結論:高橋是清翁記念公園は、二・二六事件で是清が亡くなった赤坂の旧邸の跡地
高橋是清翁記念公園は、東京都港区赤坂7丁目にある公園です。高橋是清が住み、1936年(昭和11年)2月26日の二・二六事件で亡くなった私邸の跡地にあたります。邸宅と土地は1938年に記念事業会から東京市へ寄付され、1941年(昭和16年)に記念公園として開園しました。
邸宅の主屋は公園にはなく、多磨霊園を経て、現在は小金井市の江戸東京たてもの園で見られます。赤坂の公園では、池、石橋、石灯籠、是清の銅像のある庭園が、旧邸の面影を伝えています。
基本情報
- 人物:高橋是清(1854年9月19日〔嘉永7年閏7月27日〕生まれ、1936年2月26日没。没年齢は満81歳)
- 時代:江戸末期に生まれ、明治・大正・昭和前期に活躍した
- 立場:日本銀行総裁、大蔵大臣、第20代内閣総理大臣、立憲政友会総裁
- 公園の所在地:東京都港区赤坂7丁目3番39号
- 公園の広さ:5,320.62平方メートル(港区の公園情報サイトでは約1,600坪)
- 開園:1941年(昭和16年)。1950年(昭和25年)から港区が管理している
- 旧邸の主屋:江戸東京たてもの園(東京都小金井市、都立小金井公園内)に「高橋是清邸」として移築されている
高橋是清翁記念公園とは?旧邸宅跡に生まれた公園の歴史
赤坂の私邸と、公園になるまでの流れ
公園の場所は、もともと高橋是清の私邸でした。江戸時代は大名屋敷の土地で、明治以降は高官や士族の屋敷が並んだと、港区の公園情報サイトは説明しています。是清の邸は青山通りに面し、赤坂御所に向き合う約2,000坪の敷地で、いまの隣地のカナダ大使館もかつては敷地の一部だったとされます。
是清の死後、1938年に高橋是清記念事業会が、邸と土地を東京市に寄付しました。これが公園の出発点です。1941年に記念公園として開かれ、1950年に管理が港区へ移って、いまに至ります。
二・二六事件と、赤坂の邸
1936年2月26日、陸軍の青年将校らが起こした二・二六事件で、是清は赤坂の自邸で襲撃され、亡くなりました。当時は現職の大蔵大臣でした。邸の2階が現場だったことは、江戸東京たてもの園の建物の解説にも書かれています。
葬儀は1か月後に築地本願寺で行われ、陸軍の管理下に置かれたと、日本語版 Wikipedia は伝えています。墓所は多磨霊園です。事件の経過の細部には、この記事では立ち入りません。
公園の年表
- 1902年:邸の主屋が完成
- 1936年:二・二六事件。是清が邸で亡くなる
- 1938年:邸と土地が東京市に寄付される。主屋は多磨霊園へ移される
- 1941年:高橋是清翁記念公園として開園
- 1950年:管理が港区に移る
- 1974年:赤坂区役所跡の記念碑が建てられる
- 1993年:江戸東京たてもの園が開園(3月28日)
高橋是清翁記念公園の見どころと、移築された旧邸「仁翁閣」
園内の見どころ:池・石橋・石灯籠・銅像
港区の公園情報サイトによると、園内は日本庭園の区画と、青山通り側の遊具の区画に分かれています。日本庭園には池、石橋、石灯籠、石碑、そして高橋是清の銅像があります。赤坂の高台にある公園で、広さはおよそ1,600坪です。
季節の木々も紹介されており、初夏はアジサイ、秋はイロハモミジやケヤキの紅葉が楽しめるとされています。開園時間や入園の条件は、訪れる前に港区のページで確かめてください。
主屋はどこへ移ったのか:多磨霊園の「仁翁閣」から小金井へ
邸の主屋は1902年の完成で、総栂普請(そうつがぶしん)、つまり栂(つが)の材を全体に使った建物です。窓にガラスを使った初期の和風住宅の例でもあると、Wikipedia のたてもの園の項は記しています。
1938年に邸が東京市へ寄付されると、主屋は多磨霊園に移され、休憩所「仁翁閣(じんおうかく)」として使われました。戦争を越えて残りましたが、傷みが進んだため1976年に一般の利用が打ち切られ、1983年に一部が修理されています。その後、江戸東京たてもの園に移されました。同園は1993年3月28日に開園した、小金井公園内の野外博物館です。
赤坂では、邸の主屋は無くなり、庭と土地が公園になりました。建物と庭がそれぞれ別の場所で残った、という形です。
是清が歩んだ道:赤坂の邸に住むまで
是清は1854年、江戸・芝に生まれました。実の父は幕府の絵師・川村庄右衛門で、仙台藩の下級武士の高橋家に引き取られ、のち正式にその子となりました。1867年にアメリカへ渡り、オークランドで年季奉公のような状態に置かれる苦労を経て、1868年に帰国しています。
1892年に日本銀行へ入り、1899年に副総裁、1911年に第7代総裁になりました。日露戦争の際は副総裁として英米に渡り、戦費のための公債募集に当たりました。
政治家としての仕事:蔵相と首相
1913年から1936年にかけて、いくつもの内閣で大蔵大臣を務めました。1921年11月、原敬の暗殺を受けて第20代内閣総理大臣に就き、内閣は約7か月続きました。立憲政友会の総裁も務めています。
1927年の昭和金融恐慌では、田中義一内閣の蔵相として支払猶予令と日本銀行券の大量発行で預金者の不安を鎮めました。1931年からの犬養毅内閣では、金輸出をめぐる政策を転換し、日本銀行による国債の直接引き受けと財政支出の拡大を進め、他国より早くデフレから抜け出したと評価されています。犬養の暗殺後の1932年には、蔵相のまま首相臨時代理も務めました。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 高橋是清翁記念公園(東京都港区赤坂7丁目):旧邸の跡。庭園と銅像がある
- 江戸東京たてもの園(東京都小金井市、小金井公園内):旧邸の主屋「高橋是清邸」を見学できる
- 多磨霊園:是清の墓所。かつて主屋が休憩所「仁翁閣」として移されていた
- 築地本願寺:葬儀が行われた寺
関連する人物
- 原敬:1921年に暗殺され、是清が後継の首相になった
- 犬養毅:1932年に暗殺され、是清は蔵相のまま首相臨時代理を務めた
- 田中義一:昭和金融恐慌のときの首相で、是清は蔵相として入閣した
よくある質問
高橋是清翁記念公園はどこにありますか。
東京都港区赤坂7丁目3番39号です。青山通りに面した高台にあり、港区が管理しています。開園時間などは港区の公園情報サイトで確認してください。
公園に是清の邸の建物は残っていますか。
建物は赤坂には残っていません。主屋は多磨霊園に移されたあと、現在は小金井市の江戸東京たてもの園で公開されています。赤坂の公園には、池、石橋、石灯籠、銅像があります。
公園はいつ、どうやってできたのですか。
1938年に高橋是清記念事業会が邸と土地を東京市に寄付し、1941年に記念公園として開園しました。1950年からは港区が管理しています。
是清が亡くなったのはどこですか。
1936年2月26日の二・二六事件で、赤坂の自邸で亡くなりました。邸の2階が現場だったと、江戸東京たてもの園の解説は伝えています。





