野口英世 日本史トリビア

結論:野口英世は「梅毒と神経疾患の関連を示した細菌学者」。ただし有名な業績の多くは後に否定された

野口英世は、1876年(明治9年)に福島県の農家に生まれ、アメリカのロックフェラー医学研究所で研究した細菌学者です。1913年に、進行性麻痺や脊髄癆の患者の脳・脊髄から梅毒スピロヘータを確認しました。梅毒と神経の病気のつながりを示したこの仕事は、現在も最大の業績とされています。

一方で、梅毒スピロヘータの純粋培養や黄熱病の病原体の特定など、世界を驚かせた成果の多くは、後の研究で誤りとわかりました。1928年、黄熱病の研究のために滞在していたアフリカのアクラで、自身も黄熱病で亡くなっています。

この記事では「偉人伝」で語られてきた姿と、研究史の上での評価を分けて、何が確かで何が否定されたのかを整理します。

基本情報

  • 生没年:1876年(明治9年)11月9日 〜 1928年(昭和3年)5月21日(満51歳)
  • 出身:福島県耶麻郡三ッ和村(現・猪苗代町)。幼名は清作
  • 時代:明治〜大正・昭和初期
  • 立場:細菌学者(ロックフェラー医学研究所)
  • 主な業績:進行性麻痺・脊髄癆の患者の組織から梅毒スピロヘータを確認(1913年)、ペルー疣とオロヤ熱が同じ病気の異なる症状であることの証明(1926年)
  • ノーベル賞:1914年、1915年、1920年に計3度、候補に挙がった
  • 最期:黄熱病研究のため滞在した英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラで、黄熱病により死去

野口英世は何をした人か:生い立ちから医学者になるまで

囲炉裏の事故と、左手の手術

野口は郵便配達人の父・佐代助と母・シカの長男として生まれました。1878年、1歳のときに囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負い、小学校では左手のことでいじめを受けたと伝わります。

転機は1892年です。会津若松の医師・渡部鼎の手術を受けると、指がある程度使えるようになりました。これをきっかけに、野口は医師を志します。猪苗代高等小学校に進むときには、教頭の小林栄の計らいで学費の援助も受けていました。

書生から医師免許へ

1893年に高等小学校を卒業すると、野口は渡部が経営する会陽医院に約3年半住み込み、医学の基礎を学びました。1895年にはキリスト教の洗礼も受けています。

1896年9月に上京して医術開業試験に挑みますが、手にした資金を遊興で使い果たすという失敗もありました。それでも血脇守之助の支援で済生学舎に通い、1897年には近藤次繁による無償の再手術で左手の状態がさらに改善して打診ができるようになり、後期試験に合格します。21歳で医師免許を得ました。ただし、開業資金がなく、左手を患者に見られたくないという事情もあり、野口は臨床医ではなく基礎医学の研究者の道を選びます。

「清作」から「英世」へ

1898年、野口は坪内逍遙の小説『当世書生気質』を読み、登場人物が自分の名前や暮らしぶりに似ていることに衝撃を受けて、改名を決意しました。「英世」の名は小林栄から与えられたものです。ただ、戸籍の名前を変えるのは難しく、別の人物を養子に入れて同名の人物をつくるという方法で実現させたと伝えられています。

渡米までの道のり

1898年には北里柴三郎の伝染病研究所に勤めましたが、任されたのは主に外国図書の扱いや通訳でした。翌1899年には横浜の検疫官補を務め、清国のペスト対策にも派遣されています。

1900年、野口は留学資金を得るため、斉藤ます子との婚約話を持ち込み、その持参金を渡航費に充てました。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとへ向かい、ペンシルベニア大学の助手として蛇毒の研究に取り組みます。1904年にはロックフェラー医学研究所に移りました。

功績は本物か?業績ごとの「確かなこと」と「否定されたこと」

野口の評価でいちばん大切なのは、業績を一つずつ分けて見ることです。「世界的な細菌学者」という言葉だけでは、何が残り、何が消えたのかが見えません。

梅毒スピロヘータの確認(現在も評価される業績)

1913年、野口は進行性麻痺や脊髄癆の患者の脳と脊髄の病理組織から、梅毒スピロヘータを確認しました。梅毒と神経疾患が結びつくことを示した成果で、現在も野口の最大の業績とされています。

ペルー疣とオロヤ熱(今日でも評価される証明)

1926年には、ペルー疣とオロヤ熱が同じ病気の異なる症状であることを証明しました。これは1885年にカリオンが唱えた説を科学的に裏付けた仕事で、今日でも評価されています。

否定された業績:梅毒スピロヘータの純粋培養と黄熱病

1911年、野口は梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したと発表し、世界的に注目されました。しかし後の研究で、継代培養された「野口株」は病原性を失っていたこと、さらには別種の非病原性スピロヘータだったことが判明し、この成果は否定されます。

黄熱病でも同じことが起きました。1918年、野口はロックフェラー財団の依頼でエクアドルに派遣され、「レプトスピラ・イクテロイデス」を黄熱病の病原体としてワクチンを開発します。ところがこの説は、のちに病原体がワイル病のものと同一だとわかったことや、黄熱病がウイルス性の病気であることが示されたことで否定されました。

純粋培養、小児麻痺、狂犬病、黄熱病、トラコーマなど、多くの研究が後の研究で否定されています。その背景として、濾過性病原体(ウイルス)の存在を十分に考慮しなかったことや、査読体制の問題が指摘されています。

蛇毒の研究

渡米直後に取り組んだ蛇毒の研究は、蛇毒による溶血性変化を調べたものです。ペンシルベニア大学で与えられたテーマでした。

ノーベル賞候補と、批判された実験

ノーベル賞の候補には、1914年、1915年、1920年に計3度挙がりました。一方で、1911〜1912年のルエチン(ツベルクリンに似た梅毒の皮膚検査)の実験では、孤児や入院患者などに、説明や同意を得ないまま抽出物を注射したとして、人体実験のスキャンダルとして批判されました。栄光の面だけでなく、こうした批判も野口の評価の一部です。

近年は、こうした欠点も含めて業績を見直す動きが進んでいます。学歴についても、実際に在籍した期間を超えた記載や、学位をめぐる誤った表記があったことが指摘されています。

人間・野口英世の逸話:母シカ、結婚、借金、そして最期

母シカと、読み書きを学んだ産婆

母のシカは文字の読み書きができず、農作業のかたわら産婆をしていました。1899年に産婆の免許制度が始まると、近所の寺の住職に頼んで読み書きを習い、国家試験に合格して正式な免許を得たといいます。生涯で約2,000件の出産にかかわったとされます。

野口は渡米後、母の字が上手でないことを考えて、アメリカの住所を入れた判子を送りました。1912年にシカが書いた手紙が現存しており、誤字や会津弁の表現から、読み書きの苦労がうかがえます。野口が1915年に帰国した理由の一つは、母との再会だったとされます。シカは1918年11月10日、スペインかぜにより65歳で亡くなりました。

借金と、周囲を動かす力

野口は、血脇ら周囲から金銭援助を受けながら、遊興で使い切ってしまうことがあった人物です。一方で、周囲を説得して資金を引き出す巧みさもありました。渡航費を婚約話の持参金でまかなったのも、その一例です。金銭面の不始末が繰り返されたことは、よく知られています。

メリー・ダージスとの結婚

1911年4月10日、野口はアメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しました。二人の関係は、野口が亡くなるまで良好だったとされます。

アクラでの最期

1927年10月、野口は黄熱病の研究のためアフリカへ出張し、11月に英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラに着いて研究を続けました。1928年1月に一度発症して回復しましたが、5月13日に再び黄熱病と診断されて入院し、5月21日に病院で亡くなりました。満51歳とされます。最後の言葉として、「どうも私には分からない」と伝えられています。

死後、野口の血液をサルに接種したところ黄熱病を発症し、死因が黄熱病であることが確認されました。同じアクラで研究にあたっていたヤング博士も、同じ病気で後に亡くなっています。皮肉なことに、野口自身の黄熱病の病原体の説は、のちに否定されることになりました。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 野口英世記念館(福島県猪苗代町):生家の近くにあり、母シカと野口に関する資料を展示しています。ロックフェラー財団から贈られた胸像も設置されています。
  • 會津壹番館(会津若松市):野口が左手の手術を受け、書生として働いた会陽医院の建物です。
  • 上野公園(東京):国立科学博物館の前に銅像があります。
  • 横浜市の野口英世記念公園:検疫官補として勤めた旧長濱検疫所に関連する旧細菌検査室があります。
  • ウッドローン墓地(アメリカ・ニューヨーク州):1928年6月15日に埋葬された墓所です。
  • 野口記念医学研究所(ガーナ):1979年に、日本の援助で設立されました。

関連する人物

  • 渡部鼎:会津若松の医師。左手の手術を行い、会陽医院で書生として受け入れた
  • 小林栄:猪苗代高等小学校の教頭。学費を援助し、「英世」の名を与えた
  • 血脇守之助:上京後の野口を支援した人物
  • 北里柴三郎:伝染病研究所の所長。渡米の際に紹介状を書いた
  • フレクスナー:ペンシルベニア大学で野口を迎え入れた研究者

よくある質問

野口英世は何をした人ですか?

細菌学者です。1913年に進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳と脊髄から梅毒スピロヘータを確認し、梅毒と神経疾患の関連を示しました。1926年には、ペルー疣とオロヤ熱が同じ病気であることも証明しています。

黄熱病の研究は成功したのですか?

いいえ。野口はレプトスピラ・イクテロイデスを黄熱病の病原体としてワクチンを開発しましたが、のちにワイル病の病原体と同一であることや、黄熱病がウイルス性であることが示され、この説は否定されました。

ノーベル賞は取れなかったのですか?

受賞はしていません。1914年、1915年、1920年に計3度、候補に挙がりました。

野口英世の死因は何ですか?

黄熱病です。1928年5月21日、アフリカのアクラの病院で亡くなりました。死後に血液をサルに接種して黄熱病を発症したことで、死因が確認されています。

なぜ「清作」から「英世」に改名したのですか?

1898年に坪内逍遙の『当世書生気質』を読み、登場人物が自分の名前や生活に似ていることに衝撃を受けたためです。「英世」の名は小林栄から与えられました。