結論:光琳版は宗達の国宝を忠実に写しつつ、構図と視線を作り替えた作品
尾形光琳の「風神雷神図屏風」は、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」(国宝)を模写した作品で、二曲一双の紙本金地着色。東京国立博物館が所蔵し、重要文化財に指定されています。
光琳は宗達の絵の輪郭線をほぼそのまま写し取りました。そのうえで、画面の端ぎりぎりにいた二神を全身が収まる位置に置き直し、両神の視線を交差させ、屏風そのものも一回り大きくしています。写しでありながら、宗達版とは別の印象を生む作品です。
さらに、この屏風の裏にはもともと、光琳の没後に酒井抱一が「夏秋草図屏風」を描いていました。宗達、光琳、抱一へと、直接の師弟関係なしに受け継がれた琳派の流れを一つの屏風が示しています。
基本情報
- 作者:尾形光琳(万治元年〈1658年〉生、享保元年〈1716年〉没。59歳で亡くなった)
- 時代:江戸時代中期の画家・工芸家。京都の呉服商「雁金屋」の次男
- 作品:風神雷神図屏風(二曲一双、紙本金地着色)
- 制作時期:研究者の推測で宝永末年、1711年頃に宗達の原画と出会ったとされる
- 所蔵・指定:東京国立博物館、重要文化財
- 寸法:各隻166.0×183.0cm(宗達版は各隻154.5×169.8cm)
- 手本:俵屋宗達「風神雷神図屏風」(建仁寺所蔵、京都国立博物館に寄託、国宝)
光琳「風神雷神図屏風」が生まれた背景と宗達版の模写
呉服商の次男から絵師へ
光琳は京都の呉服商・雁金屋の次男として生まれ、幼いころから能楽、茶道、書道、古典文学に親しんだと伝えられます。雁金屋は、最大の得意先だった東福門院の死(延宝6年、1678年)や大名への貸し付けの焦げつきで経営が傾きました。光琳は相続した財産を遊興で使い果たし、弟の乾山からも借金をしたとされます。44歳で法橋位を得て以後、経済的な困窮もあって本格的に絵の制作に力を入れたと推定されています。
弟の乾山は陶芸家で、光琳はその器に絵付けをしました。乾山は兄について、何を描いても即模様になると評したと伝わります。着物の家に育った光琳の図案感覚が、後の屏風にも表れていると見る読み方は、こうした経歴から自然に出てきます。ただし、これは私の見方であり、史料に書かれた結論ではありません。
江戸で過ごした数年と、京都での晩年
光琳は、江戸詰になった中村内蔵助を頼って宝永元年(1704年)ごろ江戸へ下り、姫路藩の酒井家から扶持を得るなど、江戸でも支援者を得ました。宝永6年(1709年)に京都へ戻り、正徳元年(1711年)には新町通りに新居を構えて制作を続けています。風神雷神図屏風の模写は、この京都での時期、1711年ごろと推測されています。
正徳3年(1713年)に長男の寿市郎へ宛てた遺言書には、家業と呼べるものがないという趣旨の記述があり、息子を他家へ養子に出す決心をしていたことがうかがえます。光琳は享保元年(1716年)に亡くなりました。
私淑という関係:宗達の原画との出会い
宗達の「風神雷神図屏風」の制作は寛永年間(江戸時代前期)の中ごろとされます。光琳と宗達の間に直接の師弟関係はありません。それでも光琳には、風神雷神図のほか「槙楓図」など宗達の原画に基づく作品があり、宗達に学ぶ意識が強かったことがうかがえます。
この屏風の原画は、建仁寺の末寺である妙光寺にあったと解されています。妙光寺は、光琳の弟・乾山が営んでいた寺です。光琳が原画を間近に見られた背景に、弟の存在があったとみられます。
光琳版と宗達版の違い:構図・視線・寸法・墨
忠実な写しである点
まず押さえたいのは、光琳版が自由な翻案ではなく、かなり忠実な写しだということです。二神の体や衣の線などの輪郭線は、非常に正確にトレースされています。宗達版との違いは、その上で光琳が意図して変えた部分にあります。
画面に収まる二神
宗達版は、風神と雷神を画面の端ぎりぎりに配しています。光琳版は、二神の全身が画面に収まるように配置し直し、枠に合わせて構図をまとめました。外へ飛び出しそうな勢いを抑え、屏風という四角い枠の中で完結する絵にしたと言えます。
交差する視線
宗達版の二神はどちらも下界を見ています。光琳版では両神の視線が交差し、互いを見合うような形になっています。二神が同じ下界を見る宗達版に対し、光琳版は二神の間に関係が生まれる構図です。
一回り大きな屏風と小さく見える神々
寸法は光琳版のほうが大きく、各隻は宗達版が154.5×169.8cm、光琳版が166.0×183.0cmです。二神そのものの大きさは変わらないため、光琳版では画面に対して神像が相対的に小さく見えます。
濃い墨と修正された細部
光琳は、輪郭線や雲の墨を宗達版より濃くしています。この濃い墨が、二神の動きを抑える働きをしているとされます。また、天衣(てんね)の裏表が不合理になっていた箇所を直すなど、細部の整理も行われています。
こうした違いもあって、光琳の写しも傑作とされる一方で、「宗達の画のほうが迫力がある」と評する人も多いとされます。優劣というより、動きの勢いを取るか、整った画面を取るかの違いとして見ると分かりやすくなります。
裏面に描かれた酒井抱一「夏秋草図屏風」
光琳の没後に描かれた裏絵
酒井抱一は宝暦11年(1761年)に姫路藩酒井家の次男として生まれた絵師・俳人です。寛政年間の半ばごろから光琳に私淑したと推定され、酒井家に光琳が一時仕えた縁があり、その作品が家に残っていたことも傾倒の背景にあったとされます。文化12年(1815年)には光琳の百回忌を営み、遺墨展を開いて『光琳百図』を刊行しました。
光琳の「風神雷神図屏風」の裏には、抱一の「風雨草花図」、通称「夏秋草図屏風」が描かれました。制作は文政4〜5年(1821〜22年)ごろ、紙本銀地著色の二曲一双で、もとは一橋徳川家が所持していたとされます。
風神の裏に秋草、雷神の裏に夏草
風神の図の裏には風に翻弄される秋草、雷神の図の裏には驟雨に濡れる夏草が描かれました。表では神々が風雨を起こし、裏では地上の草花がそれを受ける構成です。表が金地、裏が銀地という違いもあります。この作品は、表の「風神雷神図」と見事な照応を示す代表作とされます。
現在は保存上の理由から、「風神雷神図屏風」と「夏秋草図屏風」は別々に表装され、どちらも東京国立博物館が所蔵しています。夏秋草図屏風も重要文化財です。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの場所
- 東京国立博物館(東京・上野):光琳版の風神雷神図屏風、抱一の夏秋草図屏風、光琳の「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝)などを所蔵する。展示の有無は公式サイトで確認が必要
- 建仁寺(京都):宗達の風神雷神図屏風(国宝)を所蔵する寺。作品は京都国立博物館に寄託されている
- 妙光寺(京都):建仁寺の末寺で、宗達の原画があったと解されている。乾山が営んでいた
- 根津美術館・MOA美術館:光琳の「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」(いずれも国宝)を所蔵する
関連する人物
- 俵屋宗達:光悦と並ぶ琳派の祖とされ、風神雷神図の原画の作者
- 尾形乾山:光琳の弟で陶芸家。光琳が絵付けをした器を残した
- 酒井抱一:光琳に私淑し、風神雷神図屏風の裏に夏秋草図を描いた
なお、風神雷神図の構図を借りて図様を梅に置き換えたものが、光琳の「紅白梅図屏風」だとする解説もあります。
よくある質問
光琳の風神雷神図屏風はどこで見られますか。
東京国立博物館が所蔵する重要文化財です。常に展示されているとは限らないため、公開の時期は同館の公式サイトで確認してください。
光琳版と宗達版の一番の違いは何ですか。
構図です。宗達版は二神が画面の端ぎりぎりにいますが、光琳版は全身が画面に収まり、視線も交差します。屏風の寸法も光琳版のほうが大きくなっています。
光琳は宗達の弟子だったのですか。
いいえ、直接の師弟関係はありません。光琳が宗達の原画に基づく作品を描いて学んだ、私淑の関係です。
風神雷神図屏風の裏には何が描かれていましたか。
光琳の没後に酒井抱一が描いた「夏秋草図屏風」です。風神の裏に風にそよぐ秋草、雷神の裏に雨に濡れる夏草が描かれました。現在は別々の屏風として保存されています。
宗達版は今どこにありますか。
建仁寺が所蔵する国宝で、京都国立博物館に寄託されています。





