伊能忠敬

結論:伊能忠敬は、隠居後の50歳から天文学を学び、全国の海岸を歩いて測った人

伊能忠敬は江戸時代後期の人で、下総国佐原村(現在の千葉県香取市)の酒造業・伊能家を立て直した商人だった。49歳のとき家督を長男に譲って隠居し、翌年江戸へ出て幕府天文方の高橋至時に入門した。そして1800年から約17年にわたって蝦夷地を含む全国の海岸線を測量し、のちに『大日本沿海輿地全図』(通称・伊能図)としてまとめられる実測の日本地図の土台をつくった。

忠敬自身は地図の完成前の1818年に亡くなり、図は1821年に高橋景保らの作業で完成した。「伊能忠敬界隈」という言葉は、長距離を歩く人を指す現代のネット用語で、忠敬が日本中を歩いて測量したことにちなむ。

基本情報

  • 生没年:延享2年(1745年)〜文化15年4月13日(1818年5月17日)。没年齢は、Wikipedia の冒頭や年表では73歳、「地図作成作業と死」の節では74歳とあり、記述が分かれる
  • 時代:江戸時代後期
  • 出身:上総国小関村(現・千葉県九十九里町)の名主の家に生まれ、幼名は三治郎
  • 立場:下総国佐原村の酒造業・伊能家の婿養子となり、のち名主。隠居後に天文学者・測量家として活動した
  • 師:幕府天文方の高橋至時
  • 主な業績:全国測量と『大日本沿海輿地全図』(大図214枚・中図8枚・小図3枚)の基礎となる測量
  • 顕彰:2010年(平成22年)、「伊能忠敬関係資料」2,345点が国宝に指定された

伊能忠敬の生涯:商人として成功し、50歳で天文学の弟子になるまで

小関村に生まれ、佐原の伊能家へ婿養子に入る

忠敬は1745年、上総国小関村の名主の家に生まれた。1762年、17歳のときに下総国佐原村の酒造業・伊能家の婿養子となり、「忠敬」と名乗った。以後は伊能家の家業を担い、1781年には佐原村の名主になっている。

名主として知られる働きが、天明の大飢饉のときの対応だ。米の施しなどの貧民救済を行い、村から餓死者を出さなかったとされる。商人として得た財力が、地域の救済にも使われたことがわかる。

49歳で隠居し、19歳年下の高橋至時に入門

1794年(寛政6年)12月、忠敬は家督を長男の景敬に譲って隠居した。翌1795年、50歳で江戸へ出て、幕府天文方の高橋至時に入門する。このとき至時は31歳で、忠敬より19歳年下だった。年下の師に学ぶことになったわけだ。

学んだのは暦学、つまり天体の動きを観測し計算する学問である。忠敬には「推歩先生」というあだ名があった。推歩とは暦学のことだ。

なぜ地図づくりに向かったのか:子午線1度の長さ

きっかけは、子午線1度の長さを求めたいという学問上の関心にあった。この長さを正確に測れれば、地球の大きさがわかる。至時は、蝦夷地を測量して地図を作るとともに子午線1度の距離も求めるという案を示した。

忠敬は蝦夷地の図などを作って差し上げたいという申請書を幕府の側に出し、1800年(寛政12年)に測量へ出発した。蝦夷地の地図づくりと、子午線1度の距離を求めることの二つが、この測量の狙いだった。

全国測量の17年間:10次にわたる旅と費用・体制

第一次測量は私費に近い「測量試み」

第一次測量は1800年閏4月19日に出発し、奥州街道を北上して蝦夷地へ渡り、その海岸を測って江戸へ戻る、180日間の行程だった。この時の忠敬の身分は「元百姓・浪人」とされ、幕府からは「測量試み」として命じられている。

費用は幕府の手当が1日あたり銀7匁5分で、忠敬は100両を持参したが、戻ったときには1分しか残らなかったという。差し引き70両以上を自分で負担した計算になり、測量器具の代金も別に70両を支払っている。商人としての蓄えが、この事業を支えていた。

隊の顔ぶれも小さかった。内弟子3人(息子の秀蔵を含む)と下男2人に、千住から人足3人と馬2頭が加わった程度だった。

第二次〜第十次:幕府の事業へ

測量はその後も続いた。主な行程は次のとおりだ。

  • 第二次(1801年):三浦半島・伊豆半島・房総半島から東北の太平洋沿岸、津軽半島へ。230日間
  • 第三次(1802年):東北の日本海沿岸など。132日間
  • 第四次(1803年):東海道・北陸・佐渡など。219日間
  • 第五次(1805年):近畿・中国・山陰など。この回から幕府直轄の事業となった
  • 第六次(1808年):四国
  • 第七次(1809年):九州(第一次)
  • 第八次(1811年):九州内陸部・種子島・屋久島・壱岐・対馬・五島など
  • 第九次(1815年):伊豆諸島。忠敬は参加していない
  • 第十次(1815〜16年):江戸府内

1804年(文化元年)には、若年寄の堀田正敦から小普請組で10人扶持を与えるとの通知を受けた。1801年には名字帯刀も許されている。第一次のときの「元百姓・浪人」という身分から、立場は変わっていった。

第五次では隊員が16人で出発し、のちに2名が増員された。第一次の内弟子3人と下男2人から、隊は大きくなっている。

測量の道具と方法

距離は、第一次では歩測で測った。第二次以降は間縄を使い、車輪を転がして距離を測る量程車も試した。方角は方位盤で測り、星を観測して緯度を求める天体観測も行った。対馬では、朝鮮半島の山々の方角を測る交会法も用いている。

間宮林蔵との関わり

間宮林蔵との接点は蝦夷地の測量にある。忠敬は江戸で、林蔵に約1週間かけて測量技術を教えた。林蔵は1817年、蝦夷地の測量データを持って忠敬のもとに現れた。なお、第一次測量中に林蔵と会って弟子にしたという後年の忠敬の記述は、当時の測量日記には見当たらないとされる。

『大日本沿海輿地全図』(伊能図):3種の地図と驚きの精度、その後

大図・中図・小図の構成

伊能図は縮尺の違う3種類からなる。

  • 大図:縮尺3万6千分の1(1里が3寸6分)。全214枚で、最も詳しい。海岸線や河川のほか、国郡名、村落、寺社などを描く
  • 中図:縮尺21万6千分の1。全8枚で、経緯線が入る
  • 小図:縮尺43万2千分の1。全3枚で、日本列島を3枚に収める

1804年には、東日本を中心とする途中成果(大図69枚、中図3枚、小図1枚)が幕府に提出された。全体の完成は、忠敬の没後の1821年(文政4年)で、高橋景保の監督のもと幕府に提出された。

死の公表は完成の後だった

忠敬は1818年に亡くなった。1817年ごろから喘息が重くなって病床につき、文政元年(1818年)に体が急に衰えたという。4月13日、弟子たちに見守られて世を去った。死因は慢性気管支炎の悪化による急性肺炎とみられている。

地図が未完成だったため、死は伏せられた。文政4年(1821年)に図が完成した後、喪が公表された。墓所は、師の高橋至時父子と同じ上野の源空寺である。

精度:子午線1度は28.2里

忠敬は子午線1度の長さを28.2里(約110.74km)と算出した。現在の計測値との誤差は約0.2%とされ、非常に高い精度である。緯度は天体観測によりほぼ正確だった。一方で経度は、測定器具が未発達だったため精度がやや劣り、北海道や九州南部の辺縁部では実際より東にずれている。

原本の焼失と再発見

1828年(文政11年)、高橋景保が禁制品だった伊能図の関連資料をシーボルトに渡したことが発覚した。景保は逮捕され、翌年に獄死している(シーボルト事件)。シーボルトは帰国後の1840年、伊能図をもとにしたメルカトル図法の日本図を刊行し、ヨーロッパに日本の測量技術の高さが知られるきっかけとなった。

1873年(明治6年)、皇居の大火災で原本は焼失した。伊能家に残っていた控図(副本)が翌年に政府へ献納され、近代の地図づくりの基礎になった。

2001年には、米国議会図書館で大図207枚が見つかった(うち169枚は彩色なし)。陸軍の地図作成のときに模写された資料と考えられている。残りの7枚のうち、国立歴史民俗博物館で2枚、国立国会図書館で1枚が見つかり、残る4枚も2004年に海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しに含まれていて、これで大図214枚の全容がわかるようになった。

「伊能忠敬界隈」とは:長距離を歩く人を指す現代の言葉

意味と由来

「伊能忠敬界隈」は、長距離を歩くことを好む人や、仕事や趣味で長時間歩く人を指す言葉だ。名前の由来は、日本中を歩いて測量した伊能忠敬である。LINEヤフーの「ヤフー・データソリューション」が発表した、Yahoo!検索データによる「界隈」の分析のなかで取り上げられた。

実際の忠敬と比べると

忠敬は、日数にして第一次で180日、第二次で230日といった、長い旅を重ねている。ただし、この旅は忠敬ひとりのものではなく、内弟子や人足、馬を伴う測量隊の仕事だった。距離の測り方も、第一次の歩測から、第二次以降は間縄へと変わっている。

ゆかりの地と関連する人物

ゆかりの地

  • 伊能忠敬旧宅(香取市佐原):江戸時代の風情を残す佐原の町並みの一部として保存されている
  • 伊能忠敬記念館(香取市佐原):1998年(平成10年)5月22日に新しい館が開館した。国宝「伊能忠敬関係資料」は伊能家に伝来したもので、ここに保管されている
  • 伊能忠敬記念公園(千葉県九十九里町):生誕地の町で整備され、銅像がある
  • 富岡八幡宮(東京都江東区):2001年に境内に銅像が建てられた。近くの門前仲町には伊能忠敬宅跡の石碑がある
  • 源空寺(東京・上野):忠敬の墓所で、師の高橋至時父子と同じ寺にある

顕彰する記念碑や案内板は、2018年の没後200年記念誌の調査で、北海道別海町から鹿児島県南種子町まで190基以上あるとされる。測量の足跡が、それだけ広い範囲に及んでいたことを示している。

関連する人物

  • 高橋至時:幕府天文方。忠敬の師で、19歳年下。蝦夷地測量の案を示した
  • 高橋景保:至時の子。忠敬の没後に伊能図の完成を監督し、のちシーボルト事件で逮捕された
  • 間宮林蔵:蝦夷地の測量データを忠敬に届けた人物
  • シーボルト:伊能図をもとに日本図を刊行した

よくある質問

伊能忠敬はどんな人ですか?

佐原の酒造業・伊能家を立て直した商人で、49歳で隠居し、50歳で高橋至時に入門して天文学を学んだ人物です。1800年から約17年かけて全国を測量し、伊能図の基礎をつくりました。

伊能忠敬が地図を作った理由は?

きっかけは、子午線1度の長さを求めて地球の大きさを知りたいという関心でした。師の至時が、蝦夷地の地図づくりを兼ねて子午線1度の距離も求める案を示し、忠敬は1800年に蝦夷地へ向かいました。

伊能図の精度はどのくらいですか?

忠敬が出した子午線1度の長さは28.2里(約110.74km)で、現在の計測値との誤差は約0.2%とされます。緯度はほぼ正確ですが、経度は北海道や九州南部の辺縁部などでずれがあります。

伊能忠敬は完成した地図を見たのですか?

見ていません。忠敬は1818年に亡くなり、図が完成したのは1821年です。地図が未完成だったため、完成して提出された後に死が公表されました。

「伊能忠敬界隈」とは何ですか?

長距離を歩くことを好む人や、仕事や趣味で長時間歩く人を指す、現代のネットの言葉です。日本中を歩いて測量した伊能忠敬にちなんでいます。