結論:福沢諭吉の名言は『学問のすゝめ』が出どころで、学びと独立が軸になっている
福沢諭吉の名言として知られる言葉の多くは、1872年(明治5年)に初編が出た『学問のすゝめ』に由来します。中心にあるのは、学問に励むかどうかで人の境遇は分かれるという考えと、一人ひとりが独立してこそ国も独立できるという考えです。
ただし、よく引かれる言葉がすべて福沢の文とは限りません。有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は、冒頭では「といへり」と書かれた一文で、アメリカ独立宣言を翻案したものとするのが最も有力な説とされます。さらに、この一文のすぐ後に、人の境遇の差を問う文が続きます。
この記事では、出どころを確かめられた言葉を中心に、意味と背景を整理します。
基本情報
- 生没年:1835年1月10日(天保5年12月12日)〜1901年2月3日(明治34年)。享年は資料により66歳または67歳
- 時代:江戸時代末期〜明治時代
- 立場・身分:中津藩の下級武士の子として生まれ、啓蒙思想家・洋学者・教育家となった
- 出身地:大坂・堂島の中津藩蔵屋敷(現在の大阪市福島区)
- 主な業績:慶應義塾の創設、新聞『時事新報』の創刊(1882年)
- 代表作:『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』
福沢諭吉の名言と『学問のすゝめ』:学びと独立の言葉
「天は人の上に人を造らず」の続きに何と書いてあるか
『学問のすゝめ』初編の冒頭は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」です。儒教的な身分秩序を否定し、人間の平等を述べた言葉として知られます。
ところが、文はここで終わりません。続く部分は「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」です。人は生まれながらに貴賤の別がないのに、現実には大きな差がある。その差はどこから来るのか、という問いかけになっています。
答えは、学問に励むかどうかで、貴人・富人にも貧人・下人にもなるというものです。初編の内容を現代語にした形では「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ」と紹介されます。冒頭の一文だけを切り取ると平等の宣言に見えますが、初編全体の主題は、平等を前提にした学問のすすめです。
この一文は福沢の独創ではない、という点も押さえておきたいところです。アメリカ独立宣言の一節を意訳したものというのが有力な説で、福沢自身の言葉と思われがちなことが誤解のもとになっています。なお、初編は小幡篤次郎との共著です。
「一身独立して一国独立す」:三編の見出しにある言葉
『学問のすゝめ』三編の見出しは「一身独立して一国独立すること」です。個人の独立と国家の独立を結びつける考えで、1882年に創刊した『時事新報』でも、創刊趣旨に一身一家の独立を一国の独立へ広げる精神を掲げています。
この考えは、福沢の仕事の全体を貫く軸でした。著作だけでなく、新聞という発信の場でも同じ主張を続けたことになります。
「怨望」:十三編の見出し
十三編には「怨望の人間に害あるを論ず」という見出しがあります。不道徳の中で最大のものは怨恨だとし、その原因は自由な言論や行動を禁じられた鬱屈だと論じる編です。政府も民間も、個人の言論・行動の自由を妨げてはならないと述べています。
引用するときは、見出しの言葉と要約の言葉を区別しておくと安全です。
十七編の「交友」の勧め
最終の十七編は「人望論」で、世間的な評価の必要性を説き、そのための研鑽や努力を求めています。交友の範囲を広げることも勧めています。「人に交わるには信をもってすべし」という言い回しは、今回確かめられた資料には記載がありませんでした。十七編の趣旨としては、人望論と交友を広げる勧めまでを確かな内容とします。
名言が生まれた背景:『学問のすゝめ』はどう読まれたのか
十七編にわたる連載のような刊行
初編は1872年(明治5年)2月に出ました。続く二編は1873年11月、三編は同年12月、四編と五編は1874年1月と、間隔をあけながら出され、十七編は1876年(明治9年)11月25日に出版されて一応の完成をみました。1880年には「合本學問之勸序」を前書きに加えて合本されています。
各編の形式にも特徴があります。五編は慶應義塾の新年会の挨拶を文章にしたもので、九編と十編は中津の旧友に宛てた文章の形をとっています。堅い論文というより、語りかける文章として書かれた編が多いのです。
三百万部を超えたとされる売れ行き
売れ行きは、最終的に300万部以上とされます。当時の人口約3000万人に対して、約10人に1人が買った計算になる、と紹介されています。福沢自身も全集の緒言で「十七編合して三百四十萬册は國中に流布したる筈なり」と書いています。
名言が今に残るのは、短い文で核心を言い切る書き方に加え、これだけ広く読まれた下地があったからでしょう。
「門閥制度は親のかたき」:自伝に由来する言葉
もう一つ、福沢の言葉として有名なのが「門閥制度は親のかたき」です。これは『学問のすゝめ』ではなく、晩年の口述自伝『福翁自伝』に由来します。『福翁自伝』は、福沢が口述し、時事新報記者の矢野由次郎が速記したものです。1898年7月1日から1899年2月16日まで『時事新報』に全67回連載され、1899年6月15日に単行本になりました。
福沢は中津藩の下級武士の子で、父の福澤百助は儒学者でもありました。身分で将来が決まる世の中への反発が、学問による自立を説く姿勢の土台にあったと考えられます。ここは資料が直接述べていない部分なので、私の推測として読んでください。
「独立自尊」はいつ、どこで広まった言葉か
戒名と「世紀送迎会」の書
福沢の代表的な言葉とされる「独立自尊」は、戒名の「大観院独立自尊居士」に用いられています。1900年の「世紀送迎会」では、「独立自尊迎新世紀」と書いた書が披露されました。
『修身要領』は福沢本人が編んだものではない
「独立自尊」を基本理念とするのが『修身要領』です。29か条の教訓で、1898年に福沢が脳出血で倒れた後、弟子や長男らに編纂が命じられました。1900年(明治33年)2月25日号の『時事新報』で発表され、1901年7月25日に単行本として刊行されています。
福沢の名で知られていますが、編者は慶應義塾で、福沢自身が編んだものではありません。福沢は書名を付け、全文を揮毫しました。「独立自尊は福沢の言葉」という理解は大筋で正しいものの、教訓集としての形は弟子たちの手によるものです。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 福澤諭吉旧居(大分県中津市留守居町):1971年6月22日に国の史跡に指定。現存する家は、福沢が16歳のときに購入して移り住んだもので、福沢自身が改造して二階を勉強部屋にした土蔵も残る。隣の福澤記念館では『学問のすすめ』の原本や遺品を展示している
- 墓所(東京都港区の麻布山善福寺):最初の埋葬地は品川区の常光寺で、善福寺には改葬後の墓がある。命日の2月3日は「雪池忌」と呼ばれる
- 生誕地(大阪市福島区):中津藩の蔵屋敷があった堂島の地。父の死去により、1836年に大坂から中津へ帰った
関連する人物
- 緒方洪庵:福沢が学んだ適塾の主。福沢は1855年ごろから適塾で学んだ
- 小幡篤次郎:『学問のすゝめ』初編の共著者
- 北里柴三郎:1892年(明治25年)、福沢の支援で伝染病研究所が設立され、北里が所長に迎えられた
- 勝海舟:旧幕臣でありながら新政府で要職に就いた姿勢を、福沢は『瘠我慢の説』で批判した
1984年11月1日に発行された日本銀行券一万円紙幣の肖像にも採用されました。2024年7月3日発行の新紙幣からは渋沢栄一に替わっています。
よくある質問
「天は人の上に人を造らず」は福沢諭吉の言葉ですか。
『学問のすゝめ』冒頭に出てくる言葉ですが、原文は「といへり」と、人が言うこととして書かれています。アメリカ独立宣言の一節を翻案したものとするのが最も有力な説です。
この言葉は、人間の平等だけを説いているのですか。
いいえ。続く文では、貴賤の別なく生まれても現実には大きな差があるのはなぜかと問い、学問に励むかどうかで境遇が分かれると説いています。
『学問のすゝめ』はどれくらい売れましたか。
300万部以上売れたとされ、当時の人口約3000万人の約10人に1人が買った計算になります。福沢自身は全集の緒言で、十七編合わせて340万冊が流布したはずだと書いています。
「独立自尊」はどの本の言葉ですか。
『修身要領』の基本理念です。1900年に『時事新報』で発表され、1901年に単行本になりました。編者は慶應義塾で、福沢は書名を付けて全文を揮毫しました。
ネットで見かける名言は、すべて福沢の言葉ですか。
そうとは限りません。見出しや趣旨の要約が、名言として言い切りの形で流れていることがあります。引用するときは、どの編の見出しか、どの著作かを確かめておくのが確実です。



