伊藤博文

結論:伊藤博文は安重根に撃たれて死亡。ただし「暗殺が併合を決めた」とは言い切れない

1909年(明治42年)10月26日、枢密院議長の伊藤博文は、満州のハルビン駅で朝鮮人の独立運動家・安重根に銃撃された。弾は3発が当たり、伊藤は約30分後の午前10時ごろに亡くなった。安重根はその場でロシア側に取り押さえられ、のちに日本の法廷で死刑判決を受けて、1910年3月26日に旅順監獄で処刑されている。

安重根が裁判で挙げた動機は、伊藤に対する15項目の理由と、「韓国の独立と東洋の平和」という目的だった。一方、事件が韓国併合を早めたかどうかは、研究者の間でも見方が分かれる。併合の方針は事件の前、同年7月に閣議で決まっていたからだ。以下、経過、動機、事件後の影響の順に、わかっている範囲を整理する。

基本情報

  • 被害者:伊藤博文(1841年10月16日〜1909年10月26日。周防国束荷村、現在の山口県光市の生まれ)
  • 立場:初代内閣総理大臣、初代韓国統監。事件当時は枢密院議長(1909年6月14日に就任)
  • 事件の日時と場所:1909年(明治42年)10月26日午前、清国領ハルビン駅(現在の中国黒竜江省)
  • 実行者:安重根(1879年9月2日生まれ、朝鮮の黄海道出身)
  • 被害:伊藤は弾3発を受けて死亡。随行者3人(川上俊彦、田中清次郎、森泰二郎)も負傷
  • 結末:安重根は1910年2月14日に死刑判決、同年3月26日に処刑
  • 伊藤の国葬:1909年11月4日、東京の日比谷公園

伊藤博文暗殺事件の経過:ハルビン駅の数分間

なぜ伊藤はハルビンにいたのか

伊藤は韓国統監を辞めたあと枢密院議長に就いていた。ハルビンには、ロシアの財務大臣ココツェフとの会談のために滞在していた。

安重根の側は、この訪問を新聞で知ったという。安重根は10月21日に同志の禹徳淳とウラジオストクを出発し、22日にハルビンへ着き、いったん別の場所へ出たのち25日にハルビンへ戻って、伊藤が来ることを新聞で確かめた。

銃撃と最期の言葉

銃撃は午前9時30分ごろ、約10歩の距離から行われたと記されている。伊藤は3発を受け、随行者3人も撃たれて負傷した。発射した弾数は、安重根自身の供述では7発、日本側の電報では6発と、資料によって食い違う。

伊藤は撃たれた直後、「三発貰った、誰だ」と言ったとされる。犯人が朝鮮人だと聞くと、「そうか。馬鹿な奴だ」と答えたと伝わる。ただし、これらは伝えられた言葉であり、意味づけは分かれる。その後、午前10時ごろに息を引き取った。

安重根は逃げも自殺もせず、ロシア語で「コレア・ウラー(韓国万歳)」と叫んで取り押さえられた。のちの法廷では、自殺や逃走をせず一刻でも長く生きて、日本の行為を世界に訴えるつもりだったと語ったとされる。

使われた拳銃

使われた拳銃は、ブローニング社製のピストルとされる。

安重根の動機:15項目の理由と「東洋平和」

安重根はどんな人物だったか

安重根は1879年、黄海道の両班(朝鮮の支配層)の家に生まれた。父は進士で、のちにカトリックに改宗している。安重根自身も17歳で洗礼を受け、洗礼名は「トマ」だった。1906年には私財で三興学校と敦義学校を設立している。つまり最初から武装闘争に走った人物ではなく、教育事業にも取り組んでいた。

義兵闘争から断指同盟へ

その後、安重根は国外で義兵の活動に加わる。1908年6月には咸鏡北道に入って日本軍と交戦したと、自伝に書かれている。しかし部隊は散り散りになり、残ったのは60〜70人ほどだったという。

1909年の正月には、同志とともに薬指を切って血判をし、大極旗に「大韓独立」と書いたと伝わる。人数は自伝の名簿では12人、日本の新聞は14人と報じており、日本政府の調査では別の経緯が記録されるなど、細部は一致しない。伊藤の暗殺が決まったのは、同年9月ごろとされる。

法廷で述べた15項目

1909年11月13日から旅順の関東都督府地方法院で予審が始まり、安重根は伊藤に対する15の理由を挙げた。そこには、1895年の閔妃殺害、武力による条約の締結、韓国皇帝の廃位を図ったこと、韓国軍の解散などが含まれていた。

公判では、目的は韓国の独立と東洋の平和だと述べている。獄中では『獄中記』を3月15日に書き上げ、『東洋平和論』にも取りかかったが、未完に終わった。

裁判と処刑

本公判は1910年2月7日に始まり、2月14日に判決が出た。安重根は死刑、禹徳淳は懲役3年、曹道先と劉東夏は懲役1年6か月だった。安重根は2月19日に上訴を取り下げ、刑が確定した。

処刑は3月26日午前9時、旅順監獄で行われた。伊藤の月命日にあたる日で、時刻も伊藤の死去時刻に合わせたとされる。遺体はその日の午後、旅順の共同墓地に葬られた。弟たちは遺体の引き取りを願い出たが、認められなかった。

事件の影響をめぐる諸説:併合は暗殺で決まったのか

伊藤は併合に反対だったのか

よく語られるのは、「併合に慎重だった伊藤が殺されたため、併合が一気に進んだ」という筋書きだ。たしかに伊藤は当初、併合ではなく、韓国の力がつくまで保護国とする立場だったと記されている。

ところが1909年4月には、桂太郎と小村寿太郎から意見を求められた伊藤が、併合は遅かれ早かれ避けられないことだと大筋で認めたとされる。伊藤の本心については研究者の見解が分かれ、一つの答えには定まっていない。

併合の方針は事件より前に決まっていた

1909年7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針」を閣議決定した。暗殺の約3か月前である。この点から、併合は7月の閣議でほぼ決まっていて、安重根の狙撃で左右されたわけではないとする見解(崔文衡の指摘)が紹介されている。

他方で、伊藤が国際協調を重んじる重鎮だったため、亡くなったあとは軍の発言力が増したという見方も示されている。つまり、「事件が併合の原因」とも「事件は無関係」とも断定できない。方針は事件前に固まり、事件はその進み方や空気に影響した、というあたりが資料から言える範囲だ。

併合条約までの流れ

統監は1910年5月から、武官の寺内正毅に替わった。同年8月22日、漢城で寺内統監と李完用首相が「韓国併合ニ関スル条約」に調印し、29日に公布されて大韓帝国は日本に併合された。事件から約10か月後のことである。

評価の分かれ方

安重根は韓国で、抗日闘争の「義士」として評価されている。1962年には建国勲章が追叙された。中国政府も2009年に「抗日義士」と公式に評価した。日本では、伊藤を殺害して死刑判決を受けた人物という扱いが基本になる。立場によって見え方が大きく違う事件であることは、事実として押さえておきたい。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 伊藤公記念公園(山口県光市):伊藤の生誕地にあたり、復元された生家、銅像、記念館や資料館がある
  • 伊藤家の墓所(東京都品川区西大井):伊藤家の墓がある
  • 日比谷公園(東京都):1909年11月4日に国葬が行われた場所
  • 旅順(中国):安重根が裁かれ、処刑された土地。遺骨は2008年と2010年に韓国側が発掘調査をしたが、見つかっていない

関連する人物

  • 桂太郎・小村寿太郎:1909年4月に伊藤へ併合への意見を求め、7月の閣議決定を進めた
  • 禹徳淳・曹道先・劉東夏:安重根の同志で、いずれも起訴された
  • ココツェフ:伊藤が会談しようとしたロシアの財務大臣
  • 寺内正毅:1910年5月から統監を務め、併合条約に調印した

よくある質問

伊藤博文は何歳で亡くなりましたか?

1841年10月16日生まれで、1909年10月26日に亡くなったので、満年齢で68歳です。

安重根は何歳で処刑されましたか?

1879年9月2日生まれで、1910年3月26日に処刑されたため、満30歳です。死刑執行の記録上は33歳とされ、年齢の記述は資料で一致しません。

伊藤博文は本当に併合に反対していたのですか?

当初は保護国にとどめる考えだったとされますが、1909年4月には併合を避けられないものと大筋で認めたという記録もあります。本心については研究者の間で見解が分かれています。

この事件が韓国併合の直接の原因ですか?

併合の方針は1909年7月の閣議で決まっており、事件より前です。事件が併合の進み方に影響したと見る意見もありますが、直接の原因と断定する資料はありません。

安重根の遺骨はどこにありますか?

旅順の共同墓地に葬られたとされますが、のちに所在がわからなくなり、2008年と2010年の発掘でも見つかっていません。日本にあるとする説などが報じられましたが、確認はされていません。