高山右近

結論:高山右近は、信仰を守るため大名の地位を手放し、異国で没したキリシタン大名

高山右近(たかやま うこん)は、摂津国の国人領主の家に生まれ、洗礼名ジュスト(Justo)で知られるキリシタン大名です。高槻城主として織田信長に、のちに豊臣秀吉に仕えて武功を挙げました。しかし1587年のバテレン追放令で、棄教を拒んで大名の地位を失います。その後は前田利家のもとで過ごし、1614年に徳川家康のキリシタン国外追放令でマニラへ送られました。到着から約40日後の慶長20年1月6日(1615年2月3日)、マニラで亡くなっています。

2017年2月7日には、大阪でカトリック教会の「福者」に列せられました。戦国武将としての顔と、茶人・信仰者としての顔の両方を持つ人物です。

基本情報

  • 生没年:天文21年(1552年)または天文22年(1553年)生まれ、慶長20年1月6日(1615年2月3日)没(享年63)。生年は日本側の史料に記載がなく、外国側の史料とも一致しないため、二つの説がある
  • 時代:戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期
  • 立場:摂津国の国人領主の家に生まれ、高槻城主、のち播磨国明石の領主。キリシタン大名
  • 洗礼名:ジュスト(Justo)。「義人」の意味とされる
  • 父:高山飛騨守(洗礼名ダリオ)
  • 茶の湯:茶号は南坊。千利休の高弟として「利休七哲」の一人に数えられる
  • 没地:フィリピンのマニラ
  • 列福:2017年2月7日、大阪城ホール。記念日は2月3日

高山右近とは?生涯と信仰、高槻城主としての歩み

高山右近の生い立ちと洗礼

高山氏は、摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)を出身地とする国人領主です。右近の父・高山飛騨守は松永久秀の家臣として知られ、母は高山マリアと呼ばれました。

永禄6年(1563年)7月、父が洗礼を受け、右近を含む家族や家臣など約150人が一斉に受洗したと伝わります。右近が授かったジュストという洗礼名は、「義人」を意味します。右近の信仰は、一族がこぞって入信するところから始まりました。

和田惟長との争いと、高槻城主への道

右近の一家は、当初は和田惟政に属していました。元亀2年(1571年)8月、惟政が白井河原の戦いで戦死すると、跡を継いだ和田惟長との関係が悪化します。元亀4年(1573年)3月、惟長が高山父子を呼び出して斬り合いとなり、右近は惟長に致命傷を負わせました。右近自身も、味方の誤斬りで首を半分ほど切られる重傷を負いましたが、奇跡的に回復したとされます。

その後、高山氏は荒木村重に属し、高槻城(4万石)を領しました。右近は高槻城主として、キリスト教の保護に力を注ぐことになります。

高槻に広がったキリスト教

天正9年(1581年)には、領民約2万5千人のうち約1万8千人がキリシタンになったとされます。領内には天主堂(教会)が20か所以上ありました。安土にセミナリヨ(神学校)を建てるときには、家臣1,500人を派遣したといいます。

一方で、領内で仏教寺院が廃されたり焼き討ちされたりしたという伝承については、史実かどうか分かっていません。熱心な布教の話は、そのまま鵜呑みにせず、確かな部分を切り分けて読む必要があります。

荒木村重の謀反とバテレン追放令:右近はなぜ領地を捨てたのか

荒木村重の謀反(1578年)と右近の決断

天正6年(1578年)10月、主君の荒木村重が信長に反旗を翻します。右近は妹や息子を人質に出して村重に翻意を促しましたが、説得は実りませんでした。

右近はイエズス会のオルガンティノ神父に助言を求めます。神父は、信長に降るのが正義にかなうとしつつ、よく祈って決断するよう勧めたと記されています。右近は紙衣(紙の着物)一枚で城を出て信長のもとへ出頭し、高槻城の領地を返上しました。村重は、城内に残された右近の家族らを殺さなかったとされます。信長は右近を有岡城攻めに加え、高槻城主の地位も安堵しました。

山崎の戦いから明石6万石へ

信長の死後、右近は秀吉に従います。天正10年(1582年)6月13日の山崎の戦いでは、中川清秀とともに先鋒を務めました。戦功により、6月27日付で高槻領のほか能勢郡3,000石と近江1,000石、あわせて4,000石の加増を受けたことが『塚本文書』で確認されています。

天正13年(1585年)閏8月には、高槻から播磨国明石へ移りました。石高は6万石(一説に12万石)で、居城は船上城でした。秀吉は大船二艘を与えたとも記されています。

バテレン追放令(1587年)で何が起きたか

天正15年(1587年)6月、バテレン追放令が出され、右近も追放されました。右近は棄教を拒み、大名の地位を失います。

その後は小西行長に庇護され、行長が肥後へ移るまで小豆島に住みました。天正16年(1588年)、前田利家に預けられて加賀国金沢に移ります。当初は囚人のような扱いを受けたとされます。天正18年(1590年)には、父の分も含めて2万6千石の扶持を受けていたことが確認できます。秀吉は右近を政権に復帰させようとしたものの、右近が棄教を拒んだため断念し、前田家の管理下で相応の待遇を与えた、という指摘があります。

茶人としての右近と、マニラでの最期・列福をめぐる論点

利休七哲の一人?茶人・右近

右近は千利休の高弟として、「利休七哲」の一人に数えられます。茶号は南坊で、署名には等伯を用いました。天正5年(1577年)の『津田宗及茶湯日記』にも、右近の名が見えます。

ただし、七哲という括りは後世に選ばれたものです。右近が利休にどのように師事したかという実態は、はっきり分かっていません。「利休七哲の筆頭格」のような話を目にしたときは、この点に注意が必要です。

1614年の国外追放とマニラでの死

慶長19年(1614年)、徳川家康のキリシタン国外追放令により、右近は加賀を退去しました。内藤如安らとともにマニラへ送られ、同年12月に到着します。到着からわずか40日後の慶長20年1月6日(1615年2月3日)に亡くなりました。享年63とされます。

日本の旧暦と西暦では日付が1か月近くずれるため、命日は「1月6日」と「2月3日」の二つの書き方が見られます。同じ日を、暦の違いで表しているものです。

2017年の列福と、その後

2017年2月7日、右近は大阪府大阪市の大阪城ホールで福者に列せられました。教皇フランシスコによる認可は、2016年1月22日です。記念日は、命日にあたる2月3日と定められています。

遺骨は1634年にマニラのサン・ホセのコレジオ聖堂へ移されましたが、1767年以降は行方が分からなくなりました。一部は、石川県志賀町の高山右近記念公園にあるとされています。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 大阪府豊能町高山:高山氏の出身地とされる高山庄
  • 大阪府高槻市:右近が城主を務めた高槻城のある地。1962年建設の高山右近記念聖堂がある。高槻市とマニラ市は1979年に姉妹都市となった
  • 兵庫県明石市:右近が移った明石。居城は船上城
  • 石川県金沢市:前田利家に預けられた地
  • 石川県七尾市の本行寺:右近の像と修道場跡があり、右近が身を寄せたと伝わる
  • 石川県志賀町:高山右近記念公園。遺骨の一部があるとされる
  • フィリピン・マニラ:最期の地。パコ駅前のプラザデラオ比日友好公園(1977年開園)に、右近の像と碑がある

関連する人物

  • 荒木村重:右近が仕えた主君で、1578年に信長へ謀反を起こした
  • 織田信長:村重の謀反の際、右近を受け入れて高槻城主の地位を安堵した
  • 豊臣秀吉:山崎の戦いで右近を加増し、のちにバテレン追放令を出した
  • 千利休:右近が茶の湯の高弟として名を連ねた人物
  • 小西行長:追放後の右近を庇護したキリシタン大名
  • 前田利家:金沢で右近を預かった加賀の大名
  • 徳川家康:1614年のキリシタン国外追放令を出した

よくある質問

高山右近は何をした人ですか?

高槻城主・明石の領主として信長と秀吉に仕えた戦国武将で、キリシタン大名の代表格です。バテレン追放令で棄教を拒み、大名の地位を失いました。千利休の高弟として、利休七哲の一人にも数えられます。

高山右近の命日は2月3日ですか、1月6日ですか?

どちらも同じ日を指します。旧暦では慶長20年1月6日、西暦では1615年2月3日です。カトリック教会の記念日は2月3日とされています。

なぜ「福者」になったのですか?

信仰を貫いて地位を失い、国外追放の末にマニラで亡くなったことが評価され、2017年2月7日に大阪城ホールで列福されました。

高山右近の洗礼名「ジュスト」の意味は?

ジュスト(Justo)は「義人」を意味します。ラテン語読みで「ユスト」とも呼ばれます。

高山右近の墓はどこにありますか?

遺骨は1634年にマニラのコレジオ聖堂へ移されたあと、1767年以降は行方不明です。一部は石川県志賀町の高山右近記念公園にあるとされています。