結論:山吹の逸話は史実と断定できないが、道灌が歌人だったことは記録で確かめられる
狩りの途中で雨に遭った太田道灌が、農家で蓑を借りようとすると、娘は山吹の一枝を差し出した。この話の初出は、江戸中期に湯浅常山が編んだ『常山紀談』とされる。江戸時代に掛川藩主となった太田家が編んだ家譜『太田家記』には載っておらず、信憑性には疑問が残る。
一方で、道灌が連歌会や歌合を催した歌人だったことは、「品川千句」や「武州江戸二十四番歌合」といった記録から確かめられる。山吹の逸話は「古歌を知らなかった武士が恥じて学んだ」という筋の物語として広まったが、道灌の教養の下地は、逸話の外にある記録で説明できる。
基本情報
- 人物:太田道灌(幼名は鶴千代、初名は持資とされ、元服して資長を名乗り、出家後に道灌と称した)
- 生没年:永享4年(1432年)〜文明18年7月26日(1486年8月25日)、享年55
- 時代:室町時代
- 立場:扇谷上杉家に仕えた武将。江戸城を築いたことで知られる
- 主な業績:父・道真とともに河越城と江戸城を築く(1456〜1457年)。品川の館での連歌会(品川千句)、江戸城での歌合を催す
- 山吹伝説の初出:湯浅常山『常山紀談』(江戸中期)
太田道灌の山吹伝説とは?蓑を借りに来た武将と少女の物語
逸話のあらすじ
伝わる筋はこうだ。狩りの途中で雨に遭った道灌は、農家で蓑を貸してほしいと頼んだ。出てきた娘は蓑ではなく、山吹の花の一枝を差し出した。意味が分からない道灌は、不満を抱いて帰った。
家臣にその話をすると、古歌の掛詞だと教えられた。「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌である。その「実」に雨具の「蓑」を掛けて、貸せる蓑がないことを伝えたのだという。
少女が引いた歌の作者
この歌は『後拾遺和歌集』に収められた兼明親王の作で、勅撰和歌集に入った歌は、この1首のみとされる。兼明親王は延喜14年(914年)の生まれで、977年に中務卿に任じられたことから「中書王」「前中書王」とも呼ばれた。道灌から見ても数百年前の、平安時代の歌である。
道灌が歌道に励んだという結末
物語では、道灌は古歌を知らなかった自分を恥じ、歌道に励んで名高い歌人になったと語られる。「武力だけでなく教養も要る」という教訓が分かりやすく、文武両道の話として語られてきた。
山吹伝説は本当か?初出と伝承地から見る諸説
『太田家記』にはなく、初出は『常山紀談』
太田家の家譜である『太田家記』にこの逸話はなく、初出は『常山紀談』だとされる。同書は戦国武将の逸話約470条を収め、評論を加えず短くまとめた逸話集である。出典の異なる話が一つの条に混ざっていて、史実性より有名で痛快な話が好まれたため、史書というより教訓集・説話集に近い性格を持つとされる。
常山の原形の自序は1739年、完成は1770年とされる。道灌の没年は1486年だから、逸話が文字に残るのは没後およそ250年以上たってからということになる。同時代の記録で確かめられる話ではない。
発祥地とされる場所が複数ある
山吹の里とされる場所は一か所に定まらない。挙げられるのは次の各地である。
- 東京都豊島区高田(面影橋の近くに碑がある)
- 新宿区山吹町
- 荒川区三河島
- 横浜市金沢区六浦
- 埼玉県越生町
どの地も、それが事実の場所だと示す同時代の記録があるわけではない。物語が各地の土地の話として語り継がれた結果と考えるのが自然だろう。ただしこれは私の見方であり、資料が断定しているわけではない。
落語「道灌」が伝えた形
この逸話を広く親しまれる形にしたのは、落語「道灌」でもある。ご隠居の家で、八五郎が屏風に描かれた山吹の里の絵について尋ね、逸話を教わる。八五郎は雨具を借りに来る男をこの歌で追い払おうとするが、男が借りに来たのは提灯で、歌も途中でつっかえてしまう。「お前も歌道に暗えな」と言うと、「角が暗えから提灯を借りに来た」と返される。
元は、天保4年(1833年)に江戸で刊行された笑話集『落噺笑富林』の一編で、初代林家正蔵の作とされる。原話の登場人物は八百屋の亭主と友人で、オチはキュウリの異称「河童」と雨具の「合羽」の掛け言葉だった。現在の演目は、この原話に道灌の逸話を組み合わせた形である。
道灌が実際に残した文化的な実績と最期
連歌会と歌合の記録
道灌は飛鳥井雅親や万里集九らと交わり、歌道に精通していたとされる。文明元年から6年頃(1469〜1474年頃)には、歌人の心敬を品川の館に招いて連歌会を催した。これが「品川千句」と呼ばれる。文明6年には心敬を判者として江戸城で歌合を行い、その記録が「武州江戸二十四番歌合」である。「道灌」の名が見える最初の記録は、同年6月の歌合の記事だとされる。
易学や兵学にも通じていたとされる。山吹の逸話のように「ある日を境に学び始めた」と描かれるが、確かめられるのは、すでに歌人たちと交わる文化人だったという姿である。
江戸城の築城
道灌は康正2年から長禄元年(1456〜1457年)にかけて、父・道真とともに河越城と江戸城を築いた。居館を品川から移したのは、長禄元年4月8日(1457年5月1日)と伝わる。江戸城の周辺には日枝神社、築土神社、平河天満宮などを勧請したとされる。皇居には「道灌濠」の名が残る。
主君に招かれた先での最期
文明18年7月26日、道灌は主君・扇谷上杉定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、入浴後に曽我兵庫に襲われて亡くなった。『太田資武状』によれば、最期に「当方滅亡」と言い残したとされる。動機には、道灌の威勢が強まりすぎて定正が反感を抱いたとする説と、山内上杉顕定が扇谷家の力を削ぐために仕組んだとする説がある。死後、国人や地侍の多くが山内家へ移り、翌年には両上杉氏が決裂して長享の乱に発展した。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 墓所:神奈川県伊勢原市に首塚(下糟屋の大慈寺)と胴塚(上粕屋の洞昌院)がある。埼玉県越生町の龍穏寺には分骨したと伝わる墓がある
- 銅像:荒川区の日暮里駅前(騎馬像)、東京国際フォーラム、川越市、伊勢原市役所前、越生町などにある
- 城跡:河越城(川越市)、稲付城(東京都北区)、馬橋城(千葉県松戸市)など
- 地名:道灌山(荒川区日暮里)、道灌坂(横浜市鶴見区)。千葉県柏市には道灌の名を持つ小字が9か所ある
- 神社:日枝神社、築土神社、平河天満宮(千代田区)
関連する人物
- 太田道真:道灌の父。河越城・江戸城の築城をともにした
- 扇谷上杉定正:道灌の主君。道灌を糟屋館に招いた
- 心敬:連歌師・歌人。品川千句や歌合で道灌と交わった
- 兼明親王:山吹の古歌の作者
- 湯浅常山:『常山紀談』の著者
よくある質問
山吹の逸話は本当にあった出来事ですか。
確かめられる同時代の記録はありません。初出とされる『常山紀談』は、道灌の死から250年以上後に成立した逸話集で、史書というより説話集に近い性格だとされます。
少女が差し出した山吹には何の意味がありますか。
兼明親王の歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」を踏まえ、山吹に実がならないことと、蓑がないことを掛けた答えだとされます。
道灌は山吹の逸話をきっかけに歌人になったのですか。
逸話ではそう語られますが、記録で確かめられるのは、1469〜1474年頃の品川千句や、文明6年の歌合など、歌人として活動した事実です。きっかけが逸話のとおりかどうかは分かりません。
山吹の里はどこですか。
東京都豊島区高田、新宿区山吹町、荒川区三河島、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などが発祥地とされ、一か所には定まっていません。
落語の「道灌」はどんな話ですか。
山吹の逸話を教わった八五郎が、雨具を借りに来た男を歌で追い払おうとして失敗する噺です。借りに来たのは提灯で、「角が暗えから提灯を借りに来た」というオチがつきます。





