吉田茂 日本史トリビア

結論:旧吉田茂邸は、養父の別荘から首相の本邸になり、火災を越えて2017年に蘇った邸宅

旧吉田茂邸は、神奈川県大磯町にある吉田茂の旧本邸です。始まりは1884年(明治17年)。吉田茂の養父・吉田健三が土地を買って別荘を建てました。吉田茂は1945年(昭和20年)からこの家を本邸とし、晩年まで暮らしました。

本邸は2009年(平成21年)3月22日に焼失しました。その後、全国からの寄付などで再建が進み、2017年(平成29年)4月1日に一般公開されています。再建されたのは応接間棟と新館棟が中心です。兜門・七賢堂・サンルームは、2019年3月に国の登録有形文化財(建造物)になりました。

敷地は神奈川県立大磯城山公園の「旧吉田茂邸地区」にあたります。建物だけでなく、心字池のある日本庭園やバラ園も見どころです。

基本情報

  • 所在地:神奈川県中郡大磯町(県立大磯城山公園 旧吉田茂邸地区)
  • 邸宅の始まり:1884年(明治17年)、吉田健三が土地を購入して別荘を建てた
  • 本邸になった時期:1945年(昭和20年)
  • 焼失:2009年(平成21年)3月22日
  • 再建・公開:2017年(平成29年)4月1日に一般公開
  • 再建の中心:応接間棟・新館棟(玄関と新館棟は吉田五十八の設計を再現)
  • 国の登録有形文化財(建造物):兜門・七賢堂・サンルーム(2019年3月登録)
  • 吉田茂:1878年(明治11年)生まれ、1967年(昭和42年)没。内閣総理大臣を務め、1951年にサンフランシスコ平和条約に署名した

旧吉田茂邸の歴史:別荘の誕生から焼失・再建まで

養父・吉田健三の別荘から総理の本邸へ

大磯町の旧吉田茂邸の紹介によると、この地に最初に別荘を建てたのは吉田茂の養父・吉田健三です。1884年に土地を購入して建てました。吉田健三は福井藩士の出身で、横浜の貿易商会の支配人を務めた人物です。吉田茂は1881年8月に健三の養子になり、健三が亡くなったあと、この邸宅を引き継ぎました。

吉田茂がここを本邸にしたのは、1945年のことです。神奈川県の公園紹介では、昭和19年頃から昭和42年まで同邸で過ごしたとされています。首相を退いたあとも、池田勇人や佐藤栄作をはじめ多くの政財界人が訪れました。亡くなった後の1979年には、大平正芳首相とカーター米大統領の日米首脳会談がここで開かれています。

吉田茂の最期もこの邸宅でした。1967年10月20日の昼ごろ、突然亡くなったとされます。居合わせたのは医師と看護師3人だけで、家族はいなかったと伝えられます。亡くなった部屋は、のちに紹介する「銀の間」です。

2009年3月22日の火災

本邸は2009年3月22日に焼失しました。大磯町は同年7月9日、神奈川県知事に再建の要望書を出し、「可能な限り焼失前の姿を再現できるような再建」を求めました。要望書は、庭園と一体になった佇まいに魅力があるとして、焼失前と同じ種類の良質な木材を使い、仕様も忠実に再現するよう求めています。将来の文化財指定も視野に入れる、という考え方でした。

寄付と県・町の連携による再建

町は2009年7月1日に「旧吉田茂邸再建基金」の募金を始めました。2011年2月15日現在の町の資料では、957件、約5,785万円が集まっています。再建後の建物は町が維持管理する、という役割分担も要望書に書かれていました。

再建は応接間棟と新館棟を中心に行われ、2017年4月1日に公開されました。吉田茂が生きていた当時の様子に近づけた、体験型の博物館施設です。邸内には展示スペースと研修室も設けられています。

吉田五十八の新館と応接間棟:近代数寄屋建築の見どころ

応接間棟と「楓の間」

応接間棟は、吉田茂が首相だった昭和20年代に建てられた棟です。1階が「楓の間」、2階が寝室と居間でした。町の再建検討資料によると、2階は吉田茂が首相在任中に執務室として使った部屋です。書斎コーナーのガラス棚の一番下の引き戸の中には、ダイヤルのない官邸直通の黒電話が置かれていました。

奥の浴室には、大磯の浜辺でよく見られた漁師の舟の形をした浴槽がありました。檜の一木をくりぬいて特別に造らせたもので、床は板敷きでした。再建された建物でも、舟形の浴槽が再現されています。

新館:金の間と銀の間

新館は昭和30年代に建てられました。海外からの賓客を迎えるため、吉田茂が建築家・吉田五十八に設計を頼んだものです。吉田五十八は、伝統的な数寄屋建築を近代化した建築家として知られ、外務省飯倉公館や東京歌舞伎座、明治座なども手がけています。

新館の応接間が「金の間」です。吉田茂が愛した富士山や箱根の山々、相模湾が見渡せます。寝室の「銀の間」は、吉田茂が息を引き取った部屋です。焼失前は天井にレース紙と銀色の布が使われていました。再建では、亡くなった当時のベッドが再現されています。

新館は、すっきりした直線で構成された、モダンな雰囲気の建物です。玄関と新館棟は吉田五十八の設計を再現したもので、随所に吉田五十八の特徴が見られるとされます。

食堂「ローズルーム」

町の資料には、食堂(ローズルーム)の壁紙に仔羊のなめし革231枚がパネル状に張られていたとあります。当時1枚1万円といわれた高価な仕様でした。蒋介石から贈られた中国製の衝立があったことも記されています。玄関ホールには、大阪城の欄干やイタリア大使から贈られたオオシャコ貝が飾られていました。

庭園・兜門・七賢堂:旧吉田茂邸を彩る日本庭園と建造物

心字池の日本庭園とバラ園

県の公園紹介によると、旧吉田茂邸地区には、吉田茂が存命だった昭和41年頃の景観を再現した日本庭園とバラ園があります。心字池と藤棚もあります。ウィキペディアでは、吉田邸庭園の作庭者は造園家の中島健とされています。町の資料でも、建物は「心字池」のある日本庭園に面していて、庭園から眺めたときの一体感が魅力だと書かれています。

要望書は、バラ園について「地元の関心が非常に高い」とも述べています。兜門・七賢堂・銅像、そして松林と一体になった庭園の整備を求めました。

兜門:講和条約を記念した門

文化遺産オンラインの解説では、兜門は前庭と内庭を分ける、北向きの寄棟造・檜皮葺の門とされています。裏千家今日庵の兜門にならった数寄屋の門です。焼失を免れ、2019年3月に国の登録有形文化財になりました。

七賢堂:明治の元勲をまつるお堂

七賢堂は、もとは伊藤博文が大磯の自邸「滄浪閣」に建てた四賢堂でした。これを吉田茂が現在の場所に移し、その後3人が加わって七賢堂になりました。大磯町のチラシには、吉田茂、西園寺公望、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、三条実美、岩倉具視の名が並んでいます。ウィキペディアによれば、吉田茂自身も人物神として七賢堂にまつられています。

建物は、2間四方の入母屋造で、屋根は銅板葺です。庭の中で西向きに建ち、良質な材を使った小さなお堂と説明されています。

サンルーム

主屋の北西の隅にあるサンルームも、吉田五十八の設計です。骨組みは細い鉄骨で、屋根はポリカーボネートの曲面屋根です。現代的でほっそりした造りが特徴で、兜門・七賢堂とともに登録有形文化財になっています。

ゆかりの地と関連する人物

  • 県立大磯城山公園:1987年(昭和62年)4月26日に開園した神奈川県立の公園。旧三井別邸地区と旧吉田茂邸地区に分かれています。
  • 大磯町郷土資料館:同じ公園内にあります。旧吉田茂邸は大磯町郷土資料館のサイトで案内されています。
  • 吉田五十八:新館とサンルームを設計した建築家。
  • 中島健:庭園を作庭した造園家とされています。
  • 伊藤博文:七賢堂の前身となる四賢堂を滄浪閣に建てた人物。
  • 墓所:吉田茂の遺骨は、最初は東京の青山霊園に埋葬されました。2011年に横浜市の久保山墓地に移されています。

よくある質問

旧吉田茂邸はいつ、誰が建てましたか。

1884年(明治17年)に、吉田茂の養父・吉田健三が土地を買い、別荘を建てたのが始まりです。吉田茂は1945年からここを本邸としました。

火災の後、どうやって再建されましたか。

2009年3月22日に本邸が焼失し、大磯町が全国から寄付を募りました。県と町が連携して応接間棟・新館棟を中心に再建し、2017年4月1日に一般公開されています。

登録有形文化財になっているのはどの建物ですか。

兜門、七賢堂、サンルームの3件です。いずれも2019年3月に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

入館料や開館時間はどこで確認できますか。

料金や開館時間、休館日は変わることがあるため、大磯町郷土資料館の旧吉田茂邸のページにある利用案内で確認してください。