野口英世 日本史トリビア

結論:幼い日の左手の火傷が、野口英世を医学へ向かわせた

野口英世(幼名は清作)は、1歳のときに福島県の生家で囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負いました。指は癒着し、農作業は難しくなりました。母のシカは、学問で身を立てるよう諭したとされています。

転機は1892年(明治25年)10月です。左手の不自由さを綴った作文が周囲の同情を集めて手術費用の募金が行われ、会津若松の医師・渡部鼎(わたなべ てい)の手術を受けました。指が使えるようになったことに感激した清作は、医師を目指します。火傷は不幸な出来事でしたが、その後の進路を決めた出来事でもありました。

基本情報

  • 生年:1876年(明治9年)11月9日、福島県耶麻郡三ッ和村(現・猪苗代町)
  • 没年:1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラ。死因は黄熱病
  • 家族:郵便配達人の父・佐代助と母・シカの長男
  • 火傷:1878年(明治11年)4月末、いろりに落ちて左手に大火傷を負った
  • 左手の手術:公式年表では1884年(斉藤幸元医師)、1892年(渡部鼎医師)、1897年(近藤次繁博士による再手術)が載る
  • 主な経歴:医師免許取得(1897年)、伝染病研究所勤務、1900年に渡米、ロックフェラー医学研究所の研究員、黄熱病の研究

野口英世の火傷の原因と、左手に残った障害

囲炉裏に落ちた1878年の事故

野口家の生活の中心には囲炉裏がありました。Wikipediaは、清作が1歳のときに囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負ったと記しています。公式の生涯年表(野口英世記念会の資料提供)では、この出来事は1878年(明治11年)4月末の項目です。

年表の本文には「1歳半」という書きぶりがあり、表の年齢表記と細かな違いがあります。ここでは、資料が一致している「1878年・幼少期・囲炉裏」までを事実として書きます。

癒着した指と、農作業への影響

火傷の後、左手の指は癒着しました。農家の子であれば、成長すれば家の仕事を担うのが普通でした。左手が不自由では農作業が難しく、生き方を考え直さざるを得ませんでした。

母の言葉と小学校入学

母のシカは、農作業のかたわら産婆(助産)の仕事もしていました。左手のために農業が難しい息子に、学問で身を立てるよう諭したとされています。清作は1883年(明治16年)に三ッ和小学校へ入学します。

なお、シカは文字が読めなかったものの、1899年に産婆の免許制度ができたとき、住職に教わって国家試験に合格したと伝えられています。

野口英世の火傷がもたらした苦難と周囲の支え

「清ボッコ」といじめ

Wikipediaによると、小学校時代の清作は、左手の火傷を理由に「清ボッコ」と呼ばれていじめられたとされています。ボッコは会津弁で雪の塊を指す言葉と説明されています。

猪苗代高等小学校と恩師・小林栄

清作の成績に目を留めたのが、猪苗代高等小学校の教頭だった小林栄です。Wikipediaは、小林が清作の優秀な成績を認めて入学を計らい、学費も自ら援助したとされると記しています。入学の年は、公式年表では1888年(明治21年)4月、Wikipediaでは1889年4月と資料で異なります。卒業は1893年(明治26年)3月で、公式年表は優等での卒業としています。

成績は体操を除いてほぼ首席だったとされています。左手が不自由で体操が苦手だったことが背景にあるようです。

のちに小林は、留学資金を頼まれた清作に「いつまでも他人の金に頼るな」と告げて断ったとも記されています。恩師は援助者であると同時に、厳しく突き放す人でもありました。

作文と募金

1892年(明治25年)10月、左手の障害を嘆く清作の作文が教師や同級生の同情を集め、手術費用の募金が行われました。この募金のおかげで、治療を受ける道が開けました。

野口英世の火傷の手術と、医学への目覚め

会津若松・会陽医院での手術

手術を受けた先は、会津若松で開業していた、アメリカ帰りの医師・渡部鼎です。年表では、会陽医院長の渡部鼎医師による左手の手術が1892年10月の項目にあります。手術によって、不自由ながらも指が使えるようになりました。

手術が行われた会陽医院の建物は、現在「會津壹番館」として知られていると、Wikipediaは写真付きで紹介しています。

手術の成功が決めた進路

清作はこの手術の成功に感激し、医師を目指すようになったとされています。翌1893年(明治26年)に高等小学校を卒業すると、渡部の会陽医院に書生として住み込み、約3年半にわたって医学の基礎を学びました。年表では、会陽医院への入門は1893年5月の項目で、医学のほか英語やフランス語も学んだと記されています。細菌学に触れたのもこの時期とされます。

上京、医師免許、そして研究者の道へ

1896年(明治29年)9月、医術開業試験の受験のために上京しました。1897年(明治30年)に後期試験に合格し、21歳で医師免許を取得します。同じ1897年5月には、帝大外科教授・近藤次繁博士による左手の再手術も受けています(年表)。

開業する資金がなかったことに加え、左手を患者に見られたくなかったことから、臨床医ではなく基礎医学の研究者の道を選んだとされています。

火傷を超えた後の歩みと、評価の移り変わり

伝染病研究所から渡米へ

1898年、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に勤めました。ただし、仕事は研究そのものより語学を生かした業務が中心だったとされています。翌1899年には横浜港の検疫官補となり、清国のペスト対策の防疫班にも加わりました。1900年(明治33年)12月5日、横浜から亜米利加丸で渡米します。

アメリカでの研究と母との再会

渡米後はペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所の研究員になりました。1911年に梅毒スピロヘータの純粋培養の成功を発表し、京都帝国大学から医学博士の学位を得ています。1915年には15年ぶりに帰国し、母との再会を果たしました。

黄熱病と最期、そして業績への見方

1918年以降は、ロックフェラー財団の依頼で黄熱病の研究のためエクアドルなどへ派遣されました。1927年にアフリカで黄熱病の研究を始め、1928年5月21日、アクラで黄熱病により亡くなりました。ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬されたのは同年6月15日です。

Wikipediaは、梅毒の純粋培養や黄熱病の病原体特定など、野口の業績には後に否定されたものが多いことも述べています。偉人伝で語られる姿と、研究史の上での評価は分けて見る必要があります。

ゆかりの地と関連する人物

野口英世記念館(福島県猪苗代町)

現存する生家は、現在「野口英世記念館」になっています。Wikipediaは、英世が火傷を負った囲炉裏の写真を載せています。

會津壹番館(福島県会津若松市)

左手の手術を受けた会陽医院の建物で、現在は「會津壹番館」と呼ばれています。

関連する人物

  • 母・シカ:農作業と産婆の仕事を続け、息子に学問を勧めた
  • 小林栄:猪苗代高等小学校の教頭。入学と学費を支えた恩師
  • 渡部鼎:会津若松の会陽医院長。左手を手術し、書生として受け入れた医師
  • 北里柴三郎:伝染病研究所の所長

なお、野口の肖像は2004年11月から2024年の改訂まで千円札に採用されました。没地のガーナには、日本の援助で1979年に野口記念医学研究所が設立されています。

よくある質問

野口英世はいつ、どうして火傷をしたのですか?

1878年(明治11年)4月末、幼い頃に生家の囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負いました。年齢は資料によって「1歳」「1歳半」などの書きぶりがあります。

左手は手術で治ったのですか?

1892年に渡部鼎の手術を受け、不自由ながらも指が使えるようになったとされています。完全に元どおりになったわけではありません。1897年には近藤次繁博士による再手術も受けています。

火傷がきっかけで医学を志したのは本当ですか?

Wikipediaは、手術の成功に感激した清作が医師を目指すようになったと記しています。その後、渡部の会陽医院で書生として医学を学びました。

学校でいじめられたのですか?

Wikipediaには、小学校時代に左手を理由に「清ボッコ」と言われていじめられたとの記述があります。