が物語の都合で新しいキャラクターに作り替えられる良い例と言える。実際に綱吉の唯一の子供たち(鶴姫と徳松)を産んだのは、「お伝の方」、のちに「瑞春院」と呼ばれる女性だった。
綱吉の子供を唯一産んだお伝の方
お伝の方は、もともと身分の低い武士の娘として生まれた。彼女の母親は、4代将軍・家綱の生母の親戚という複雑なつながりを持っていた。このような出自の低さは、綱吉の生母である桂昌院が八百屋の娘だったことと共通している。この共通点が、お伝の方と桂昌院の関係を良好にしたのかもしれない。お伝の方は、綱吉がまだ館林藩主だった時代に、桂昌院付きの侍女として大奥に入った。その後、綱吉の側用人である牧野成貞の推薦で「御中﨟」という将軍の寝所に侍る地位にまで出世した。
綱吉はお伝の方を大変かわいがり、彼女は延宝5年(1677年)に長女の鶴姫を、延宝7年(1679年)に長男の徳松を産んでいる。注目すべきは、綱吉に子供を産んだ側室は、このお伝の方ただ一人だったことだ。将軍の世継ぎを産むことは、側室の地位を飛躍的に高め、場合によっては正室をしのぐほどの権力を持つことを意味した。幼い徳松が亡くなってしまった後も、お伝の方は鶴姫の婿である紀州藩主・徳川綱教を次の将軍にしようと画策するなど、幕府の後継者問題にまで深く関わっていった。このように、将軍の個人的な寵愛が、女性の政治的な影響力に直接結びつくのが大奥という場所の特殊な構造だったのだ。
将軍の権威を借りた「利権誘導」
お伝の方は身分が低かったにもかかわらず、綱吉の寵愛と子供の存在を背景に、正室や他の側室と対立するほどの権力を手にした。彼女の権力は、自身の親族にまで影響を及ぼした。例えば、彼女の兄が賭博の喧嘩で殺された際、犯人は通常よりも重い「獄門」という極刑に処されている。これはお伝の方の権力を行使した「利権誘導」の典型的な例とされている。また、お伝の方の妹が、本来なら家が断絶するはずだった遠藤家の養子となり、家督を継いだことも、彼女の権力あってのことだった。
このような出来事は、将軍の個人的な感情が、側室を通じて幕府の政治や法律にまで影響を与えたことを示している。大奥は単なるプライベートな場所ではなく、将軍の権力と密接に結びついた「政治的な空間」だったのだ。
[補足] 瑞春院(お伝の方)の主要情報
項目 | 詳細 |
本名 | お伝の方 |
諡号 | 瑞春院 |
別称 | 小谷の方、五の丸(三の丸)殿、御袋様 |
出自 | 下級武士・小谷正元の娘 |
生没年 | 元文3年(1738年)に81歳で死去 |
綱吉との関係性 | 綱吉の唯一の子供(鶴姫、徳松)の生母。綱吉の寵愛が厚かった。 |
子嗣 | 鶴姫(長女)、徳松(長男) |
墓所 | 芝・増上寺 |
徳川綱吉の死因は本当に麻疹(はしか)だったのか?
徳川綱吉の公式な死因は「麻疹」とされている。宝永5年(1708年)に江戸で流行していた麻疹にかかり、年明けの宝永6年(1709年)1月10日に亡くなった。享年64歳だった。しかし、幕府は1月3日に「将軍の病状は軽い」と発表したにもかかわらず、そのわずか7日後に亡くなったため、さまざまな憶測を呼んだ。
劇的な異説が生まれた理由
綱吉の死因については、公式発表とは異なる多くの説がささやかれた。その中でも有名なのが、正室・鷹司信子による刺殺説だ。綱吉が側用人・柳沢吉保の息子を後継者にしようとしたことに怒った信子が、綱吉を短刀で刺し、無理心中したというものだ。信子の墓に黒い網がかけられていたという話も、この説を補強するものとして語り継がれてきた。また、正月に食べた餅を喉に詰まらせて窒息死したという説もある。
これらの劇的な話は、綱吉が短期間に病死したという事実から生まれた「後世のフィクション」だと考えられている。しかし、なぜこのような噂が広まったのだろうか。それは、当時の社会に綱吉に対する不満がたまっていたからだ。
綱吉の治世と人々の不満
綱吉の治世の後半は、元禄地震や富士山の噴火、飢饉など、大規模な災害が頻発した。当時の人々は、こうした天変地異は将軍の「徳」が足りないことに対する「天罰」だと考えていた。
さらに、綱吉の代名詞ともいえる「生類憐みの令」は、庶民の生活を厳しく制限したため、多くの人から「悪法」と非難された。違反者には厳しい罰が与えられたため、「天下の悪法」として酷評されていた。綱吉が亡くなった後、この法令はわずか1ヶ月で廃止されたことからも、いかに不評だったかがわかる。
こうした度重なる災害と、人々の生活を圧迫した悪法への不満が、綱吉に対する悪いイメージを作り上げた。そのため、綱吉の死因も「麻疹」のような自然な死ではなく、より劇的で、彼への罰のように感じられる物語として創作され、広く受け入れられたのだ。歴史上の人物の評価は、客観的な事実だけでなく、当時の社会の雰囲気や人々の感情によっても大きく変わるということがわかる。
徳川綱吉の驚きの身長:124cmが教えてくれるコンプレックス
徳川綱吉の身長は、なんと124cmだったという説が有力だ。これは今の小学生とほぼ同じくらいの身長だ。この驚きの数字は、愛知県岡崎市にある大樹寺に安置されている、歴代徳川将軍の位牌の高さに基づいている。このお寺には、将軍の身長に合わせて位牌が作られたという言い伝えがあった。
科学的な裏付け
この位牌の言い伝えは、ただの伝説ではなかった。昭和33年(1958年)に増上寺で行われた将軍の墓の発掘調査で、この説の信ぴょう性が高まった。増上寺に埋葬されていた将軍6人の遺骨を調べたところ、位牌の高さと遺骨の身長がわずか5cm以内の誤差で一致したのだ。この科学的な調査によって、綱吉の位牌の高さ124cmも、彼の実際の身長である可能性が極めて高いと証明された。
低身長が与えた影響
綱吉の低身長は、彼にとって大きなコンプレックスだったと推測される。幼い頃から頭が良かったにもかかわらず、8歳頃から身長の伸びが鈍化していったとされている。
このコンプレックスに深く関わったのが、綱吉に仕えていた柳沢安忠と、その息子である柳沢吉保だ。安忠は、綱吉の身体を馬鹿にする家臣を許さない環境を作ろうと心に誓っていた。その教えは息子である吉保にも受け継がれた。
通説では、柳沢吉保は綱吉に「ごますり」をして出世したと言われているが、実はそうではない。吉保は、綱吉の低身長というコンプレックスを深く理解し、主君をからかう者から必死に守り続けた。綱吉は、自分の弱みを理解してくれる吉保にだけは心を許し、弟のようにかわいがったのだ。そして、何事も吉保に判断を任せるようになった。吉保の出世は、単なる政治的な才能だけでなく、主君の心理的な弱さを敏感に察し、寄り添うという「人間力」によってもたらされたと言えるだろう。権力者の個人的な悩みやコンプレックスが、政治にまで影響を与えることがあるという、興味深い例だ。
徳川綱吉に関するFAQ
Q1: 徳川綱吉の死因は本当に麻疹ですか?
A: 公式には麻疹とされている。しかし、正室による刺殺説や餅による窒息死説といった、さまざまな異説が後世に創作され、広まった。これは綱吉の治世に対する当時の人々の不満が背景にあったと考えられる。
Q2: 徳川綱吉の側室「安子」とは誰ですか?
A: 「安子」という名前は史実には登場せず、ドラマ「大奥~華の乱~」で創作された架空の人物だ。綱吉の子供を産んだ唯一の側室は、「お伝の方」(瑞春院)という女性だ。
Q3: 徳川綱吉の身長はなぜ124cmだと言われているのですか?
A: 徳川将軍家の菩提寺である大樹寺に安置されている、将軍の身長に合わせて作られたと伝わる位牌の高さが124cmだったからだ。この説は、増上寺の将軍墓所の発掘調査によって、その信ぴょう性が裏付けられた。
Q4: 徳川綱吉の身長が低かったことは、彼の人物像にどう影響しましたか?
A: 低身長は綱吉にとって大きなコンプレックスだったと推測される。このコンプレックスが、側用人・柳沢吉保との特別な主従関係を築くきっかけとなり、吉保の異例の出世につながったと考えられる。
Q5: 「生類憐みの令」は本当に天下の悪法だったのですか?
A: 「生類憐みの令」は庶民の生活を厳しく制限したため、多くの人から「悪法」と非難された。しかし、一方で綱吉は学問を奨励するなど、文化を重んじる「文治政治」を推し進めた将軍でもあった。
Q6: 徳川綱吉の治世でどんな災害が起きましたか?
A: 綱吉の治世の後半には、元禄地震、富士山の噴火、飢饉など、大規模な天変地異が頻発した。これらの災害は、当時の人々から将軍の「徳」が足りないことによる「天罰」と見なされることが多かった。
結論
この記事では、徳川綱吉という人物を、側室、死因、そして身長という3つの角度から深く掘り下げてきた。「犬公方」という一面的なイメージだけでなく、彼が抱えていたであろうコンプレックスや、大奥の複雑な人間関係、そして当時の社会の空気まで、多角的に知ることができたのではないだろうか。
歴史上の人物を理解するには、教科書に書かれているような政治的な出来事だけでなく、その人の個人的な悩みや人間関係まで含めて考えることが大切だ。今回の記事で徳川綱吉という人物への興味が深まったら、ぜひ他の将軍の人生についても調べてみてほしい。歴史がもっと面白くなるはずだ。