織田信長の死因は?本能寺の変での最期と遺体が見つからない理由

結論:信長の死因は本能寺の変。49歳で自害に追い込まれたとされるが、最期の細部は史料で食い違う

織田信長は天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都の本能寺で家臣の明智光秀の軍に襲われ、49歳で亡くなりました。死因は病気ではなく、謀反による戦死に近い自害です。『信長公記』は、燃える御殿の奥で納戸を閉め、切腹したと伝えます。一方、宣教師フロイスの『日本史』は、割腹したとも焼死したとも言われるが、火事のため確定できないとしています。遺体は明智勢が探しても見つからず、そのことが後世のさまざまな伝承を生みました。

基本情報

  • 生年:天文3年5月12日(1534年6月23日)。5月28日とする別説もある
  • 没年:天正10年6月2日(1582年6月21日)、享年49
  • 時代:戦国時代から安土桃山時代
  • 立場:戦国大名。官位は従三位・権大納言、右近衛大将などを経て、正二位に至った
  • 死因:本能寺の変での自害(切腹とする史料が中心。焼死とする見方もある)
  • 死去の地:山城国京都の本能寺
  • 死後の贈位:贈従一位・太政大臣、のちに贈正一位

織田信長の死因と本能寺の変の最期

中国出陣の準備のさなかだった

当時の信長は、中国地方の攻略に向かう準備を進めており、四国攻めの準備も並行していました。明智光秀は6月1日、丹波亀山城から約1万3,000人を率いて出陣します。『川角太閤記』によると、光秀は「中国出陣の準備の検分」と偽って兵を動かしたとされます。軍勢の数には異説があり、2万、3万とする説もあります。

明智軍は6月2日の未明に桂川を越え、明け方、午前4時ごろに本能寺を取り囲みました。『祖父物語』は寄せ手を3,000余騎と記しており、史料によって数字は大きく違います。光秀本人の居場所も諸説あり、『乙夜之書物』に基づく説では、光秀は鳥羽にとどまり、斎藤利三や明智秀満らの先発隊が本能寺を襲ったとされます。

「是非に及ばず」と槍で戦った信長

『信長公記』によれば、信長は外の騒ぎを最初は喧嘩だと思っていました。しかし鉄砲の音や鬨の声を聞き、謀反だと悟ります。そこで発したとされる言葉が「是非に及ばず」です。

信長はまず弓で応戦しましたが、弦が切れたため槍に持ち替えて戦い、肘に傷を受けて建物の内部へ退きました。女房衆には避難を促しており、『当代記』は、それを三度呼びかけたと記します。宣教師の記録(フロイス『日本史』)は少し違う姿を描き、背中に矢を受け、薙刀で奮戦したのち、奥の部屋に入って戸を閉めたと伝えます。

御殿に火が放たれ、奥で自害した

御殿には火が放たれました。『信長公記』は、信長が殿中の奥深くで納戸を閉め、切腹したと記します。フロイス『日本史』は、割腹したとも、焼死したとも言われるとしつつ、火事のために確定できないと断っています。

アビラ・ヒロンの『日本王国記』には、信長が「自ら死を招いた」と述べたという噂が記録されています。ただし、これはあくまで噂として書かれたものです。

このように、自害したという大筋はおおむね共通していますが、切腹だったのか焼死だったのか、どの場面でどんな言葉を発したのかは、史料ごとに食い違います。確実に言えるのは、信長が本能寺で、火に包まれる中で命を落としたことまでです。

遺体が見つからなかった理由と死後の評価・諸説

明智勢は信長の遺体を探し出せなかった

信長の遺体は、明智勢が探しても見つかりませんでした。火災で遺体が焼失した可能性や、焼死体が多く判別できなかったためという指摘があります。『祖父物語』には、森蘭丸が信長の遺骸に畳を覆いかぶせたという話も見えます。遺体を敵に渡さないための行動だったことになりますが、これは数ある史料のうちの一つの記述です。

光秀が遺体を確保できなかったことは、後世、信長の生存説が語られる一因になったとされます。

首の行方をめぐる各地の伝承

遺体の行方については、各地に寺伝や伝承が残っています。

  • 阿弥陀寺の縁起:玉誉清玉上人が遺骸を火葬し、遺灰を寺に持ち帰って葬ったと伝える。ただし、史料としての価値は高くないとの指摘がある
  • 西山本門寺(静岡県富士宮市)の寺伝:原宗安が信長の首を寺に運んで供養したとし、「信長公首塚」の伝承がある。安部龍太郎氏や山口稔氏が唱えた説である
  • 崇福寺(岐阜市)の文書:側室のお鍋の方(興雲院)が6月6日に、信長と信忠の霊牌を崇福寺に持ち込んだとされる

どれも、本能寺で何が起きたのかを同時代の記録で裏づけるものではありません。伝承として知っておく範囲にとどめるのが安全です。

子の信忠の自刃と、同行した人数の食い違い

信長の子・織田信忠は、妙覚寺に滞在していました。本能寺の異変を知って救援に向かおうとしましたが、村井貞勝らに制止され、二条御新造へ移ります。そこで誠仁親王と和仁王(のちの後陽成天皇)を内裏へ逃がしました。

信忠の手勢は500余名、在京の馬廻衆が合流して1,000〜1,500名ほどになったとされます。正午ごろ、約1万の明智勢が攻め寄せ、近衛前久邸の屋根から弓や鉄砲で狙われるなどして死傷者が増えました。明智勢が屋内に突入して建物に放火すると、信忠は自刃します。鎌田新介が介錯し、遺体は床下に隠すよう指示されましたが、信忠の遺体も焼失しました。斎藤利治、福富秀勝、菅屋長頼、猪子兵助、団忠正らも殉じています。

信長に付き従っていた人数は、小姓衆20〜30名とする説から、150〜160名とする説まで開きがあります。本能寺での死者は約57名とされます。森蘭丸(森成利)は、『信長公記』によれば、信長の命で物見に出て明智の軍勢だと報告し、本能寺で討死した一人に名が挙がっています。

当時の本能寺は、現在の場所とは違い、東西・南北ともに約120mの四町の区画にありました。周囲を堀、石垣、土居で囲んだ城塞のような構えだったことが、2007年の発掘で確認されています。なお二条御新造の跡は、京都市中京区の両替町通御池上るの東側にあたります。

森蘭丸との関わりは、織田信長と森蘭丸のエピソードの記事でも取り上げています。

死後の評価の変化、贈られた官位と戒名、史料の読み分け

信長の評価は時代で大きく動きました。江戸時代には、新井白石らがその残虐性を強く非難し、評価は高くありませんでした。のちには勤王家として称賛されるようになります。明治時代には「建勲」の神号が贈られ、建勲神社に祀られました。

第二次世界大戦後は革新者として評価されましたが、21世紀以降の研究では、革新性を否定する見方が主流とされ、「中世社会の最終段階」とも評されています。

死後、信長には贈従一位・太政大臣が与えられ、さらに贈正一位とされました。戒名は複数が伝わり、「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」「天徳院殿龍厳雲公大居士」「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」などがあります。

信長の最期は、同時代の日本側の記録(『信長公記』)と、外国人宣教師の記録(フロイス『日本史』)で、描かれ方が違います。さらに、後世に書かれた『祖父物語』『川角太閤記』などにはそれぞれの立場や伝聞が混じります。『三河物語』には、信長が信忠の謀反を疑ったとする異説まであります。

そのため、私は「自害した」という大筋と、「遺体が確認されなかった」という事実を分けて考えるべきだと考えます。細部の言葉や場面は、どの史料に拠るのかを意識して読むと、混乱しにくくなります。

ゆかりの地と関連する人物

  • 本能寺(京都市中京区):現在の本能寺に信長公廟がある
  • 大徳寺総見院(京都市北区):信長の墓所の一つで、供養塔がある
  • 妙心寺玉鳳院(京都市右京区)、阿弥陀寺(京都市上京区):いずれも信長の墓所とされる
  • 高野山金剛峯寺:信長の供養塔がある
  • 西山本門寺(静岡県富士宮市):「信長公首塚」の伝承が残る
  • 崇福寺(岐阜市):信長と信忠の霊牌が持ち込まれたとする文書がある

関係の深い人物としては、謀反を起こした明智光秀、本能寺で戦死した森蘭丸、二条御新造で自刃した子の信忠がいます。家臣では、丹羽長秀の功績と生涯も、信長の天下取りを支えた人物の一人として参考になります。信長がどのように他の大名と結びつき、また敵対したかは、武田信玄と織田信長の関係の記事で整理しています。生まれ育った土地については、織田信長の出身地の記事をどうぞ。

よくある質問

織田信長は何歳で亡くなりましたか?

享年は49歳です。天正10年6月2日(1582年6月21日)に、本能寺の変で亡くなりました。

信長は切腹したのですか、それとも焼死ですか?

『信長公記』は、殿中の奥で納戸を閉めて切腹したと記します。フロイス『日本史』は、割腹とも焼死とも言われるが、火事のため確定できないとしています。史料によって書き方が違います。

信長の遺体はなぜ見つからなかったのですか?

明智勢は遺体を探しましたが、見つけられませんでした。火災で遺体が焼失した可能性や、焼死体が多く判別できなかったためという指摘があります。『祖父物語』には、森蘭丸が遺骸に畳を覆いかぶせたという記述もあります。

信長のお墓はどこにありますか?

本能寺、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、阿弥陀寺などが墓所として挙げられます。高野山金剛峯寺には供養塔があります。首塚の伝承は西山本門寺にあります。

信長の最期の言葉は何ですか?

『信長公記』は、謀反を知った信長が「是非に及ばず」と述べたと伝えます。ただし、すべての史料がこの言葉を記しているわけではありません。