柴田勝家

「鬼柴田」という、一度聞いたら忘れられない強烈なニックネームを持つ戦国武将、柴田勝家。その名前を聞くと、多くの人が髭をたくわえ、戦場で敵をなぎ倒す、力強い武将の姿を思い浮かべるだろう。確かに彼は、織田信長の家臣として数々の戦で先陣を切り、その勇猛さで敵を震え上がらせた。

しかし、彼の魅力はそれだけではない。実は、戦だけでなく政治にも優れた才能を発揮し、領地を豊かにした知将としての一面も持っていた。一方で、主君・信長の死後、急速に台頭する豊臣秀吉との権力争いに敗れ、愛する妻・お市の方と共に悲劇的な最期を遂げた人物でもある。

単なる「猛将」という言葉だけでは語り尽くせない、柴田勝家の複雑で人間味あふれる生涯を、様々な角度から紐解いていこう。

「鬼柴田」誕生秘話!柴田勝家が見せつけた圧倒的な武勇

若き日の勝家と信長との出会い

柴田勝家の詳しい出自は謎に包まれているが、尾張国(現在の愛知県)に生まれたとされる。若い頃から織田家に仕え、最初は信長の父・信秀、そして信長の弟である織田信行(信勝)の筆頭家老となった。当時、「うつけ者」と呼ばれていた兄の信長に対し、品行方正な弟の信行を当主として支持する家臣は少なくなく、勝家もその一人だった。1556年、勝家は信行側について信長と戦うが、「稲生の戦い」で敗北。本来なら許されない立場だったが、二人の母である土田御前のとりなしで命を救われた。この敗戦を機に、勝家は信長の圧倒的な器の大きさを知り、生涯の忠誠を誓うことになったのである。

「かかれ柴田!」戦場で轟く異名の由来

信長の家臣となってからの勝家は、その武勇を戦場でいかんなく発揮した。常に軍の先頭に立ち、「かかれ!」と叫びながら敵陣に猛然と突撃していくその姿から、いつしか「かかれ柴田」と呼ばれるようになった。その凄まじい戦いぶりは敵兵を恐怖のどん底に陥れ、「鬼柴田」というもう一つの異名も生まれることになる。現在残されている肖像画でも、豊かな髭をたくわえた厳つい顔つきで描かれており、「鬼」のイメージをより一層強くしている。

敵兵30人の首を取った?萱津の戦いでの武勇伝

勝家の人間離れした強さを物語る記録は数多く残っている。特に有名なのが、まだ信長と敵対していた1552年の「萱津の戦い」でのことだ。この戦いで、勝家はたった一人で敵兵30人の首を取ったと伝えられている。これは単なる伝説ではなく、彼の並外れた戦闘能力を具体的に示すものだ。勝家の圧倒的な武勇は、彼個人の強さの証明であると同時に、織田軍全体の士気を高め、敵の心をくじくための重要な武器でもあった。

絶体絶命からの大逆転劇!「瓶割り柴田」の逸話

勝家の名をさらに高めたのが、「瓶割り柴田」として知られる有名な逸話だ。1570年、勝家は近江国(現在の滋賀県)の長光寺城で、六角氏の大軍に包囲された。兵の数で圧倒的に不利な上、城の用水路を断たれ、水不足という絶体絶命の状況に陥る。このままでは負けると判断した勝家は、残っていた貴重な水を兵士たちに飲ませた後、水を貯めていた大きな瓶を自らの手で叩き割った。そして、「もはや城に蓄えはない。打って出るか、ここで死ぬかだ」と宣言し、兵士たちの退路を断った。覚悟を決めた兵士たちは死に物狂いで戦い、見事勝利を収めたのである。これは、彼の勇猛さだけでなく、極限状況で兵士の心理を巧みに操る、優れた指揮官としての能力の高さを示すエピソードだ。

海外にも届いた武名!宣教師フロイスの評価

柴田勝家の武名は、日本国内にとどまらなかった。当時、日本でキリスト教の布教活動を行っていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その著書の中で勝家を「信長の時代において最も勇猛で果敢な武将」と記録している。外国人の目から見ても、勝家の存在は際立って見えたのだ。これは、勝家が単なる一武将ではなく、織田軍の「顔」として、その武威を国内外に知らしめる重要な役割を担っていたことの証左と言えるだろう。

戦だけではない!柴田勝家が発揮した意外な才能と悲劇の結末

領国経営で見せた政治家としての一面

「鬼柴田」という勇ましいイメージが先行しがちな勝家だが、実は優れた政治家としての一面も持っていた。1575年、長年にわたって一向一揆が支配していた越前国(現在の福井県)を平定すると、信長からその地を与えられ、北陸方面軍の総司令官に任命された。勝家は巨大な北ノ庄城を築いて城下町を整備し、検地を行って税制を整えたり、「北庄法度」という独自の法律を定めたりするなど、優れた手腕で荒れた土地を安定した豊かな領国へと変貌させた。約100年もの間「百姓の持ちたる国」と言われた一揆の拠点を統治したその能力は、非常に高く評価されている。

秀吉より早かった?先進的な「刀狩り」

勝家の政治家としての先進性を示すのが、彼が実施した「刀狩り」である。これは、農民や寺社などが持つ武器を取り上げることで、一揆が再び起こるのを防ぐための政策だった。後に豊臣秀吉が全国規模で行うことで有名になるこの刀狩りを、勝家はそれよりも早く実行していたのだ。武力で地域を制圧するだけでなく、その後の平和で安定した統治までを見据えていたことがわかる、画期的な政策だった。

信長の妹・お市の方との結婚、その裏にあった思惑

1582年に本能寺の変で信長が亡くなると、勝家は信長の妹であり、絶世の美女として知られたお市の方と結婚する。この結婚は、単なる恋愛感情からだけではなく、極めて政治的な意味合いが強かった。信長の妹を妻に迎えることで、自らが織田家の一族となり、信長亡き後の後継者争いで優位に立とうとする狙いがあったのだ。一方、お市の方にとっても、最初の夫・浅井長政を滅ぼした豊臣秀吉に対抗するための、戦略的な選択だったのかもしれない。しかし、この結婚は結果的に、秀吉との対立を決定的なものにしてしまう。

秀吉との対立激化!運命の賤ヶ岳の戦いへ

信長の後継者を決めるために開かれた清洲会議で、勝家と秀吉の対立は決定的となった。勝家は信長の三男・信孝を後継者として推したが、秀吉は信長の孫である三法師を巧みに擁立し、会議の主導権を握ることに成功する。筆頭家老という自らの立場に自信を持ち、他の武将への事前の根回しを怠ったことが、勝家が政治的に後れを取る原因となった。やがて両者の対立は武力衝突へと発展するが、勝家の本拠地・越前は冬になると深い雪に閉ざされ、軍を動かせなくなるという地理的な弱点があった。秀吉はその隙を見逃さず、勝家が動けない間に味方を増やし、戦いを有利に進めていった。

親友の裏切り?前田利家の戦線離脱の真相

1583年、ついに両軍が激突した「賤ヶ岳の戦い」。この戦いの勝敗を決定づけたのは、勝家軍の有力武将であった前田利家の、突然の戦線離脱だった。利家の部隊が戦わずに撤退したことで、柴田軍の側面はがら空きになり、一気に総崩れとなってしまったのだ。利家はもともと秀吉と親しい友人だったが、これを単なる「裏切り」と片付けるのは難しい。一族の未来を考えた時、勢いに乗る秀吉につくことが最も合理的だと判断した、戦国武将としての冷静な決断だったとも言える。敗走の途中、勝家は裏切ったはずの利家の城に立ち寄り、これまでの働きをねぎらったという逸話も残っており、勝家の寛容な人柄がうかがえる。

愛する人と共に…北ノ庄城での壮絶な最期

賤ヶ岳で大敗した勝家は、居城である北ノ庄城へと逃げ帰るが、すぐに秀吉の大軍に包囲されてしまう。もはやこれまでと最期を悟った勝家は、妻のお市の方に、3人の娘たちを連れて城から落ち延びるよう勧めた。しかし、お市の方は「夫と共に死ぬ」ことを選び、城に残ることを決意する。1583年4月24日、勝家は燃え盛る九層の天守閣で、お市の方や一族を自らの手で刺し殺した後、見事な十文字腹を切って自害したと伝えられる。その際、城を囲む敵兵に向かって「武士ならば、この勝家の腹の切り様をよく見て後学にせよ」と叫んだという。主君の後を追い、80人以上の家臣もまた、その場で殉死した。

  • 柴田勝家は「鬼柴田」「かかれ柴田」の異名を持つ織田信長の猛将だった。
  • 当初は信長の弟に仕え敵対したが、敗北後に信長の家臣となり忠誠を誓った。
  • 「瓶割り柴田」の逸話では、絶体絶命の状況を機転と覚悟で乗り切る指揮能力を示した。
  • その武勇は宣教師フロイスによって海外にも伝えられるほどだった。
  • 戦だけでなく、領地経営や「刀狩り」など、優れた政治手腕も発揮した知将でもあった。
  • 本能寺の変後、信長の妹・お市の方と政治的な思惑から結婚した。
  • 清洲会議で豊臣秀吉と対立し、織田家内の権力争いに敗れていく。
  • 賤ヶ岳の戦いでは、味方だった前田利家の戦線離脱が決定的な敗因となった。
  • 敗戦後、居城の北ノ庄城で秀吉軍に包囲され、最期を覚悟した。
  • 妻のお市の方と共に、燃え盛る天守閣で壮絶な自害を遂げ、その生涯を閉じた。