朝日姫

結論:朝日姫は「悲劇の妹」とされてきたが、悲劇の中身は史料で確かめにくい

朝日姫は豊臣秀吉の妹で、天正14年(1586年)に徳川家康の継室となり、天正18年1月14日(西暦1590年2月18日)に京都の聚楽第で亡くなりました。享年48歳です。

「秀吉が夫と無理やり離縁させ、家康に嫁がせた」という話がよく知られています。しかし、最初の夫の名前も、離縁の時期も、理由も、史料や研究者によって見方が分かれています。確かだと言えるのは、秀吉と家康の関係を結ぶ縁組の中心に彼女がいたこと、そして嫁いで4年足らずで亡くなったことです。

この記事では、通説と近年の説を分けて、朝日姫の生涯をたどります。

基本情報

  • 名前:朝日姫。「旭」「旭姫」とも書かれ、家康に嫁いでからは「駿河御前」「南明院」とも呼ばれた
  • 生年:天文12年(1543年)とされる。ただしこれは「天正18年に48歳で没した」という記録からの逆算によるもの
  • 没年:天正18年1月14日(1590年2月18日)、京都の聚楽第、享年48歳
  • 時代:安土桃山時代
  • 身分:豊臣秀吉の妹。徳川家康の継室
  • 母:大政所(なか)
  • 墓所:京都市東山区の東福寺塔頭・南明院、静岡市葵区の瑞龍寺(分骨)

朝日姫の歴代の夫と離縁をめぐる諸説

最初の夫は「佐治日向守」なのか

通説では、朝日姫は最初、尾張の農民に嫁ぎました。秀吉の出世にともなって夫も武士に取り立てられ、佐治日向守と名乗ったとされます。

ただ、これには異論があります。最初の夫は佐治日向守ではなく、織田家臣の副田甚兵衛吉成だったとする説があります。さらに福田千鶴は、佐治日向守という人物は、秀吉の養女・江と佐治一成の離縁話が混同されて生まれた架空の人物ではないか、と指摘しています。

天正14年以前の夫婦の暮らしについては、伝承どうしが矛盾していて、確かなことは分かっていません。「穏やかな生活だった」と語られがちな時期ですが、その中身を史料で裏づけることは難しいのが実情です。

通説の「強制離縁」と、近年の見方

通説は次のとおりです。天正14年、秀吉は政略結婚のために朝日姫を夫と離縁させ、夫には500石の捨扶持を与えました。

夫のその後については、自殺したという説と、剃髪して隠居したという説があります。どちらも確証はありません。『塩尻』には、秀吉が離縁の代償に5万石を示したものの、副田は出家して隠棲したという記述があります。これも事実かどうかは不明です。

一方、近年は、本能寺の変のころにはすでに離縁していて、家康との縁組のための強制離縁ではなかったとする見方があります。黒田基樹は、副田吉成が本能寺の変の直後に失態を犯したため離縁させられた、という『武家事紀』の記述を妥当としています。

つまり「引き裂かれた夫婦の涙の別れ」は、有名な場面である一方、確かめられる材料が乏しい話です。

父と兄弟関係にも説がある

朝日姫の出自にも諸説があります。『太閤素生記』をもとにした通説では、父は母の再婚相手の竹阿弥です。秀長は同じ父の兄、智(日秀尼)と秀吉は、母と前夫・木下弥右衛門の子(異父の姉と兄)とされます。竹阿弥と木下弥右衛門を同一人物とする説もあります。

これに対し、瑞龍寺の『瑞龍寺差出』には、朝日の父が天文12年正月に亡くなったと書かれています。これが正しければ、朝日は智・秀吉・秀長と同じ父母の兄弟になります。ただし父の俗名が書かれていないため、朝日と秀長が木下弥右衛門の子で、智と秀吉が竹阿弥の子だった可能性も否定できない、とされています。秀吉の「異父妹」なのか「同父妹」なのかも、説が分かれています。

家康との縁組と駿河御前の日々

縁組の背景

家康は天正7年(1579年)に正室の築山殿を失って以来、正室を置いていませんでした。秀吉は家康を妹婿とすることで、従属関係を強めようとしたとされます。

縁組の動きは、天正14年2月22日、秀吉が滝川雄利と土方雄久を三河吉田に派遣し、酒井忠次を通じて家康に持ちかけたところから始まります。家康は了承し、榊原康政が代理として上洛して結納を交わしました。

ただし、誰が言い出したのかも一つに決まっていません。縁組を求めたのは家康側だったとする柴裕之の見方や、豊臣政権内での立場を有利にするために家康が持ちかけたとする黒田基樹の見方があります。『家忠日記』にも別の伝承があり、これに従えば縁組は織田信雄の発案ということになります。

150名余りの花嫁行列

輿入れの経過は次のとおりです。

  • 4月、大坂城を出て聚楽第に入る
  • 5月、浅野長政、富田知信、津田四郎左衛門、滝川儀太夫らに従われ、150名余りの花嫁行列を組んで京を出発
  • 途中で織田長益と滝川雄利が加わり、11日に三河西野に到着
  • 14日に浜松に至り、家康の継室として徳川家に入った

このとき家康は45歳、朝日姫は44歳でした。嫁いだ後は駿河府中(駿府)に住み、「駿河御前」と呼ばれました。

『家忠日記』には、輿入れをめぐるやり取りも記されています。介添え役として上洛した天野康景を、秀吉が知らない人物だと不快に思い、交代するまで輿入れを延期させたというものです。家康は不満を抱いたものの、破談になれば信雄の面目が潰れるとして、忠勝を派遣したと記されています。ただしこれは、数ある伝承の一つとして読むべき記述です。

母・大政所の下向と家康の上洛

家康は婚儀の後も上洛しませんでした。そこで秀吉は、母の大政所を、駿河御前を訪ねる形で岡崎へ送り込み、事実上の人質としました。これを受けて家康はようやく上洛し、秀吉との和議が成立しました。

大政所の項目には、大政所は岡崎に約1か月滞在して大坂城へ戻ったとあります。

朝日姫の縁組は、その後の家康の上洛と臣従につながる一連の出来事の中にあります。この点は、どの見方でも変わりません。

晩年と最期、二つの墓所に残る朝日姫

上洛と病、聚楽第での死

天正16年(1588年)、朝日姫は大政所の病気見舞いを理由に上洛しました。大政所が快方に向かったため、9月9日に駿河へ帰りました。その後の上洛の時期は分かっていませんが、聚楽第に住んだとされています。

天正17年(1589年)11月に病に伏し、晩年は病気がちで、臨済宗に帰依していたとされます。天正18年1月14日、聚楽第で亡くなりました。

「心労が病を招いた」という説明もよく見ますが、病名も原因も、ここで挙げた資料には書かれていません。確かなのは、病気がちだったことと、聚楽第で48歳で亡くなったことまでです。

東福寺・南明院に葬られた

家康は小田原征伐への出征準備のさなかにあったため、喪を秘して東福寺に葬ったとされます。法名は南明院殿光室宗王大禅尼(南明院殿光室総旭大姉)です。『野史』では南明院光室総旭と記されています。

京都市東山区の東福寺塔頭・南明院は、家康が朝日姫の菩提を弔うために後に建立した寺です。徳川将軍家の臨済宗の菩提寺となり、朝日姫の肖像画も所蔵しています。

駿府・瑞龍寺の分骨墓

静岡市葵区井宮町の瑞龍寺(曹洞宗、山号は泰雲山、永禄3年〈1560年〉に能屋梵藝が開山)にも、朝日姫の墓があります。東福寺に葬られた遺骨が分骨されたもので、曹洞宗での法名は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼です。朝日姫は生前、この寺に何度も参詣したと伝えられています。

墓を建てたのが誰かも説が分かれ、秀吉とする説と家康とする説があります。秀吉が小田原合戦の帰途に立ち寄って妹を供養したという伝えもあります。また、朝日姫の廟所であることを理由に、秀吉が竹木の伐採を禁じた朱印状が伝わっています。

ゆかりの地と関連する人物

  • 南明院(京都市東山区、東福寺塔頭):朝日姫が葬られた寺。家康が菩提を弔うため後に建立した。肖像画を所蔵
  • 瑞龍寺(静岡市葵区井宮町):分骨された墓がある曹洞宗の寺。秀吉の朱印状が伝わる
  • 聚楽第(京都):輿入れ前に入り、晩年を過ごし、亡くなった場所
  • 駿府(駿河府中):嫁いだ後に住んだ地で、「駿河御前」の呼び名のもとになった
  • 豊臣秀吉:兄。縁組を進めた人物
  • 徳川家康:夫。継室として迎えた
  • 大政所:母。朝日姫を訪ねる形で岡崎へ下向した
  • 副田甚兵衛吉成:最初の夫とする説がある織田家臣

よくある質問

朝日姫はいつ、何歳で亡くなりましたか?

天正18年1月14日(西暦1590年2月18日)に、京都の聚楽第で亡くなりました。享年48歳です。

最初の夫は誰ですか?

通説では佐治日向守とされます。ただし、織田家臣の副田甚兵衛吉成だったとする説や、佐治日向守は架空の人物ではないかという指摘もあり、確定していません。

家康に嫁ぐために、無理やり離縁させられたのですか?

通説ではそう語られます。しかし近年は、本能寺の変のころにはすでに離縁していて、強制離縁ではなかったとする見方があります。どちらも確証が十分とは言えず、断定はできません。

朝日姫の墓はどこにありますか?

京都市東山区の東福寺塔頭・南明院と、静岡市葵区井宮町の瑞龍寺の二か所です。瑞龍寺の墓は、東福寺からの分骨を受けたものです。

朝日姫が家康に嫁いだことは、何をもたらしましたか?

家康は婚儀の後も上洛しませんでしたが、秀吉が母の大政所を岡崎へ送ったことで上洛し、秀吉との和議が成立しました。朝日姫の縁組は、この流れの出発点にあります。