結論:功績の核は「日ソ国交回復」と「自民党の結成」
鳩山一郎(1883〜1959年)の功績といえば、1956年10月19日にモスクワで調印した日ソ共同宣言による日ソ国交回復と、1955年11月15日の保守合同による自由民主党の結成の2つである。
ただし、どちらも鳩山ひとりの手柄とは言い切れない。保守合同は財界の要望と社会党の再統一に押された面があり、日ソ交渉も領土問題を先送りにした妥協だった。この記事では、「功績」とされる出来事を、何がどこまで確かめられるかという視点で見ていく。
基本情報
- 生没年:1883年(明治16年)1月1日〜1959年(昭和34年)3月7日(76歳)
- 時代:明治〜昭和時代
- 立場:政治家。衆議院議員、文部大臣、日本自由党初代総裁、日本民主党初代総裁、自由民主党初代総裁
- 内閣総理大臣:第52〜54代(1954年12月10日〜1956年12月23日、第1次〜第3次鳩山内閣)
- 主な業績:日ソ共同宣言の調印、保守合同による自由民主党の結成
- 死因:狭心症(東京都文京区音羽の自宅で死去)
- 墓所:東京都台東区の谷中霊園
鳩山一郎の生涯:公職追放から首相までの道のり
政治家の家に生まれたエリート
鳩山一郎は1883年、東京府東京市牛込区(現在の新宿区)に生まれた。父は弁護士で衆議院議員の鳩山和夫、母は教育者の春子である。1907年に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、父の弁護士事務所に勤めた。1911年に父が亡くなると、翌1912年に父の補欠選挙で東京市会議員となり、1915年3月26日に衆議院議員に初当選した。
戦前は田中義一内閣の内閣書記官長(1927〜1929年)を務め、犬養内閣・斎藤内閣では文部大臣(1931〜1934年)に就いた。1942年の翼賛選挙には非推薦の無所属で当選し、翌1943年に翼賛政治会を脱会して軽井沢に退いている。
首相就任の目前で公職追放
1945年8月15日、鳩山は軽井沢で玉音放送を聞き、翌日に上京した。同年11月に日本自由党の初代総裁となり、1946年の総選挙で日本自由党は第一党になった。首相就任が目前に迫っていたところで、GHQにより公職追放となる(処分決定は5月3日、追放は5月7日付)。鳩山は後継の総裁に吉田茂を指名し、5月22日に第1次吉田内閣が発足した。
さらに1951年6月11日には脳溢血で倒れた。追放が解除されたのは同年8月6日で、1952年の衆院選で政界に復帰している。
吉田茂との対立と日本民主党の結成
復帰後の鳩山は、首相の座にあった吉田茂と対立した。1953年11月17日に、鳩山の率いる分党派自由党が吉田自由党に合流する一幕もあったが、1954年11月24日には日本民主党を結成して初代総裁となった。そして同年12月10日、第1次鳩山内閣が発足する。追放から8年ほどを経て、ようやく首相の座に就いたことになる。
首相就任後の1955年1月には「天の声解散」で総選挙を行い、民主党は比較第一党になったものの、過半数には届かなかった。
日ソ共同宣言とは何だったのか:国交回復と抑留者の帰国
2年がかりの交渉
日ソの国交正常化交渉は、1955年6月3日にロンドンで始まった。しかし1956年3月20日に交渉は決裂する。それを動かしたのが鳩山自身の訪ソで、同年10月12日にモスクワに向かい、10月19日にブルガーニン首相とともに日ソ共同宣言に署名した。批准書が東京で交換されて発効したのは12月12日である。
宣言に盛り込まれたこと
宣言の主な内容は、戦争状態の終結と外交関係の回復、相互不干渉、ソ連による日本の国連加盟の支持、有罪とされた日本人の釈放と帰還、賠償請求権の放棄、漁業協力などである。
領土については、平和条約の締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという内容が盛り込まれた。国境の画定は先送りされ、北方領土問題は未解決のままである。その後、ソ連は1960年の日米安保条約改定に反発して、歯舞・色丹の引き渡しを撤回した。「領土問題を残しながら対話を始めた」という見方がある一方、「問題を先送りした」という評価もありうる。ここは評価の分かれるところで、宣言の条文そのものから言えるのは、先送りされたという事実までである。
シベリア抑留者の帰国
シベリア抑留の集団帰国は、日ソ共同宣言が発効した1956年12月12日以降、イワノボとハバロフスクの収容所に残っていた人々(刑期が終わっていない者を含む)が帰国したことで、一応の区切りを迎えたとされる。厚生労働省の調査に基づく数字では、抑留された日本人は約57万5千人、死亡者は約5万5千人とされる。数字には幅があり、死亡者を約6万人とする資料もある。
国連加盟と保守合同:「功績」をどう見るか
国連加盟は日ソ交渉の延長線上にあった
日本の国連加盟は、1956年12月の国連総会で全会一致で実現した。共同宣言にはソ連が日本の加盟を支持することが書かれており、国交回復と加盟は一続きの出来事である。一方で、旧来よく語られる「鳩山が国連の演壇に立って宣言した」といった場面については、今回確かめた資料の中に記述を見つけられなかったため、ここでは取り上げない。鳩山は日ソ共同宣言に調印したあと総理・総裁を引退し、内閣は12月23日に総辞職した。
保守合同はなぜ起きたのか
1955年11月15日、自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結党された。議席は衆議院299、参議院118である。背景には、造船疑獄を受けて財界が民主・自由両党の提携や合同を求めたこと、そして10月13日に左右の社会党が統一されたことがある。
2月の総選挙で民主党は185議席と過半数に届かず、自由党は112議席だった。5月以降には三木武吉と大野伴睦が極秘に接触し、6月4日には鳩山と緒方竹虎の会談で合同に向けた共同談話が出された。9月下旬から総裁の決め方で対立したが、10月に妥協が成立し、鳩山・緒方・三木・大野の4名が総裁代行委員となった。
初代総裁は結党から5か月後
意外なことに、鳩山は結党の時点では総裁ではなく、総裁代行委員のひとりだった。緒方竹虎が1956年1月28日に急死し、4月5日の第1回総裁選で鳩山が、事実上の信任投票で初代総裁に選ばれた。合同に加わらなかった吉田茂らは、鳩山の退陣後の1957年に入党している。
この合同と社会党の再統一によって、自民党と社会党が対峙する「55年体制」が始まったとされる。
友愛と鳩山ブーム
鳩山の掲げた「友愛」は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書を原点とする。鳩山はこれを翻訳し、『自由と人生』として出版した。1953年には友愛青年同志会を結成して会長になっている。1956年7月8日の参院選では友愛精神などを掲げ、「鳩山ブーム」を起こしたと伝えられる。旧来の説明では「首相就任と同時にブームが起きた」とされがちだが、確かめられたのは1956年の参院選の時期である。
実現しなかったこと
鳩山は再軍備と憲法改正を唱えたが、改憲に必要な3分の2の議席には届かなかった。小選挙区制の導入も、区割りへの批判(「ハトマンダー」と呼ばれた)で実現しなかった。一方、原子力基本法は鳩山内閣のもとで成立している。「功績」の裏には、こうした未達の課題もあった。
ゆかりの地と関連する人物
- 生誕地:東京都新宿区(旧・牛込区東五軒町)
- 終焉の地:東京都文京区音羽の自宅
- 墓所:東京都台東区の谷中霊園。1874年(明治7年)に開設された都立霊園で、父の鳩山和夫も眠っている。
- 吉田茂:自由党の後継総裁で、のちに対立した相手。保守合同には加わらず、1957年に自民党に入った。
- 緒方竹虎:保守合同の交渉に関わった政治家。1956年1月28日に急死した。
- 三木武吉・大野伴睦:保守合同を水面下で進めた政治家。
- 鳩山薫:妻。教育者で、共立女子大学学長を務めた。
1959年3月11日、東京体育館で自民党葬が営まれた。死没日付で正二位に叙され、大勲位菊花大綬章を追贈されている。
よくある質問
鳩山一郎の最大の功績は何ですか?
日ソ共同宣言による国交回復と、保守合同による自由民主党の結成が代表的な功績とされる。どれを最大とするかは、外交を重んじるか内政を重んじるかで評価が分かれる。
日ソ共同宣言で北方領土は解決しましたか?
解決していない。平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡すと書かれたが、国境の画定は先送りされた。
鳩山一郎は自民党の初代総裁ですか?
初代総裁である。ただし結党(1955年11月15日)の時点では総裁代行委員のひとりで、1956年4月5日の総裁選で初代総裁に選ばれた。
鳩山一郎はなぜ首相になるのが遅れたのですか?
1946年の総選挙で日本自由党が第一党になった直後にGHQから公職追放となり、さらに1951年に脳溢血で倒れたため。首相就任は1954年12月だった。
鳩山一郎の墓はどこにありますか?
東京都台東区の谷中霊園にある。






