結論:「高瀬舟」は「知足」と「安楽死」という二つの問いを、舟の上の対話で描いた短編
「高瀬舟」は、森鴎外が1916年(大正5年)1月に雑誌『中央公論』で発表した短編小説です。弟を殺した罪で島に送られる喜助と、その護送を務める老年の役人・羽田庄兵衛が、高瀬川を下る舟の上で言葉を交わします。
主題は、教科書では「知足(足るを知ること)」と「安楽死」の二つと読まれるのが一般的です。鴎外自身が書いた解説「高瀬舟縁起」でも、原典の話のうち、罪人が持ち物をどう考えているかという点と、安楽死の問題の二点に心を引かれたと述べられています。
この二つのうちどちらが中心なのか、あるいは両方なのかは、研究者のあいだでも議論が続いています。この記事では、あらすじ、二つの主題、原典との関係、鴎外の経歴の順に整理します。
基本情報
- 作品名:高瀬舟(たかせぶね)
- 作者:森鴎外(森林太郎)。1862年(文久2年)生まれ、1922年(大正11年)没、享年60
- 発表:1916年(大正5年)1月、『中央公論』。単行本は1918年(大正7年)2月に春陽堂から刊行
- 種類:短編小説。舞台は江戸時代の京都
- 原典:神沢杜口の随筆『翁草』にある「流人の話」
- 主な登場人物:喜助(遠島になる罪人、30歳ばかり)、羽田庄兵衛(護送役の役人)
- 主題:知足、安楽死
「高瀬舟」のあらすじ:喜助と庄兵衛の対話
晴れやかな顔の罪人・喜助
高瀬川を下る舟に、弟を殺した罪で遠島(島流し)を言い渡された喜助が乗せられます。年は30歳ばかりです。護送するのは、年配の役人・羽田庄兵衛です。
罪人は普通、悲しみに沈んでいるものです。ところが喜助は、少しも苦しそうに見えません。庄兵衛は不思議に思い、その理由を尋ねます。物語は、この問いに喜助が身の上を語る形で進みます。
二百文を手にした喜助の満足
喜助は、貧しい暮らしに満足している人物です。幼いころに両親を亡くし、弟と支え合って生きてきました。喜助が嬉しそうに見えた理由は、役所から二百文を与えられたことにあります。喜助はその二百文を大切に思っていると語ります。
庄兵衛から見れば小さな額です。しかし喜助は、今あるものに満足しています。この感覚が、「知足」と呼ばれる主題につながります。
弟の死の真相
喜助が弟を死なせた経緯も、この対話の中で語られます。弟は病気になり、兄の重荷になっていると思い詰めて、自ら命を絶とうとしました。しかし死にきれず、苦しみの中で喜助に、体に刺さった剃刀を抜いてほしいと頼みます。
喜助はその頼みを聞いて剃刀を抜きました。そこへ近所の者が来合わせ、剃刀を手にした喜助の姿を見ます。喜助は殺人の罪に問われ、遠島の裁きを受けました。
庄兵衛に残った疑問
話を聞いた庄兵衛は、喜助の行いが本当に罪と言えるのかという疑いを抱きます。弟は死を望んでいました。それでも、これが本当に罪なのかを、庄兵衛は分からないまま考え込みます。
「高瀬舟」が問う知足と安楽死:二つの主題をどう読むか
知足:持たないことで得られる満足
「知足」は「足るを知る」、つまり今の状態に満足する心を意味する言葉です。喜助は貧しい暮らしの中で、役所から与えられた二百文を大切に思い、今の状態に満足しています。
鴎外が「高瀬舟縁起」で注目したのは、罪人が持ち物をどう考えているかという点でした。
安楽死:苦しむ肉親の頼みに応えることは罪か
もう一つの主題は安楽死です。「高瀬舟縁起」でも、鴎外は安楽死の問題に心を引かれたと述べています。作中の庄兵衛は、喜助の行いが本当に罪なのかが分からず、考え込みます。
作品は、喜助の行為を正しいとも誤りとも断定しません。奉行所は喜助を罪人として扱い、庄兵衛は結論を出せないままです。この結論の出なさが、読む人に問いを渡す仕掛けになっています。
二つの主題は両立するのか
教科書では、この作品は知足と安楽死を主題とするものとして扱われるのが通例です。ただし研究では、二つの主題が一つの作品の中でうまく結びついているのか、それともどちらかが中心なのかが、大きな論点になってきました。
私は、喜助の二百文の話と弟の話が、どちらも「喜助自身の語り」で一続きに語られる点が、この作品の組み立ての特徴だと考えています。ただし、これは私の読みであり、定説ではありません。
高瀬舟の成立背景:『翁草』と鴎外
原典は『翁草』の「流人の話」
「高瀬舟」は、江戸時代の随筆集『翁草』にある「流人の話」を下敷きにしています。『翁草』を書いたのは、京都町奉行所の与力で俳人でもあった神沢杜口です。前編・後編あわせて全200巻の大部な書物で、前編は1772年に、後編は1791年に完成しました。作者が82歳のときです。
鴎外はこの中の「流人の話」を材料に、一編の小説を作りました。
舞台の高瀬川と高瀬舟
高瀬川は、京都と伏見を結ぶために、角倉了以と角倉素庵が開いた川です。名前は、この川を行き来した高瀬舟に由来します。角倉了以のページによれば、高瀬川は1611年に開削が始まり、了以が亡くなった1614年の後に完成しました。方広寺大仏殿の資材を運ぶために整備された運河でもあります。
近世以降の高瀬舟は帆船で、船体の内部は張り板で区切られていました。
鴎外にとっての晩年の仕事
鴎外は1907年に陸軍軍医総監となり、同年11月から1916年4月まで陸軍省医務局長を務めました。晩年には、「阿部一族」「渋江抽斎」など、歴史に材料を取った作品に力を入れました。
「高瀬舟」もその流れの中で、古い書物の逸話を材料に書かれた作品です。
ゆかりの地と関連する人物
- 津和野(島根県津和野町):鴎外は石見国津和野の藩医の家に生まれました
- 三鷹の禅林寺(東京都三鷹市):鴎外の墓があります。墓碑には「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれています
- ベルリン:ドイツ留学時の滞在先に、森鷗外記念館があります
- 京都の高瀬川:小説の舞台。開削した角倉了以は、京都嵯峨野の二尊院に墓があります
- 神沢杜口:原典『翁草』の作者。京都町奉行所の与力で俳人でした
「高瀬舟」はのちに映像化もされています。1930年に日活の無声映画、1988年に工藤栄一監督の映画があり、2015年には舞台も上演されました。
よくある質問
「高瀬舟」はいつ、どこで発表されましたか?
1916年(大正5年)1月に雑誌『中央公論』で発表されました。単行本としては1918年2月に春陽堂から刊行されています。
「高瀬舟」の主題は何ですか?
一般には「知足」と「安楽死」の二つとされます。鴎外自身の「高瀬舟縁起」にも、この二点に心を引かれたと書かれています。どちらが中心かは、研究者のあいだでも意見が分かれています。
「高瀬舟」には原典がありますか?
あります。神沢杜口の随筆集『翁草』にある「流人の話」です。鴎外はこの話を下敷きにして小説を書きました。
喜助はなぜ晴れやかな顔をしていたのですか?
喜助は貧しい暮らしに満足しており、役所から与えられた二百文を大切に思っていたからです。




