二条良基

結論:北朝の関白として政権を支え、連歌を和歌と並ぶ文芸に押し上げた人物

二条良基(1320〜1388)は、南北朝時代に北朝へ仕えた公卿で、摂政・関白を務めた政治家です。同時に、連歌の大成者として知られています。

連歌師の救済とともに連歌集『菟玖波集』を撰び、これが准勅撰(勅撰集に準ずる扱い)と認められました。1372年には連歌の式目『応安新式』を定め、連歌のルールを整えています。

政治では、北朝の後光厳天皇を支え、晩年は足利義満に朝廷の作法を教える立場にもありました。政治と文芸の両方で南北朝期を代表する人物です。

基本情報

  • 生没年:元応2年(1320年)〜嘉慶2年/元中5年6月13日(1388年7月16日)、数え年69歳
  • 時代:南北朝時代(北朝)から室町時代初期
  • 立場:五摂家の一つ、二条家の5代当主。藤氏長者。摂政・関白、太政大臣
  • 父:関白・二条道平。母:西園寺婉子(右大臣・西園寺公顕の娘)
  • 諡号:後普光園院
  • 主な業績:『菟玖波集』の撰集(救済と)、『応安新式』の制定、『筑波問答』などの連歌論書

二条良基の政治家としての生涯と足利義満との関係

北朝の関白として歩んだ経歴

良基は1327年に元服し、侍従から権中納言へ進みました。ところが元弘の乱で父の道平が幽閉され、家の断絶を命じられるほどの不遇も経験しています。その後、建武政権のもとで家は復権しました。

1336年に後醍醐天皇が吉野へ移ると、良基は京都に残って北朝の光明天皇に仕えました。1346年、27歳で関白・藤氏長者となります。

観応の擾乱のあとの正平一統(1351年)で、いったん関白職を停止されました。その後、広義門院の命で復職したとされます。1358年には、興福寺の内紛への対応をめぐる反発から関白を辞しました。最初の在任は約13年です。

摂政・関白は何度務めたのか

摂政・関白への就任回数は、数え方で変わります。日本語版 Wikipedia は、通算5度とされるが、『公卿補任』は4度とする、と記しています。旧記事で「4度」とされていたのは、この数え方です。

主な任官の流れは次のとおりです。

  • 1346年:関白(1358年に辞任)
  • 1363年:関白に還補(1367年に辞任)
  • 1376年:准三后
  • 1381年:太政大臣
  • 1382年:摂政(1387年に辞任)
  • 1388年4月:摂政に再任。6月12日に関白に任じられ、翌13日に死去(Wikipedia の略年表は「摂政太政大臣」とし、記述が分かれる)

南朝軍の京都占領と後光厳天皇

1353年に南朝軍が京都を占領したとき、後光厳天皇は良基の邸から美濃へ退避しました。良基は病身で小島へ赴き、天皇に拝謁しています。京都に留まった公卿が遠ざけられるなか、良基は近衛道嗣とともに後光厳天皇に重用されたといいます。

『続本朝通鑑』には、良基と足利尊氏が天皇の神器の代わりになる、という趣旨の発言が伝わっています。ただし、Wikipedia 自体が出典の不十分さを注記しているため、細部は断定せず、「伝わっている」にとどめます。

足利義満の師としての顔

良基と義満の関わりで、Wikipedia に具体的に書かれているのは次の点です。

  • 1378年(永和4年)、義満が右近衛大将に就任するにあたり、良基が礼儀作法の講義を務めた(10月4日から)
  • 1381年、良基が太政大臣、義満が内大臣に任じられた
  • 義満に『聖徳太子憲法抄』を贈ったとされる(著者は玄恵とされるが、良基が仮託したとする説もある)

公家社会の作法を、新しい武家の長に伝える役を担っていたことがわかります。旧記事のように「幼い将軍を導いた」「北山文化の立役者」とまで言い切れる材料は、確かめた資料にはありませんでした。そのため、ここでは記録のある範囲にとどめます。

二条良基が連歌を大成させた理由と功績

和歌を学び、連歌でも第一人者に

良基は和歌を頓阿に、連歌を救済らに学んだとされます。英語版 Wikipedia によれば、本人は自分を主に和歌の詠み手と考えていたようですが、連歌では30歳までに権威とみなされていました。

連歌は、和歌の上の句と下の句を別々の人が詠み継ぐ形から発展し、鎌倉時代の後期には100句を基本とする「百韻」が主流になりました。南北朝から室町時代にかけて、連歌は大成されていきます。良基は、その中心にいた人物です。

『菟玖波集』:身分を超えて句を集めた連歌集

『菟玖波集』は全20巻、2,190句を収める連歌集です。構成は勅撰和歌集にならっています。良基が救済ら連歌師の協力を得て撰集し、1356年に成立しました。のちに准勅撰と認められ、連歌集としては初の准勅撰集になりました。

入集した作者は約450人が確認できます。公家や皇族のほか、足利尊氏・義詮ら武士も名を連ねました。佐々木道誉の後援も大きかったとされます。

入集数の上位5人は、いずれも編纂当時に存命でした。

  • 救済:127句
  • 二品法親王尊胤:90句
  • 二条良基:87句
  • 佐々木道誉:81句
  • 足利尊氏:68句

撰者である良基より、地下の連歌師である救済のほうが多く入集している点は目を引きます。この集によって、連歌は和歌とは別の独立した文芸として位置づけられました。

『応安新式』と『筑波問答』

1372年(応安5年)、良基は連歌の式目『応安新式』を制定しました。式目とは、句の続け方などを定めたルールです。連歌の基本的な決まりとして、二句前(打越)と同じ内容を避けることなどがあります。特定の語は一定の句数を離して使う、という規定も生まれました。

同じ1372年に書かれたとされるのが『筑波問答』です。英語版 Wikipedia では、連歌を問答形式で論じた書とされています。良基にはほかにも、『僻連抄』『連理秘抄』『九州問答』『十問最秘抄』などの連歌論書があり、歌論として『愚問賢注』(頓阿との問答)や『近来風体抄』も残しています。

旧記事には『筑波問答』の中身を引いた言葉が載っていました。しかし、今回の資料では原文を確かめられなかったため、ここでは引用しません。

救済との協力と、連歌の広がり

地下の連歌師・救済との関係

救済は弘安7年(1284年)に生まれ、永和4年(1378年)に亡くなった地下の連歌師です。和歌を冷泉為相に、連歌を善阿に学んだとされます。1356年には良基と協力して『菟玖波集』を編みました。門弟には周阿、永運、素阿、利阿らがいて、室町時代初期の連歌界の流れを作りました。

摂関家の当主と地下の連歌師が共同で撰集を進めたのは、確かに珍しい組み合わせです。ただし、周囲の反応や良基の考え方までは、確かめた資料に書かれていません。「身分にとらわれない姿勢だった」と理由づけることは控えます。

のちの連歌・俳諧へのつながり

室町中期には、宗祇が『竹林抄』で「連歌七賢」を挙げ、大内政弘の発願で『新撰菟玖波集』を編みました。戦国時代には荒木田守武や山崎宗鑑らが俳諧連歌を始め、『犬筑波集』が生まれます。連歌の発句はやがて独立し、明治に正岡子規の革新を経て俳句になりました。

良基が整えた『菟玖波集』と『応安新式』は、この長い流れの出発点にあたります。

仮名文の著作と日記

良基は仮名文の著作も多く残しています。『小島のすさみ』『衣かづきの日記』『さかき葉の日記』『雲井の花』『永和大嘗会記』『雲井の御法』などです。『新後拾遺和歌集』の仮名序も良基の作とされ、『増鏡』の作者とする説もあります。

英語版 Wikipedia は、良基の日記が北朝の様子を詳しく伝えている、と記しています。

ゆかりの地と関連する人物

車返しの坂の伝説

良基には、美濃の不破関にまつわる伝説が残ります。板びさしが破れた月の眺めを見に行こうとしたところ、修理されたと知って興ざめし、牛車を引き返したというものです。この坂は「車返しの坂」と呼ばれています。伝説であり、史実かどうかは確かめられていません。

なお、墓所については、確認できる公的な資料が見つからなかったため、ここでは触れません。

二条家の後継

  • 二条師良(長男):1369年に関白となったが、1378年4月に出家させられ、事実上廃嫡されたとされる
  • 二条師嗣(次男):家督を継ぎ、のちに関白となった
  • 一条経嗣(三男):一条家を継ぎ、のちに関白となった

関係の深い人物

  • 救済:連歌の師の一人で、『菟玖波集』の協力者
  • 頓阿:和歌の師。『愚問賢注』は頓阿との問答
  • 足利義満:良基が礼儀作法を講じた室町幕府の将軍
  • 後光厳天皇:南朝軍の京都占領のときに良基が支えた北朝の天皇

よくある質問

二条良基は何をした人ですか?

北朝に仕えて摂政・関白を務めた公卿で、連歌の大成者です。『菟玖波集』の撰集と『応安新式』の制定が代表的な業績です。

摂政・関白には何度なったのですか?

数え方によって違います。『公卿補任』では4度、通算では5度とされています。最初の関白在任は1346年から1358年まで、約13年でした。

『菟玖波集』とはどんな本ですか?

全20巻、2,190句の連歌集です。良基が救済らの協力で撰集し、1356年に成立しました。連歌集として初めて准勅撰と認められています。

『応安新式』は何を定めたものですか?

1372年に良基が制定した連歌の式目です。句の続け方に関する決まりを定めたもので、その後の連歌の規範になりました。

足利義満との関係は?

1378年の義満の右近衛大将就任にあたり、良基が礼儀作法を講義しました。1381年には良基が太政大臣、義満が内大臣に任じられています。