森鴎外 日本史トリビア

結論:鴎外の代表作は「ドイツ三部作」→現代小説→歴史小説→史伝の順で読むと流れがつかめる

森鴎外の代表作は、1890年の『舞姫』『うたかたの記』に始まり、1911年からの『雁』、1912年からの歴史小説(『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』)、そして1916年の史伝『渋江抽斎』へと続く。陸軍軍医としての仕事と並行して、約30年にわたり作風を変えながら書き続けた。

入口に選びやすいのは、教科書でもおなじみの『舞姫』と『高瀬舟』だ。どちらも短く、あらすじだけでも「何が問われているか」が見えやすい。この記事では、発表年順に主な作品のあらすじと読みどころを整理する。

基本情報

  • 本名:森林太郎
  • 生没年:文久2年1月19日(1862年2月17日)〜1922年(大正11年)7月9日、満60歳
  • 出身:石見国津和野(現在の島根県津和野町)
  • 立場:小説家、評論家、翻訳家であり、陸軍軍医(軍医総監)。東京大学医学部を出て、陸軍省の派遣でドイツに留学した
  • 主な代表作:『舞姫』『うたかたの記』『雁』『青年』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』、翻訳『即興詩人』
  • 墓所:没後は東京・向島の弘福寺に葬られ、1927年に三鷹市の禅林寺へ移された。出生地の津和野町の永明寺にも墓がある。墓碑には「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれている

森鴎外の代表作あらすじ:初期から中期の浪漫と青春

舞姫(1890年)

1890年1月、雑誌『国民之友』に発表された。語り手は、ベルリンに留学した官吏の太田豊太郎。帰国の船がサイゴンに停泊する間に、ドイツでの出来事を書き留める形で進む。

豊太郎は、父を亡くして葬式の費用に困っていた踊り子エリスを助け、親しくなる。同国人の中傷で免官されるが、友人の相沢謙吉の助言を受け、日本の新聞社のドイツ駐在通信員の職を得る。相沢は天方大臣の秘書官だった。豊太郎はエリスとの関係を続け、エリスは豊太郎の子を身ごもっていた。

大臣から帰国を誘われた豊太郎は、それを受け入れる。エリスは真相を知って精神を病んでしまう。豊太郎はエリスの母に生活資金を渡して日本へ向かう。最後は、相沢ほどの良い友は得られないだろうが、その名にいまも恨みの気持ちが残る、と結ばれる。

鴎外自身がモデルとされるが、現実とは違う。鴎外が1888年に帰国した後、ドイツ人女性が日本へ来て約1か月滞在したことは知られ、エリーゼ・ヴィーゲルトという名前が有力な候補として挙がっている。ただし、作中のエリスの発狂は創作だ。発表の1か月後には、批評家の石橋忍月が主人公の弱さを批判し、鴎外が応じた「舞姫論争」が起きた。日本の近代文学で最初の大きな論争とされる。1957年から高校の国語教科書に載っている。

うたかたの記(1890年)

1890年8月に『しがらみ草紙』に発表され、『舞姫』『文づかひ』とともに「ドイツ三部作」と呼ばれる。舞台はミュンヘン。日本人の画学生・巨勢は、かつて出会った花売りの娘マリイと再会する。マリイは美術学校でモデルをしていたが、都会の誘惑から身を守るために、狂ったふりをしていたことが明かされる。

物語には、バイエルン国王ルートヴィヒ2世の水死事件が組み込まれている。湖畔に現れた狂気の国王は、マリイを母と見誤って湖へ入り、侍医とともに命を落とす。巨勢はマリイを助けるが、杭で胸を打ち、やがて死ぬ。国王の水死事件には、鴎外の『独逸日記』も触れている。巨勢のモデルは、留学時代の友人の画家・原田直次郎とされる。

青年(1910〜1911年)

『スバル』に1910年3月から1911年8月まで連載された。作家志望で上京した小泉純一が主人公で、有名作家を訪ね、医学生の大村に影響を受け、劇場で知り合った坂井未亡人に惹かれていく。箱根まで追いかけるが、未亡人は画家の岡村と一緒にいた。純一は伝説を題材にした小説を書く決心をする。夏目漱石の『三四郎』に影響されて書かれたとされ、明治の教養小説の主要作品の一つに数えられる。

雁(1911〜1913年)

『スバル』に1911年9月から1913年5月まで連載された。舞台は1880年(明治13年)の東京、無縁坂。高利貸しの末造の妾になったお玉は、医学生の岡田に想いを寄せている。ある日、岡田は語り手の「僕」と散歩に出て、不忍池で投げた石が雁に当たり、雁は死ぬ。二人が連れ立って無縁坂のお玉の家の前を通ったため、お玉は想いを伝えられないまま終わり、岡田は洋行する。

語り手は岡田の友人で、本来知り得ないお玉と末造の話は、後にお玉本人から聞いたものとして補われている。偶然に命を落とす雁に、お玉のはかない心の動きを重ねた作品だ。1953年と1966年に映画化されている。

森鴎外の代表作と歴史小説:殉死から史伝へ

興津弥五右衛門の遺書(1912年)

1912年10月に『中央公論』に発表された。鴎外の歴史小説の最初の作品とされる。同年9月の乃木希典の殉死に影響を受けて書かれた。

阿部一族(1913年)

1913年1月、『中央公論』に発表された。寛永18年(1641年)、熊本藩主の細川忠利が病没する。老臣の阿部弥一右衛門は殉死を願い出たが、忠利は許さず、新藩主を助けるよう遺言した。その後も勤務を続けた弥一右衛門は命を惜しんでいるとの非難を受け、一族の前で切腹する。

藩は遺族として扱いながら、家格を下げる処分をする。長男の権兵衛は忠利の一周忌の席で髻を切って捕らえられ、縛り首となる。次男の弥五兵衛らは屋敷に立てこもり、討手と戦って全滅する。

この作品は、『阿部茶事談』を下敷きにしている。権兵衛の髻切り、籠城、処刑は史実に沿うが、殉死を許されなかったために非難されたという筋立ては、同書と本作による脚色と考えられている。史実では弥一右衛門は忠利の死の直後に殉死したと記録されている。松本清張は、本作が『阿部茶事談』をほぼ逐条的に書き改めたもので、鴎外の意見はほとんど挿入されていないと指摘している。

山椒大夫(1915年)

1915年、鴎外53歳のときに『中央公論』に発表された。説経節「さんせう太夫」を元にしている。筑紫へ左遷された父を追う母と姉の安寿、弟の厨子王らは、人買いにだまされて引き離される。母は佐渡へ売られ、姉弟は丹後の山椒大夫のもとで働かされる。安寿は厨子王を逃がすため追っ手を食い止め、その後入水する。

都へ出た厨子王は、関白に直訴して丹後の国守に任じられる。着任後すぐに人身売買を禁じ、大夫の財産を没収した。その後、国守を辞して佐渡へ渡り、盲目で足の不自由な母と再会する。

原話にある安寿の拷問や大夫の処刑といった残酷な場面は、鴎外がほとんど省いている。大夫の一家がその後かえって栄えるという展開は鴎外の創作だ。鴎外は随筆「歴史其儘と歴史離れ」で、辻褄の合わない部分や好みに合わない部分に脚色を加えたと述べている。

高瀬舟(1916年)

1916年1月、『中央公論』に発表された短編で、江戸時代の随筆集『翁草』の「流人の話」が下敷きになっている。京都から遠島へ送られる罪人の喜助は、弟を殺した30歳ほどの男だが、表情は晴れやかだ。護送役の同心・羽田庄兵衛がわけを尋ねる。

喜助は、仕事を見つけるのに苦労した末、食べていける程度の収入で満足してきたこと、牢を出る時に役所から渡された二百文を有り難く思い、遠島でも働くつもりでいることを語る。弟については、病の身で兄に負担をかけていることを気に病んでいたこと、弟が自ら命を絶とうとして果たせず、苦しみながら頼んだことに従ったことを話す。奉行は喜助を殺人と判断した。庄兵衛は聞き終えても、それが本当に罪なのか、分からないままでいる。

テーマは一般に「知足」と「安楽死」とされ、鴎外が同時期に発表した自作の解説「高瀬舟縁起」が根拠になっている。ただし、主題がどちらなのかについては議論が続いている。

森鴎外の晩年の代表作と翻訳:史伝と『即興詩人』

渋江抽斎(1916年)

1916年1月13日から5月20日まで、『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に全119回連載された史伝だ。鴎外は幕府の職員録である武鑑を集めるうちに、渋江という人物の蔵書印が多く押されていることに気づき、抽斎を調べ始めた。抽斎の子孫を探し当てる経緯から作品が始まる。

渋江抽斎(1805〜1858)は弘前藩の医師で、考証家、書誌学者とされる。構成は、子孫を探す過程から、渋江家の先祖、抽斎の誕生、妻たちとの生活、著作や嗜好へと進む。抽斎の没後は戊辰戦争と一家の疎開を描き、最後は四女の陸(杵屋勝久)の生涯で締めくくられる。抽斎の4人目の妻・五百が特に生き生きと描かれている。『伊澤蘭軒』『北條霞亭』とあわせて「史伝三部作」と呼ばれる。

評価も分かれる。永井荷風は考証の価値や人物描写、文体を評価し、丸谷才一は『伊澤蘭軒』とともに近代日本文学の最高峰と評した。一方、和辻哲郎は、埋もれた人物を掘り起こすことへの傾きを批判し、鴎外が反論した。

即興詩人(1892〜1901年)

デンマークのアンデルセンが1835年に書いた最初の長編小説『即興詩人』を、鴎外は約10年かけて断続的に訳した。単行本は1902年に出た。原文のデンマーク語からではなく、ドイツ語訳からの重訳だ。口語体(言文一致)が広まりつつあった時代に、雅語と俗語をまじえた文語体を選んだ。西洋の引用を漢籍の表現に置き換えた箇所もあり、逐語訳ではない。

ヰタ・セクスアリスと寒山拾得

『ヰタ・セクスアリス』は1909年に『スバル』に載った。題名はラテン語の「vita sexualis(性欲的生活)」に由来する。主人公の哲学者・金井湛が、高校を卒業する長男への性教育の資料として、自分の性的体験をたどる形式をとる。性欲の描写が問題になって鴎外は上官の陸軍次官から懲戒を受け、『スバル』7号は発行の1か月後に発売禁止になった。ただし、性行為が直接描かれているわけではない。

『寒山拾得』は1916年1月に『新小説』に発表された。

ゆかりの地と関連する人物

  • 森鴎外記念館(ベルリン):留学時代の居室を公開している
  • 北九州市小倉北区の旧居:陸軍軍医として小倉にいた時期の住まい
  • 禅林寺(東京都三鷹市):墓所。向島の弘福寺から1927年に移された
  • 永明寺(島根県津和野町):出生地にある分骨の墓所
  • 夏目漱石:『三四郎』が『青年』に影響を与えたとされる
  • 乃木希典:その殉死が、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』などの歴史小説のきっかけとされる
  • 渋江抽斎:『渋江抽斎』の主人公。墓所は神田感応寺

よくある質問

森鴎外の作品は、どれから読めばよいですか?

短くて教科書にもある『舞姫』と『高瀬舟』が入りやすい。歴史小説なら『山椒大夫』、現代小説なら『雁』が次の候補になる。

「ドイツ三部作」とは何ですか?

『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の3作で、いずれもドイツが舞台だ。

鴎外が歴史小説を書き始めたきっかけは何ですか?

乃木希典の殉死に影響を受けたとされる。1912年の『興津弥五右衛門の遺書』が最初で、翌年に『阿部一族』が出た。

『阿部一族』は史実どおりの話ですか?

権兵衛の髻切りや屋敷での戦いは史実に沿っている。ただし、殉死を許されなかった弥一右衛門が非難されて切腹するという筋は、脚色と考えられている。

『山椒大夫』は元の伝説とどう違いますか?

説経節にある安寿の拷問や大夫の処刑といった残酷な場面を、鴎外はほとんど省いている。大夫の一家が栄え続ける展開は鴎外の創作だ。