結論:英語教師として来日し、日本の暮らしと伝承を英語で世界に紹介した作家
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1890年、40歳のときに来日し、島根・熊本で英語を教え、神戸、東京へと移りながら、日本について英語で書き続けた人物です。東京帝国大学では英文学を講じ、晩年の1904年には『怪談』を刊行しました。
「耳なし芳一」や「雪女」を収めたこの本が代表作として知られます。1896年には日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗り、1904年9月26日、東京の自宅で狭心症のため満54歳で亡くなりました。
基本情報
- 生没年:1850年6月27日(嘉永3年)〜1904年9月26日(明治37年)、満54歳
- 出生地:当時イギリスの保護領だったレフカダ島(現在のギリシャ)。出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン
- 時代:明治時代
- 立場:英語教師、大学講師、作家
- 来日:1890年(40歳)
- 主な著作:『知られぬ日本の面影』(1894年)、『心』(1896年)、『骨董』(1902年)、『怪談』(1904年)、『日本 一つの解明』(1904年)
- 死因:狭心症(東京府豊多摩郡大久保村西大久保の自宅)
- 墓所:雑司ヶ谷霊園
小泉八雲は何をした人?来日から松江・熊本・東京までの歩み
ギリシャに生まれ、アイルランドとアメリカで育つ
八雲は1850年、レフカダ島で生まれました。1852年に両親とともにダブリンへ移りますが、1854年に母が精神を病んでギリシャへ帰国し、両親はまもなく離婚します。以後、両親にはほとんど会わなかったとされます。
16歳ごろには左眼を失明しました。1867年には大叔母の破産を受けてダラム大学を退学しています。1869年に移民船でニューヨークへ渡り、シンシナティへ向かいました。その後、1877年にはニューオーリンズへ移り、1884年の万国博覧会で日本の展示に触れて関心を深めたと伝えられます。
1890年、松江で英語教師になる
1890年に来日した八雲は、横浜で英語教師の職を得ましたが契約を破棄し、同年8月30日に松江へ着きました。島根県尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師となり、旧松江藩士の家だった屋敷を借りて住みます。
この屋敷が現在の小泉八雲旧居で、松江市の資料によれば、松江藩の中級武士の屋敷の遺構にあたります。1940年に国の史跡に指定されました。旧居の隣には小泉八雲記念館があり、八雲の資料を保存・公開しています。
セツとの結婚と熊本への転任
1891年1月、小泉セツが住み込みの女中として雇われました。二人は惹かれ合い、結婚します。八雲は松江を気に入り、宍道湖がギリシャに似ていると語ったと伝わります。
ただし松江での暮らしは長くは続きませんでした。1891年11月、チェンバレンの紹介で熊本の第五高等中学校の英語教師になります。熊本では人間関係がうまくいかず孤独になり、松江で親しくなった西田千太郎への手紙に、家族がいなければ日本にはもう一日もいたくないと書いたとされます。熊本の旧宅は、保存会による解体修理を経て復原され、熊本市の指定文化財になっています。
神戸、そして東京帝国大学へ
1894年には神戸のジャパンクロニクル社に就職して神戸へ移り、1896年に東京帝国大学文科大学の英文学講師となりました。同年に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗ります。なお、2016年の研究では、イギリス国籍も保持していた二重国籍だった可能性が高いことが示唆されています。
「八雲」という名は、セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』の歌から取ったものとされます。来日当初は「ヘルン」と呼ばれましたが、これは島根県尋常中学校の辞令で「Hearn」が「ヘルン」と表記されたことから広まったものです。
怪談と著作で何をしたのか:妻セツの語りと「再話」
『怪談』(1904年)に収められた話
『怪談』は1904年に刊行された作品集で、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などが収められています。日本の民話や伝説、怪談を土台にした話を、英語の読み物として書き直したものです。
素材を集めたのはセツだった
八雲は日本語の読み書きに不自由があり、セツが日本の民話や伝説、怪談を語って聞かせました。セツは家族や使用人、近所の人々から話を集め、本屋を回って資料を探したと伝わります。八雲の怪談は、夫婦の共同作業から生まれたものだと言えます。
日本を紹介した主な著作
最初期の著作は、松江での見聞をもとにした『知られぬ日本の面影』(1894年)です。その後も『東の国より』(1895年)、『心』(1896年)、『仏陀の国の落穂』(1897年)、『骨董』(1902年)と、日本の暮らしや宗教、風習を扱う本を出し続けました。
最晩年の『日本 一つの解明』(1904年)は、日本の社会や文化を総合的に論じた著作です。怪談という物語と、日本論という考察の両方を書いた点に、八雲の仕事の幅があります。
東京帝国大学と早稲田大学での講義
八雲は学生から厚い人望を集めました。大学を去るとき、留任を求める運動が起きたと伝えられます。川田順は、八雲がいないなら文科では学ばないと、法科に転科したとされます。
学生に題を与えて感想文の懸賞を行い、受賞者に文学全集を贈ったという話もあります。田部隆次、浅野和三郎らが受賞したとされます。1903年に東京帝国大学を退職し、後任は夏目漱石でした。1904年3月には早稲田大学の講師も務めています。
最期と家族:絶筆の手紙と、残された四人の子
1904年9月26日、西大久保の自宅で
1902年に西大久保の家へ移った八雲は、1904年9月26日、その家で狭心症のため亡くなりました。死の数時間前には、藤崎八三郎に宛てた手紙と数冊の本を発送していて、この手紙が絶筆とされます。墓は雑司ヶ谷霊園にあります。没後の1915年には従四位を贈られました。
三男一女と稲垣家の相続
セツとの間には、長男・一雄(1893年生)、二男・巌(1897年生)、三男・清(1899年生)、長女・寿々子(1903年生)の三男一女が生まれました。1901年には、セツの養家である稲垣家を継がせるため、二男の巌がセツの義母トミの養子になっています。
「古い日本」を書いた外国人という見方
八雲の著作は、日本の外にいる読者に日本の暮らしや心を伝える役割を果たしました。同時に、急速に変わっていく明治の日本のなかで、土地に残る伝承や風習を書き留めたものでもあります。ただし、こうした評価は後世の見方であり、八雲自身が保存を目的に書いたと断言できるわけではありません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 小泉八雲旧居(島根県松江市):国の史跡。1940年指定。松江藩の中級武士の屋敷の遺構で、三方の庭を居間から眺められる造りです
- 小泉八雲記念館(松江市):旧居に隣接し、八雲の資料を保存・公開する施設です
- 小泉八雲熊本旧居(熊本市):復原され、熊本市の指定文化財です
- 焼津小泉八雲記念館(静岡県焼津市)
- 小泉八雲記念公園(東京都):「終焉の地」の石碑から徒歩1分ほどの場所にあります
- 富山大学附属図書館ヘルン文庫
- 雑司ヶ谷霊園(東京都):墓所です
関連する人物
- 小泉セツ:妻。怪談などの話を八雲に語り、素材集めを支えました
- チェンバレン:熊本の第五高等中学校への就職を紹介しました
- 西田千太郎:松江時代の親しい人物で、熊本時代の手紙の宛先です
- 夏目漱石:八雲が東京帝国大学を退職した後の後任です
- 田部隆次・浅野和三郎:八雲の学生で、感想文の懸賞の受賞者とされます
よくある質問
小泉八雲とは、どこの国の人ですか?
ギリシャのレフカダ島で生まれ、アイルランドやアメリカで育ちました。1896年に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗っています。
小泉八雲の代表作は何ですか?
1904年刊行の『怪談』が代表作として知られます。「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」などが収められています。最初期の『知られぬ日本の面影』(1894年)や、日本論の『日本 一つの解明』(1904年)も主な著作です。
小泉八雲はなぜ「八雲」と名乗ったのですか?
「八雲」は、妻セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』の歌から取った名とされます。
小泉八雲の死因は何ですか?
1904年9月26日、東京の西大久保の自宅で、狭心症のため亡くなりました。満54歳でした。
小泉八雲に会える史跡はどこですか?
松江市の小泉八雲旧居(国の史跡)と隣の小泉八雲記念館、熊本市の熊本旧居、東京都の小泉八雲記念公園、焼津市の焼津小泉八雲記念館などがあります。





