森鴎外 日本史トリビア

結論:旧居巡りは「小倉・千駄木・津和野」の3か所。建物が残るのは小倉と津和野

森鴎外の旧居として訪ねられるのは、北九州市小倉北区の「森鷗外旧居」、東京都文京区千駄木の観潮楼跡(森鷗外記念館)、島根県津和野町の「森鴎外旧宅」の3か所です。

小倉の旧居は北九州市の指定史跡、津和野の旧宅は1969年(昭和44年)に国の史跡に指定された生家です。千駄木の観潮楼は昭和12年の失火と昭和20年の戦災で2度焼けており、建物は残っていません。跡地には表門の礎石、銀杏の大木、「三人冗語の石」が残ります。

生まれ育った津和野、軍医として赴任した小倉、晩年まで暮らした千駄木と、鴎外の人生の時期ごとに1か所ずつ対応しているのが、この3か所を巡る面白さです。

基本情報

  • 生没年:1862年2月17日(文久2年1月19日)生まれ、1922年(大正11年)7月9日没。満60歳
  • 出身:石見国津和野(現・島根県津和野町)。津和野藩の典医の家に生まれた
  • 立場:陸軍の軍医であり、小説家・翻訳家
  • 死因:腎萎縮と肺結核(Wikipediaによる)
  • 旧居の3か所:津和野(生家・国指定史跡)、小倉(市指定史跡)、千駄木の観潮楼跡(森鷗外記念館)

森鴎外の旧居はどこにある?3か所の場所と現状

小倉の旧居:北九州市小倉北区鍛冶町

所在地は小倉北区鍛冶町一丁目7番2号です。鴎外は1899年(明治32年)6月に旧陸軍第12師団の軍医部長として小倉に赴任し、1902年(明治35年)3月に第1師団へ転任するまで、2年10か月を小倉で過ごしました。北九州市の案内では、このうち鍛冶町の家で暮らしたのは最初の1年半とされています。

建物は明治30年頃に建てられた家です。鴎外が去ったあとに玄関や通り土間などが大きく改造されましたが、1981年(昭和56年)に市が買収して復元しました。1974年(昭和49年)3月22日に市の史跡に指定され、文化財公開施設として公開されています。

この家は、鴎外が東京に戻ってから書いた小説「鶏」の舞台にもなっています。作品の舞台になった家が、復元された形で公開されています。

開館時間や休館日、入館料は、北九州市の案内ページには載っていません。出かける前に、北九州市の文化企画課(電話093-582-2391)に確認してください。

東京の旧居:文京区千駄木の観潮楼跡

鴎外は1892年(明治25年)に駒込千駄木町21番地(文京区の資料では現在の千駄木1-23-4)に住まいを構え、のちに2階を増築して「観潮楼」と名づけました。文京区は、ここを鴎外の文学活動の中心であり、生涯を送った土地と紹介しています。

それ以前、1890年には同じ千駄木町の57番地に移り、その住まいを「千朶山房」と呼んでいました。つまり千駄木では、2軒の家を続けて使ったことになります。

観潮楼そのものは、昭和12年の失火と昭和20年の戦災で2度焼けました。いまは跡地に文京区立の森鷗外記念館が建っています。

津和野の旧宅:島根県津和野町

鴎外が生まれたのは石見国鹿足郡津和野町田村、現在の津和野町町田です。文化庁の「文化遺産オンライン」によれば、旧宅は木造平屋建てで、当初は茅葺でしたが現在は瓦葺に改装されています。1853年(嘉永6年)の大火の直後に建てられたと考えられています。

上手にある四畳半の茶室は、父が鴎外の勉強部屋として与えたものといわれています。1969年(昭和44年)10月29日に国の史跡に指定されました。

観潮楼と千駄木、「森鷗外記念館」で何が分かる?

観潮楼の名前の由来と歌会

文京区の案内によれば、鴎外は住まいに2階を増築して「観潮楼」と名づけました。Wikipediaには、1907年(明治40年)3月からこの自宅で観潮楼歌会が開かれたと記されています。自宅が、文学の集まりの場になっていたわけです。

なお「観潮楼」という名の由来について、文京区のページには説明がありません。海が見えたから、という通説的な話は、今回確かめた資料では裏づけが取れなかったため、ここでは断定しません。

跡地に残るもの:礎石・銀杏・三人冗語の石

文京区によれば、観潮楼跡には表門跡の礎石や敷石、銀杏の大木、「三人冗語の石」が残っています。2度の火災と戦災を経ても、これらは跡地に残ったということです。

「三人冗語の石」の来歴の詳細は、今回確かめた資料からは確認できませんでした。

千駄木へ移るまでの東京の住まい

鴎外は1872年(明治5年)に父とともに上京し、向島で暮らしはじめました。その後、父の医院があった千住にも住み、本郷の下宿屋「上条」にも移っています。この下宿は、1880年(明治13年)に移った場所で、翌年3月の火災で講義ノートなどを失った場所でもあります(Wikipediaによる)。千駄木の観潮楼は、こうした転居を重ねたあとに腰を据えた家でした。

記念館の開館時間や観覧料は、文京区のページには載っていません。出かける前に、記念館の公式サイトか文京区アカデミー推進課観光担当(電話03-5803-1174)で確認してください。

小倉時代と「鶏」:左遷と言われる時期の実像

小倉への赴任はいつからいつまで

Wikipediaは、鴎外が1899年に軍医監に昇任し、第12師団軍医部長として小倉に赴任したと記しています。在任期間は1899年6月19日から1902年3月26日までとされ、年譜には赴任を同年2月とする記載もあり、資料間で食い違いがあります。北九州市の案内は「明治32年6月」を採っています。

小倉時代の執筆

Wikipediaには、小倉時代の仕事として、歴史観や近代観にかかわる随筆の執筆や、クラウゼヴィッツ『戦争論』の翻訳への取り組みが挙げられています。小説「鶏」は、東京に戻ってから、鍛冶町の家を舞台にして書かれました。

この異動は、Wikipediaでは「左遷」と括弧付きで記されており、左遷といえるのか疑問視する声もあると述べられています。ここでは、軍医部長として赴任し、2年10か月を小倉で過ごした、という事実を書きます。

津和野の生家:幼い鴎外が育った家

藩医の家に生まれて

文化遺産オンラインによると、鴎外(本名は林太郎)は津和野藩の典医の家に生まれ、漢籍や蘭学を学び、1872年(明治5年)に父とともに上京しました。旧宅は、その幼年期を過ごし、生涯の基礎をつくった場所と説明されています。

建物の特徴

屋敷は旧屋敷町の堀跡沿いの道に面し、間取りは縦に食い違った形です。茶室を勉強部屋に与えたという父の話からは、息子の学問に力を注いだ様子がうかがえます。

上京後の生家

Wikipediaによると、津和野の家は1873年(明治6年)6月に売却され、父の医院がある千住に移っています。鴎外にとって津和野の家は、上京から1年ほどで手放した、少年期だけの家でした。

ゆかりの地と関連する人物

  • 津和野町:森鴎外旧宅(国指定史跡)。墓所のひとつ、永明寺もある
  • 北九州市小倉北区鍛冶町:森鷗外旧居(市指定史跡)
  • 文京区千駄木:観潮楼跡と森鷗外記念館
  • 三鷹市:禅林寺に鴎外の墓がある。Wikipediaによれば、鴎外は最初、東京の向島の弘福寺に埋葬され、のちに禅林寺と津和野の永明寺にも墓ができた

関連する人物としては、鴎外の上京に付き添った父がいます。津和野から千住へ移った父の医院が、少年期の鴎外の東京での生活の出発点でした。

参考:各地の公開時間・料金は変わることがあります。出かける前に、各施設の公式の案内で確認してください。

よくある質問

森鴎外が最も長く住んだ家はどこですか?

千駄木の観潮楼です。1892年(明治25年)に住まいを構え、1922年に亡くなるまで、この地で暮らしました。

小倉に住んでいたのはいつからいつまでですか?

北九州市の案内では、1899年(明治32年)6月に赴任し、1902年(明治35年)3月に第1師団へ転任するまでの2年10か月です。鍛冶町の家で暮らしたのは、そのうち最初の1年半とされています。

観潮楼の建物は今も見られますか?

見られません。昭和12年の失火と昭和20年の戦災で2度焼けました。跡地には表門跡の礎石、銀杏の大木、三人冗語の石が残り、森鷗外記念館が建っています。

津和野の旧宅は文化財に指定されていますか?

はい。1969年(昭和44年)10月29日に国の史跡に指定されました。