島崎藤村 日本史トリビア

結論:柳田國男の体験談を聞いた藤村が、明治33年に詩にした

「椰子の実」は、島崎藤村が友人の柳田國男から聞いた話をもとに作った詩です。柳田は明治31年(1898年)の夏、愛知県の伊良湖岬に1か月余り滞在しました。そのとき浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がそれを素材に創作したとされています。

詩は明治33年(1900年)6月、雑誌『新小説』に「海草」という総題の一篇として発表されました。翌明治34年(1901年)8月に刊行された詩集『落梅集』に収められています。

歌として広まったのは昭和11年(1936年)です。大中寅二が作曲し、NHKの「国民歌謡」で放送されました。詩の発表から30年以上あとのことです。

基本情報

  • 作者:島崎藤村。1872年3月25日(明治5年2月17日)生まれ、1943年(昭和18年)8月22日没、71歳。現在の岐阜県中津川市馬籠の出身
  • 話の提供者:柳田國男。1875年(明治8年)7月31日生まれ、1962年(昭和37年)8月8日没。藤村にとって青春期の友人の一人
  • 時代:明治時代(詩の発表は明治33年)
  • 初出:雑誌『新小説』1900年6月、総題「海草」の一篇
  • 収録:詩集『落梅集』(1901年8月)
  • 作曲:大中寅二(1936年)。同年7月13日からNHKの国民歌謡で放送
  • 2007年に、文化庁と日本PTA全国協議会による「日本の歌百選」に選ばれた

椰子の実の由来:柳田國男が伊良湖で語った話

明治31年の夏、伊良湖岬での滞在

田原市の観光案内には、記念碑の説明として次の経緯が書かれています。民俗学者の柳田國男は、明治31年の夏に伊良湖に1か月余り滞在していました。その間に拾った椰子の実の話を、親友の島崎藤村に語りました。その話が素材となって、椰子の実を題材にした叙情詩が生まれた、という内容です。

日本語版Wikipediaの「椰子の実」では、椰子の実が流れ着いたのは恋路ヶ浜だったと書かれています。

ここで押さえておきたいのは、藤村自身が伊良湖で椰子の実を拾ったわけではない点です。藤村が聞いたのは、友人の体験でした。資料の書きぶりも、柳田から聞いた話をもとに創作したとされる、というもので、詩は聞き取った話から組み立てた作品です。

二人の関係:同じ時代の文学仲間

柳田國男は、のちに民俗学者として知られますが、若いころは文学の世界にいました。日本語版Wikipediaによれば、1897年(明治30年)には田山花袋、国木田独歩らと詩集『抒情詩』を出版しています。藤村は柳田の青春期の友人の一人に数えられています。

その後も、1907年(明治40年)2月に藤村、花袋、小山内薫らとイプセン会を始めるなど、付き合いは続きました。柳田は官界に進んだあとも、藤村など文学者との交流を保ったとされます。椰子の実の話が友人の間の雑談として藤村の耳に入ったと考えるのは、この関係からすると自然です。ただし、二人がどんな場で話したのかは、確かめた資料には書かれていません。

詩の発表と『落梅集』への収録

詩は、明治33年6月に雑誌『新小説』に載りました。このとき「椰子の実」は単独の作品ではなく、「海草」という総題のもとに置かれた一篇でした。

翌年の明治34年8月、詩集『落梅集』が刊行され、「椰子の実」はそこに収められました。『落梅集』は『若菜集』『一葉舟』『夏草』に続く藤村の4冊目の詩集です。この4冊を合わせた『藤村詩集』が、1904年に刊行されています。

藤村はどんな時期にこの詩を書いたのか:作家の背景

仙台から小諸へ

藤村が詩を書き始めたのは、1896年(明治29年)に仙台の東北学院の教師として赴任した時期です。赴任は9月8日で、約1年間在職しました。同年10月25日には母が亡くなり、この頃から詩作を始めたとされます。第一詩集『若菜集』は1897年に刊行されました。

1899年(明治32年)4月には、小諸義塾に赴任しました。小諸には約6年間住み、『千曲川のスケッチ』を書き始めました。小諸を離れて上京したのは1905年です。

「椰子の実」が雑誌に出た明治33年6月も、『落梅集』が出た明治34年8月も、藤村は小諸に暮らしていた時期にあたります。つまりこの詩は、長野県の小諸で暮らしていた藤村が、愛知県の伊良湖の浜の話をもとに作った作品だということになります。

詩人から小説家へ

藤村は、『若菜集』から『落梅集』までの4冊の詩集で、明治浪漫主義の先端に立ったとされます。藤村は1905年に上京しました。「椰子の実」を収めた『落梅集』は、この詩集群の4冊目にあたります。

歌詞の言葉については

この記事では、詩の語句の意味や、各連の解釈には立ち入りません。参照した資料に、歌詞の表現や文体を解説した記述がなかったためです。詩の本文は、『落梅集』を収めた全集や、国民歌謡の楽譜で読むことができます。

歌になった「椰子の実」:大中寅二と国民歌謡

昭和11年、NHKからの作曲依頼

詩に曲がついたのは、昭和11年(1936年)のことです。同年7月、日本放送協会(NHK)大阪中央放送局の「国民歌謡」の担当者が、作曲家の大中寅二に作曲を依頼しました。曲が完成したのは7月9日です。

放送と歌い手

放送は7月13日から、東海林太郎の歌唱で1週間行われました。その後も、二葉あき子(8月3日)、多田不二子(11月9日)、柴田秀子(12月9日)が歌って放送されています。同じ年のうちに、少なくとも4人の歌手の歌唱で放送されたことになります。

放送を通じて、職場や学校で歌われるようになりました。12月には、東海林太郎の歌唱でポリドールからレコードが発売されています。

合唱への編曲と「日本の歌百選」

大中寅二自身が、ピアノ伴奏の混声合唱版と女声合唱版をつくっています。ほかにも多くの編曲があり、作曲者の息子である大中恩による編曲も含まれます。

2007年には、文化庁と日本PTA全国協議会による「日本の歌百選」に選ばれました。詩の発表から100年以上がたっても、歌い継がれている曲です。

ゆかりの地と関連する人物

愛知県田原市:恋路ヶ浜と椰子の実記念碑

愛知県田原市の日出町には、詩の記念碑と歌碑があります。田原市のホームページにも「椰子の実記念碑」として載っており、柳田國男の滞在から、藤村の詩、大中寅二の曲までの経緯が簡潔に紹介されています。記念碑の詳しい場所は、田原市観光課に問い合わせると確かめられます。

長野県小諸市:藤村記念館の詩碑

藤村が6年間を過ごした小諸市の懐古園内には、小諸市立藤村記念館があります。その前庭に、この詩の詩碑があります。詩にゆかりのある伊良湖と小諸の二か所に、碑が建てられています。

関連する人物

  • 柳田國男:椰子の実の話を藤村に伝えた人物。藤村の青春期の友人の一人
  • 大中寅二:1936年に曲をつけた作曲家
  • 東海林太郎:1936年7月13日からの最初の放送で歌った歌手
  • 田山花袋・国木田独歩:柳田、藤村と同じ時期に文学の世界で活動した仲間。花袋と独歩は柳田とともに『抒情詩』を出した

よくある質問

椰子の実を拾ったのは島崎藤村ですか?

いいえ。伊良湖の浜に流れ着いた椰子の実の話をしたのは柳田國男で、藤村はそれを聞いて詩にしたとされています。

「椰子の実」はいつ発表された詩ですか?

明治33年(1900年)6月の雑誌『新小説』に、「海草」という総題の一篇として載りました。翌明治34年8月刊行の詩集『落梅集』にも収められています。

歌の「椰子の実」は誰が作曲しましたか?

大中寅二です。昭和11年(1936年)にNHKの国民歌謡として作曲され、7月13日から東海林太郎の歌唱で放送されました。

椰子の実の記念碑はどこにありますか?

愛知県田原市日出町に詩の記念碑と歌碑があります。長野県小諸市の懐古園内、小諸市立藤村記念館の前庭にも詩碑があります。