結論:井伏鱒二は太宰治の師であり、生活の面倒まで見た後見人だった
太宰治は1930年(昭和5年)、東京帝国大学に入学した年に井伏鱒二のもとへ出入りし、弟子入りしました。以後、井伏は入院の手配、転居の世話、結婚の仲介と、太宰の生活の節目に関わり続けます。
ところが1948年6月に太宰が亡くなったあと、遺書に井伏を「悪人」とする言葉があったことが話題になりました。両者の確執については諸説あり、詳しいことは分かっていません。この記事では、2人の関係を日本語版Wikipediaに書かれた事実で追い、遺書の言葉をどう受け止めるかを整理します。
基本情報
井伏鱒二
- 生没年:1898年(明治31年)2月15日〜1993年(平成5年)7月10日(95歳、肺炎で死去)
- 出身:広島県安那郡加茂村粟根(現・福山市)
- 時代:明治〜平成。小説家として活動したのは主に昭和
- 代表作:『山椒魚』(1929年)、『ジョン万次郎漂流記』(1937年)、『本日休診』(1950年)、『黒い雨』(1966年)
- 受賞・栄典:直木賞(1938年)、野間文芸賞(1966年)、文化勲章(1966年)など
太宰治
- 生没年:1909年(明治42年)6月19日〜1948年(昭和23年)6月13日(享年38)
- 出身:青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)。本名は津島修治
- 時代:昭和時代
- 代表作:『富嶽百景』(1939年)、『走れメロス』(1940年)、『津軽』(1944年)、『斜陽』(1947年)、『人間失格』(1948年)
- 墓所:東京都三鷹市の禅林寺
井伏鱒二と太宰治の師弟関係:出会いから結婚の仲介まで
1930年の出会いと弟子入り
太宰は中学時代に井伏の『幽閉』(のちの『山椒魚』の原形となった作品)を読んで興奮したとされます。1930年に東京帝国大学へ入学した太宰は、同年5月から井伏のもとに出入りするようになり、小説家を志して師事しました。井伏のほうも、この年に太宰と初めて会ったとされています。
井伏の周辺には、1929年ごろに発足した「阿佐ケ谷将棋会」という集まりがあり、太宰もその会員の一人でした。文学の師弟というより、将棋盤を囲む仲間でもあったわけです。
「太宰治」の筆名と井伏
1933年、津島修治は「太宰治」の名で作品を発表し始めます。この筆名について、井伏は回想「太宰君」の中で、津軽弁でも「ダザイ」と発音できる点を評価したと書いています。
入院、転居、そして結婚
1936年10月、太宰の妻・小山初代が井伏に助けを求め、太宰は東京武蔵野病院に入院しました。太宰はパビナール(鎮痛剤)への依存に陥っており、井伏はその様子を佐藤春夫に伝えていたとされます。2023年には、神奈川近代文学館の展覧会で、井伏が佐藤春夫にこの病状を伝えた新発見の書簡が展示されました。
1937年6月には、井伏の斡旋で太宰が杉並区天沼へ転居したとされています。
そして1938年、井伏の紹介で、甲府の地質学者・石原初太郎の娘である石原美知子と見合いをします。井伏は媒酌人を引き受けることに慎重だったとされ、太宰は井伏宛に「結婚誓約書」を書きました。この誓約書は井伏の遺品から見つかり、のちに神奈川近代文学館へ寄贈され、2014年と2023年の展示で公開されています。1939年1月8日、2人は杉並区の井伏宅で結婚式を挙げました。井伏の側から見ても、この結婚の仲介は太宰の生活を支えた大きな出来事でした。
戦時下の疎開と、すれ違った2人の距離
それぞれの疎開先
戦争末期、2人はどちらも甲府に身を寄せています。井伏は1944年7月、甲府市甲運村(現・甲府市和戸町)の岩月家に疎開しました。太宰は1945年3月、妻子を甲府の石原家(妻・美知子の実家)に疎開させています。
1945年7月6〜7日の甲府空襲で、井伏は被災しました。太宰の妻子が身を寄せていた石原家は全焼し、太宰は津軽の生家へ逃れます。井伏はその後、広島県福山の生家に再び疎開しました。同じ甲府にいながら、2人はこの空襲のあと、それぞれ郷里へ向かったことになります。
戦後、それぞれの道
太宰は戦後、『斜陽』(1947年)や『人間失格』(1948年)を発表しました。一方の井伏は1950年に『本日休診』を発表し、同年に読売文学賞を受けています。ここでは、戦後の2人が別々の場所で執筆を続けたことを確認するにとどめます。この時期の交流の頻度や、2人の気持ちの変化を伝える資料は、今回確認できた範囲にはありません。
遺書の「井伏さんは悪人です」をどう読むか
1948年6月の死
1948年6月13日、太宰は東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)の玉川上水で入水して亡くなりました。遺体が見つかったのは6日後の6月19日で、この日は太宰の誕生日にあたります。のちにこの日は「桜桃忌」と呼ばれるようになりました。名づけたのは同郷の今官一とされています。
遺書にあった言葉
1998年に遺族が公開した遺書は、妻の美知子にあてたもので、「誰よりも愛してゐました」と記されています。死の理由については「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」と説明されています。この遺書をめぐっては、「井伏さんは悪人です」と書かれていたことが話題になったと伝えられています。
確執はあったのか
この一言の意味について、両者の確執には諸説あるものの、詳細は不明とされています。確かなのは、太宰が遺書に井伏への言葉を残したことと、それまでの約18年間に井伏が入院、転居、結婚と節目ごとに太宰を世話した事実です。どちらも資料に残る事実で、一方だけでこの関係を説明することはできません。
私は、1つの言葉だけを取り出して2人の関係を決めつけるのは避けたいと考えます。この記事では、遺書の言葉を「話題になった」という形で紹介し、真意までは断定しません。
墓石に残る井伏の字
三鷹市・禅林寺にある太宰の墓石の「太宰治」の文字は、井伏鱒二の筆によるとされています。遺書の言葉が話題になる一方で、墓には井伏の書が刻まれていることも、2人の関係を考える材料になります。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 禅林寺(東京都三鷹市):太宰治の墓所。墓石の文字は井伏の筆とされる
- 玉川上水(三鷹市付近):太宰が亡くなった場所として知られる
- 福山市(広島県):井伏鱒二の生地。晩年に福山市名誉市民(1966年)、のちに広島県名誉県民(1989年)の称号を受けた
- 神奈川近代文学館(横浜市):太宰の「結婚誓約書」が寄贈され、2014年と2023年の展示で公開された
関連する人物
- 佐藤春夫:太宰の師の一人。井伏が太宰の病状を伝えた相手とされる
- 石原美知子:甲府の地質学者の娘で、1939年に太宰と結婚した
- 小山初代:美知子との結婚前の太宰の妻。1936年10月に井伏へ助けを求めた
- 古田晁:筑摩書房の人物。1948年6月、井伏に相談して太宰の静養計画を立てたとされる
補足として、井伏が晩年に発表した『黒い雨』(1965年1月〜1966年9月に『新潮』で連載、当初の題名は『姪の結婚』)は、1966年に野間文芸賞を受賞し、1989年に今村昌平監督で映画化されました。なお井伏の没後には、この作品の素材をめぐって、被爆者の日記を使ったものだとする主張も出ており、これに批判する立場の研究者もいます。この点は評価が分かれているため、ここでは紹介にとどめます。
よくある質問
井伏鱒二と太宰治は、いつ出会ったのですか。
1930年とされています。太宰は同年に東京帝国大学へ入学し、5月から井伏のもとに出入りするようになりました。
太宰治の結婚に、井伏鱒二はどう関わりましたか。
1938年に石原美知子との見合いを紹介し、結婚を仲介しました。1939年1月8日、結婚式は杉並区の井伏宅で行われました。井伏が媒酌人を引き受けるのに慎重だったとされ、太宰は「結婚誓約書」を書いています。
太宰治の遺書に、井伏鱒二のことは書かれていたのですか。
「井伏さんは悪人です」と書かれていたことが話題になったと伝えられています。ただし、両者の確執には諸説あり、詳細は不明とされています。
太宰治の墓の文字は、誰が書いたのですか。
東京都三鷹市・禅林寺の墓石にある「太宰治」の文字は、井伏鱒二の筆によるとされています。
井伏鱒二の代表作は何ですか。
『山椒魚』(1929年)、『ジョン万次郎漂流記』(1937年)、『本日休診』(1950年)、『黒い雨』(1966年)などがあります。直木賞は1938年、野間文芸賞と文化勲章は1966年に受けています。





