結論:九条兼実は頼朝と組んで朝廷を率い、日記『玉葉』で乱世を書き残した公卿
九条兼実(くじょう かねざね)は、平安末期から鎌倉初期にかけて摂政・関白・太政大臣を務めた公卿です。1149年に生まれ、1207年に59歳で亡くなりました。源平の争乱の間は特定の勢力に属さず、傍観的な態度をとったとされます。争乱の後は、源頼朝の後押しを受けて朝廷の中心に立ちました。
しかし1196年の建久七年の政変で関白を辞めさせられ、政界の主役の座を失います。一方、1164年から1200年までを記した日記『玉葉』は、この時代を調べる基礎史料として今も使われています。五摂家の一つ、九条家の祖でもあります。
この記事では、兼実の経歴、頼朝との関係、失脚の経緯、『玉葉』が持つ価値、法然との関わり、そして九条家のその後を、Wikipedia で確かめられた事実の範囲でたどります。
基本情報
- 生没年:1149年(久安5年)〜1207年(建永2年4月5日)、59歳
- 時代:平安時代末期〜鎌倉時代初期
- 身分:従一位、摂政、関白、太政大臣。通称は後法性寺関白、別名は月輪殿など
- 父:関白・藤原忠通。母は藤原仲光の娘(家女房の加賀)
- きょうだい:異母兄に近衛基実・松殿基房、同母弟に慈円など
- 出家:1202年、法然を戒師として出家し、円証と号した
- 代表的な記録:日記『玉葉』(1164〜1200年)
- 墓所:京都市の東福寺
- 家系上の位置:五摂家の一つ九条家の祖
九条兼実とは何者か?頼朝と結んで摂政・関白になるまで
若くして公卿、しかし20年ほど官職が動かなかった
兼実は1160年に従三位となって公卿に加わり、1164年には16歳で内大臣、1166年には18歳で右大臣になりました。順調な出世に見えますが、その後およそ20年間は官職が動きませんでした。1174年に従一位へ進んだものの、政権の中枢にいたわけではありません。
1179年の治承三年の政変のあと、兼実の嫡男・良通は平氏の計らいで昇進しました。兼実はこの平氏の恩顧を恥じていたと伝えられます。
源平の争乱では傍観的な立場
治承・寿永の乱のあいだ、兼実は特定の勢力に属さず、傍観的な態度をとりました。この時期の見聞が『玉葉』に書き込まれ、のちに史料としての価値を生みます。同じ頃、皇嘉門院の死後には八条院に接近しています。
1183年(寿永2年)5月19日付の兼実の願文も残っています。大仏の再興と仏舎利の奉納を願う内容で、治承4年(1180年)の南都焼討にも触れています。尊経閣所蔵の文書で、『平安遺文』に収められています。
頼朝の要求で内覧、そして摂政へ
1185年、頼朝は朝廷の改革の一環として、兼実に内覧(天皇に奉る文書を先に見る役)を求めました。兼実はこの申し入れに驚いたとされます。翌1186年に摂政・藤原氏長者となり、1189年に太政大臣、1191年に関白となりました。就任年は、Wikipedia の本文と一覧とで1年のずれがある項目があります。
頼朝が求めた改革の柱は三つで、院近臣の解官、議奏公卿による朝政運営、そして兼実への内覧でした。議奏公卿は、有力な公卿が合議で朝廷の政治を動かす仕組みです。兼実は保元以来なくなっていた記録所の再設置にも関わりました。
頼朝との対面は『玉葉』で見る限り一度だけ
頼朝と兼実が初めて顔を合わせたのは、1190年11月9日、閑院内裏でのことです。『玉葉』による限り、この年の対面は一度きりとされます。この会見は、同盟の再確認とみる見方と、頼朝が兼実と距離を置き始めたとみる見方に分かれています。
1195年には頼朝が東大寺落慶供養のため再び上洛し、3月30日と4月10日に兼実と対面しています。4月10日は深夜に及ぶ長い会談でした。4月1日の日記には、頼朝から贈られた馬2疋を「甚だ乏少」(ごくわずか)と書いています。盟友に対しても、兼実は率直に書いていました。
後白河法皇の死後に主導権を握る
1192年3月13日に後白河法皇が亡くなると、兼実が朝廷の主導権を握りました。同年7月12日には、兼実の朝政のもとで頼朝に征夷大将軍が宣下されています。同年11月には弟の慈円が天台座主となりました。
寺社の復興にも取り組み、1194年に興福寺の復興を進め、1195年には東大寺の再建が成りました。他方で1191年には、頼朝の腹心・中原広元が明法博士・左衛門大尉に任じられたことを先例に反するとして強く非難しています。先例を重んじる姿勢は、頼朝の側近に対しても変わりませんでした。
建久七年の政変とは?兼実はなぜ失脚したのか
大姫入内工作と通親の台頭
兼実の失脚につながったのが、頼朝の娘・大姫を天皇の后に入れようとする動きです。1195年3月29日、頼朝は丹後局を六波羅に招き、政子や大姫と引き合わせて贈り物をしています。入内工作の一環と推測されています。頼朝は丹後局に近づき、兼実への支援を打ち切ったとされます。
兼実の娘・任子は後鳥羽天皇の中宮でしたが、男子を産みませんでした。1196年8月13日に生まれたのは皇女(昇子内親王)で、兼実は皇子誕生の望みを絶たれます。これに後鳥羽天皇、上級貴族、中・下級貴族の反発も重なって、兼実は孤立しました。
1196年11月の三日間
政変は短期間で進みました。1196年11月10日に嫡子の良経が内大臣となり、11月23日に中宮任子が内裏から退去させられ、11月25日に兼実が関白を罷免されます。後任は近衛基通でした。弟の慈円は天台座主を、兼房は太政大臣を辞しています。
同年12月には、源通親(土御門通親)の養女・在子が皇子(為仁、後の土御門天皇)を産んだことが明らかになり、廷臣の多くが通親方へ移りました。『愚管抄』によれば、通親は兼実の流罪まで求めたものの、後鳥羽天皇が止めたとされます。
その後:頼朝の死と通親の権勢
1198年に土御門天皇が即位し、通親の権勢は極まりました。同年以降、頼朝が兼実に再び提携を申し入れたとされますが、この話は『玉葉』と『愚管抄』にしか見えず、真偽には異論もあります。翌1199年に頼朝が急死し、兼実の望みは絶たれました。
次男の良経は1199年に籠居のまま左大臣となり、1200年に出仕を許されて朝廷に戻りますが、通親の権勢の前では力を発揮できませんでした。
『玉葉』が伝える源平動乱:なぜ第一級の史料なのか
1164年から1200年の記録
『玉葉』は、1164年(長寛2年)から1200年(正治2年)までの記録です。源平の争乱に関する記述が多く、宮中行事の次第も詳しく書かれています。当時の公家の日記には、作法(有職故実)を後世に伝える目的もあり、『玉葉』もその一つです。
人物評や世相の動きをとらえている点、兼実の見識の高さと明快で熟達した表現も評価されています。朝廷側の史料であるため、幕府側の『吾妻鏡』と相補的に使われることが多いとされます。平安末期から鎌倉初期の研究の基礎史料という位置づけです。
原本は九条家ではなく一条家に伝わった
『玉葉』は九条家に伝わったと思われがちですが、Wikipedia によれば、九条道家の没後、元本は一条家に伝わりました。九条家に伝わるのは写本です。二条家はこの日記を『玉海』と呼びました。
江戸時代には二条家系の写本が紅葉山文庫に収められ、水戸藩の『大日本史』編纂では『玉海』の名で引用されています。近代の刊本としては、九条家旧蔵本を底本にした国書刊行会版(1906〜1907年、全3冊)があり、宮内庁書陵部編『九条家本玉葉』(明治書院、1994〜2013年、全14巻)も出ています。
兼実が書いたほかの著作
兼実の著作には、『玉葉』のほかに『魚秘抄』『摂政神斎法』『春除目略抄』があります。また若いころから和歌に関心が深く、自らも詠みました。藤原清輔、藤原俊成、藤原定家らの庇護者でもありました。
法然との関わりと、九条家のその後
法然に帰依し、『選択本願念仏集』を求めた
兼実は、長男・良通が早世したことをきっかけに専修念仏に救いを求め、法然に深く帰依しました。1202年正月27日には法然を戒師として出家し、円証と号します。法然の著作『選択本願念仏集』は、兼実の求めに応じて書かれたものとされます。
1207年2月の承元の法難では、法然の配流を止められなかったものの、配流先を自領の讃岐に変えて庇護しました。兼実自身はこの年の4月5日に亡くなっています。
親鸞の伝記には、兼実が法然の教えを試すため娘の玉日を親鸞に嫁がせたとする話がありますが、Wikipedia はこれを伝承として扱っています。事実とは断定できません。
九条家の流れ
兼実が失脚したあと、通親の死を経て、子の良経(1169〜1206)が摂政となり、摂関家としての地位を確立しました。しかし良経は1206年に38歳で急死し、兼実は孫の道家の養育に力を注ぎます。
良経の子・道家(1193〜1252)は、三男の頼経を鎌倉幕府第4代将軍に送り込みました。長男の教実、次男の良実、四男の実経は摂関になっています。良実は二条家、実経は一条家の祖となり、九条・二条・一条の3家は九条流と呼ばれます。
1246年の宮騒動で頼経が京都に送還され、道家も関東申次を罷免されました。1252年に頼嗣が将軍を解任され、道家も同年に亡くなります。道家の嫡孫・九条忠家は長く無官でしたが、1273年に関白に再任され、九条家は摂関家の地位を取り戻しました。九条家は近代まで続き、明治には公爵家となっています。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 東福寺(京都市):兼実の墓所とされる寺
- 東大寺・興福寺(奈良):兼実が再建や復興に取り組んだ寺
- 讃岐:承元の法難のとき、兼実が法然の配流先に変えた自領
関連する人物
- 源頼朝:兼実の内覧を朝廷に求め、のちに支援を打ち切った
- 後白河法皇:1192年に亡くなり、兼実が主導権を握る契機となった
- 源通親:養女の産んだ皇子が即位し、兼実を失脚させた側の中心
- 法然:兼実が帰依し、『選択本願念仏集』を求めた
- 慈円:同母弟で、1192年に天台座主となった
- 九条良経・九条道家:兼実のあとを継いだ子と孫
よくある質問
九条兼実は何をした人ですか?
頼朝の後押しで摂政・関白・太政大臣を務めた公卿です。議奏公卿による朝政運営を進め、東大寺や興福寺の復興にも取り組みました。日記『玉葉』を書いたことでも知られます。
建久七年の政変とは何ですか?
1196年11月、娘の中宮任子が内裏を退き、兼実が関白を罷免された出来事です。通親が勢力を伸ばし、頼朝も兼実への支援を打ち切ったことが背景にあります。
『玉葉』の原本は九条家に伝わっていますか?
Wikipedia によれば、元本は九条道家の没後に一条家へ伝わり、九条家に伝わるのは写本です。九条家旧蔵本は刊本の底本として使われました。
兼実と法然はどんな関係でしたか?
兼実は法然に帰依し、1202年に法然を戒師として出家しました。『選択本願念仏集』は兼実の求めで書かれたとされ、承元の法難のときには配流先を自領の讃岐に変えて庇護しています。
九条家は今も続いていますか?
九条家は五摂家の一つとして近代まで続き、明治には公爵家となりました。





