結論:津田梅子の「大学」は、学んだブリンマー大学と、自ら創った津田塾大学の二つ
津田梅子が学んだ大学は、アメリカ・ペンシルベニア州のブリンマー大学です。1889年に入学して生物学を専攻し、のちに「欧米の学術誌に論文が載った最初の日本人女性」とされる成果を残しました。
一方、梅子が創った大学は、1900年に東京・麹町で開いた「女子英学塾」を前身とする津田塾大学です。開校式で語った「完き婦人即ちall-round women となるよう心掛けねばなりません」という言葉が、その理念を表しています。
名言として残る確かな文章は、1917年の日記にある「新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。」です。出どころの不確かな「名言集」の言葉は使わず、この記事では資料で確かめられた言葉だけを紹介します。
基本情報
- 生没年:元治元年12月3日(1864年12月31日)〜昭和4年(1929年)8月16日。満64歳で、脳出血のため神奈川県鎌倉で亡くなった
- 出身:江戸・牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)。父は津田仙、母は初子で、その次女
- 時代:明治時代から昭和初期
- 立場・身分:教育者。岩倉使節団に同行した開拓使の女子留学生の一人
- 主な業績:女子英学塾(現・津田塾大学)の創設、日本婦人米国奨学金の創設への関与
- 墓所:東京都小平市の津田塾大学構内
- 肖像:2024年7月に発行された新五千円札の肖像に採用された
津田梅子が学んだ大学:岩倉使節団からブリンマー大学まで
6歳で渡米した最年少の留学生
梅子は1871年12月23日、満6歳で横浜を出港しました。北海道開拓使が官費で派遣した女子留学生5人のうち最年少でした。ワシントン近郊のジョージタウンでランマン夫妻に預けられ、夫妻を「第二の両親」と慕って育ちます。1873年には、フィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けました。
留学は約11年に及び、1882年11月21日に帰国します。帰国時には日本語をほとんど忘れていたとされます。しかも開拓使は同年2月に廃止されていて、梅子のために用意された官職はありませんでした。
帰国後の足踏みと、教師としての出発
帰国直後の梅子は、縁談を断り、短期間の英語教師を経て、1883年末ごろから伊藤博文の邸で家庭教師兼通訳を務めました。1885年には伊藤の推薦で華族女学校の英語教師となり、教授補として採用され、1886年11月には教授になっています。年俸は500円でした。
安定した職に就いても、梅子は自分の学校をつくる夢を持ち続けたと、津田塾大学の公式サイトは伝えています。そのために、さらに学ぶ道を選びました。
ブリンマー大学で生物学を専攻
1889年7月に再び渡米し、ブリンマー大学に入学します。専攻は生物学で、指導教官は、トーマス・ハント・モーガンです。梅子はモーガンとともに、カエルの卵の発生を調べ、梅子の担当分の実験は1891年から92年の冬に行われました。
この共同研究の論文は1894年にイギリスの学術雑誌に掲載されました。日本語版Wikipediaは、欧米の学術誌に論文が載った最初の日本人女性とし、英語版は「日本人女性が英語で書いた最初の科学論文」と紹介しています。古典学者のエディス・ハミルトンと親しくなったことも、英語版に書かれています。
津田塾大学の公式サイトは、このブリンマーでの少人数の質の高い教育が、のちの教育観に影響したと説明しています。
留学を支えた奨学金の仕組み
梅子は1891年に、日本の女性がアメリカに留学するための奨学金づくりにも動きました。モリス夫人が募金委員長となり、1892年に「日本婦人米国奨学金」が発足します。基金は8千ドルで、1976年に解消されるまでに計25人の日本女性の留学を実現させました。受給者には、松田道、河井道、鈴木歌子、星野あい、藤田たきがいます。
津田梅子の大学と名言:女子英学塾から津田塾大学へ
官職を辞して開いた女子英学塾
1892年に帰国した梅子は、再び華族女学校に勤め、1898年には女子高等師範学校の教授も兼ねました。同じ年、アメリカのデンバーで開かれた万国婦人連合大会に、日本婦人代表として私費で渡米して出席し、演説をしています。1899年の暮れには高等官5等、年俸800円になりました。
それでも1900年7月に官職を辞し、9月14日、東京府麹町区一番町の借家で女子英学塾を開校します。開校時の学生は10名でした。英語版Wikipediaによれば、設立にはアリス・ベーコンと大山捨松も協力しています。アメリカでは、モリス夫人を委員長とするフィラデルフィア委員会が1900年に組織されました。
開校式で語った「all-round women」
公式サイトによると、梅子は開校式で、真の教育には設備以上に大切なものがあると述べ、それは教師の資格と熱心さ、そして学生の研究心だとしました。引かれている言葉は次の二つです。
- 「真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。」
- 「完き婦人即ちall-round women となるよう心掛けねばなりません。」
人によって特質が違うのだから、教育も一人ひとりに合わせるべきだという考えから、個性を重んじる少人数教育が理念として受け継がれている、というのが公式サイトの説明です。英語の技術だけでなく、豊かな教養と視野の広さも重んじられました。
厳しい授業と自学自習
授業は厳しく、自学自習が基本でした。学生は完璧な予習を求められ、発音は正しくできるまで繰り返させられました。教え子の回想には、発音の指導中に梅子が “No, no! Once more! Once more!” と言ったという話が出てきます。少しの曖昧さも許さない一方で、質問には納得がいくまで答えたと伝えられています。
人柄については、私利私欲がほとんどなかった一方、頑固で正義感が強く、気短で癇癪も強かったと評されています。山川菊栄は、教えることが梅子の最大の喜びだったと回想しています。
認可から大学へ、塾の歩み
- 1904年:専門学校(旧制)として認可され、社団法人に移行
- 1905年:私立の女子教育機関として初めて、無試験検定による英語教員免許状の授与権を得た
- 1923年:関東大震災で五番町の校舎が全焼。のちにアナ・ハーツホンらの募金で再建
- 1931年:小平に移転
- 1933年:梅子を記念して「津田英学塾」に改称
- 1943年:津田塾専門学校に改称
- 1948年:大学として設置され、津田塾大学となる
梅子は1905年に日本YWCAの会長にもなっています。晩年は1917年ごろから体調を崩して入退院を繰り返し、1919年1月に塾長を辞する意向を示しました。2月に辻マツが塾長代理となり、梅子は同年10月ごろに完成した北品川御殿山の住居で、約10年を過ごしました。
津田梅子の名言をどう読むか:日記に残る言葉と「道義的責任」
「ひと粒の種子が砕け散らねばならない」
確かな名言としてよく引かれるのは、1917年6月13日の英文日記の一節です。古川安・川本静子らの和訳では「新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。」とされています。梅子が52歳ごろ、体調を崩し始めた時期の日記で、自分自身と塾について書いた言葉だと日本語版Wikipediaは紹介しています。
この一文は、聞こえのよい励ましの標語としてではなく、塾を育てるために自分が犠牲になってもよいという覚悟として書かれたものです。私は、日記という公開を前提としない場の言葉だからこそ、重みがあると考えます。
「道義的責任」という言葉
日本語版Wikipediaによると、1882年、ランマン夫人にアメリカへ戻るよう勧められた梅子は、官費留学生として日本に留まって恩返しする「道義的責任」があると返信し、断りました。この語の前後の文を含む原文は、確かめられた範囲では見られなかったため、ここでは語の紹介にとどめます。
ネットで広まる「名言」に注意
インターネットには、梅子の言葉として「自分に多くを期待しなさい」「嵐の中でも前を向いて歩きなさい」といった文が並んでいることがあります。しかし、日本語版・英語版Wikipediaと津田塾大学の公式サイトの範囲では、これらの出典は確かめられませんでした。英語版には、梅子の発言として引用されている文そのものがありません。この記事では、出典が分かる開校式の言葉と日記の一節だけを名言として扱います。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 津田塾大学(東京都小平市津田町):梅子の墓所が構内にある。千駄ヶ谷(渋谷区)にもキャンパスがある
- 東京都千代田区の麹町・一番町:1900年に女子英学塾を開いた場所
- 東京都新宿区南町:梅子が生まれた牛込南御徒町にあたる
関連する人物
- 津田仙:梅子の父
- ランマン夫妻:ワシントン近郊で梅子を預かり、「第二の両親」と慕われた
- 伊藤博文:梅子を家庭教師として迎え、華族女学校の職を推薦した
- トーマス・ハント・モーガン:ブリンマー大学で梅子を指導した
- アリス・ベーコン、大山捨松:女子英学塾の設立に協力した
- アナ・ハーツホン:関東大震災後の再建のための募金に関わった
よくある質問
津田梅子はどこの大学を出ましたか
アメリカのブリンマー大学で、1889年から約3年、生物学を学びました。学位の取得についてまでは、確かめられた資料では確認していません。
津田塾大学はいつ始まりましたか
1900年9月14日に、梅子が女子英学塾を開校したことに始まります。津田英学塾などを経て、1948年に大学として設置され、津田塾大学となりました。
津田梅子の研究は何でしたか
カエルの卵の発生に関する研究で、ブリンマー大学のトーマス・ハント・モーガンの指導を受けました。共同の論文は1894年にイギリスの学術雑誌に掲載されました。
津田梅子の有名な言葉は何ですか
1917年の日記にある「新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。」(和訳)と、開校式での「完き婦人即ちall-round women となるよう心掛けねばなりません。」が、資料で確かめられる言葉です。
津田梅子の墓はどこにありますか
東京都小平市の津田塾大学の構内にあります。





