西郷隆盛は、日本の歴史において最も人気のある人物の一人であり、幕末から明治にかけての激動期を駆け抜けた英雄だ。薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級武士として生まれた彼は、類まれなカリスマ性と行動力で多くの人々を惹きつけ、武士が支配する封建社会を終わらせる原動力となった。上野公園にある犬を連れた銅像の姿はあまりにも有名で、親しみやすい人柄が伝わってくる。
彼が成し遂げたことは、単に幕府を倒したことだけにとどまらない。新しい国を作るために、政治、軍事、教育とあらゆる分野で中心的な役割を果たした。その功績は現代の日本の社会システムの基礎となっており、私たちの生活にも間接的に影響を与えている。しかし、その人生は決して順風満帆ではなく、二度の島流しや盟友との対立など、多くの苦難と悲劇に彩られていた。
特に晩年は、自らが作り上げた明治政府と戦う「西南戦争」を起こし、敗軍の将として命を落とすという劇的な最期を遂げている。なぜ彼はそこまでして戦わなければならなかったのか、その行動の裏にはどのような思いがあったのか。これを知ることは、明治維新という大きな歴史の転換点を理解することにつながる。
この記事では、西郷隆盛がしたことを「幕末の動乱」「維新の改革」「晩年の戦い」という三つの時期に分け、それぞれの出来事を詳しく解説していく。彼がどのような決断を下し、日本をどのように変えていったのかを追うことで、その人物像と功績の全容を明らかにしていきたい。
西郷隆盛がしたこと・幕末の動乱編
島津斉彬に見出され政治活動を開始
西郷隆盛が歴史の表舞台に登場するのは、薩摩藩主である島津斉彬との出会いがきっかけだった。当時の西郷は「郡方書役助」という低い身分の役人に過ぎず、農村を回って年貢の取り立てなどを行っていた。しかし、農民の貧しい暮らしを目の当たりにした彼は、藩政に関する意見書を何度か提出し、それが名君と謳われた斉彬の目に留まることになる。斉彬は身分にとらわれずに才能ある人材を登用する人物であり、西郷を「庭方役」という側近に抜擢した。
庭方役となった西郷は、斉彬の手足となって江戸や京都を飛び回り、他藩の有力者との連絡役や情報収集などの極秘任務を任されるようになった。この時期に、将軍の跡継ぎを一橋慶喜(後の徳川慶喜)にするための政治工作にも奔走している。西郷にとって斉彬は、自分を見出してくれた絶対的な恩人であり、師匠でもあった。斉彬から学んだ「民のために尽くす」という思想や、海外情勢を見据えた広い視野は、その後の西郷の行動原理の根幹を形作ることになったのである。
安政の大獄と二度の過酷な島流し
西郷の政治活動は順調に見えたが、島津斉彬が急死したことで事態は暗転する。幕府の実権を握った大老の井伊直弼は、斉彬が進めていた一橋派を弾圧する「安政の大獄」を開始した。幕府から追われる身となった西郷は、同志である僧侶の月照と共に冬の錦江湾に入水自殺を図る。しかし、運命のいたずらか月照は亡くなり、西郷だけが奇跡的に蘇生した。生き残ってしまった苦悩を抱えながら、彼は藩の命令で奄美大島へと身を隠すことになる。
これが一度目の島流しである。奄美大島では「大島三右衛門」と名を変えて生活し、現地の女性である愛加那と結婚して子供も授かった。しかし、やがて藩の方針が変わり鹿児島へ呼び戻されるも、当時の権力者である島津久光と意見が対立して激怒させてしまう。その結果、今度は徳之島、さらには沖永良部島へと二度目の流罪に処された。特に沖永良部島での生活は吹きさらしの牢獄に入れられる過酷なものだったが、彼はそこで「敬天愛人(天を敬い人を愛する)」の境地に達し、精神的に大きく成長して再び歴史の表舞台へと帰還することになる。
薩長同盟の締結で倒幕の流れを作る
二度の島流しから復帰した西郷隆盛が成し遂げた最大の功績の一つが、薩長同盟の締結である。当時、薩摩藩と長州藩は京都での政変などで激しく戦った仇敵同士であり、関係は最悪の状態にあった。しかし、強大な軍事力を持つ徳川幕府を倒すためには、西日本の雄であるこの二藩が手を組むことが絶対条件であると、土佐藩の坂本龍馬や中岡慎太郎らは考えていた。彼らの必死の仲介により、京都の小松帯刀邸で西郷と長州の桂小五郎(木戸孝允)による会談が実現する。
会談は難航したが、最終的に西郷が長州の苦しい立場を理解し、支援を約束することで合意に至った。この同盟は単なる仲直りではなく、具体的な軍事支援を含む秘密協定だった。薩摩藩の名義で最新の武器や軍艦を購入して長州に譲り、逆に長州からは兵糧米を薩摩に送るという実利的な協力関係が築かれたのである。西郷の度量の大きさと政治的決断によって成立したこの同盟により、倒幕勢力は一気に強大化し、歴史の歯車は明治維新へと大きく回転し始めた。
戊辰戦争を指揮し旧幕府軍を圧倒
1868年1月、京都の南で発生した「鳥羽・伏見の戦い」により、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が勃発した。西郷はこの戦いで新政府軍の実質的な司令官として指揮を執った。兵力では旧幕府軍が勝っていたが、西郷は天皇の軍隊であることを示す「錦の御旗」を戦場に掲げさせることで、敵の戦意を喪失させ、味方の士気を極限まで高めることに成功した。これにより、戦いの正当性は完全に新政府側に移り、旧幕府軍は「朝敵(天皇の敵)」となって総崩れとなった。
勝利を収めた新政府軍は、東征大総督府を組織し、西郷はその参謀として軍を率いて江戸へと進軍した。道中、各地の藩を恭順させながら進み、圧倒的な軍事力を背景に旧幕府勢力を追い詰めていく。西郷の優れた点は、単に武力で制圧するだけでなく、巧みな政治的手腕で敵を味方に引き入れたり、無駄な戦闘を避けたりする柔軟性にあった。彼のリーダーシップの下、新政府軍はついに徳川家の本拠地である江戸城の目前にまで迫り、日本の運命を決する最終局面を迎えることになる。
西郷隆盛がしたこと・明治維新の改革編
勝海舟との会談で江戸無血開城を実現
戊辰戦争のクライマックスともいえるのが、江戸城の無血開城だ。新政府軍は3月15日を江戸城総攻撃の日と定めていたが、もし攻撃が行われれば、100万人を超える江戸の市民が戦火に巻き込まれ、都市機能は壊滅する恐れがあった。また、日本の国力が疲弊すれば、諸外国に介入の口実を与えることにもなりかねない。このような緊迫した状況の中、旧幕府側の陸軍総裁である勝海舟は、早期停戦と平和的な解決を模索し、西郷との直接交渉を求めた。
西郷は、山岡鉄舟との事前交渉を経て、薩摩藩邸で勝海舟と歴史的な会談を行った。勝は徳川慶喜の恭順を条件に、江戸城の明け渡しと攻撃の中止を訴えた。西郷は勝の誠意と、内戦による国力の低下を憂える主張を受け入れ、独断で総攻撃の中止を決定した。これが「江戸無血開城」である。敵将の言葉を信じ、勝利目前での攻撃中止を決断した西郷の英断は、多くの人命を救っただけでなく、日本の近代化をスムーズに進めるための重要なターニングポイントとなった。
版籍奉還で土地と人民を天皇へ返還
戊辰戦争が終わり、明治政府が発足したが、当時の日本はまだ本当の意味での統一国家ではなかった。土地(版)と人民(籍)は各地の大名(藩主)が所有しており、政府には十分な税収も権限もなかったのである。この問題を解決するために行われたのが「版籍奉還」だ。西郷は、薩摩藩主の島津忠義を説得し、長州、土佐、肥前と共に率先して版籍奉還を天皇に申し出るよう働きかけた。
これにより、形式上はすべての土地と国民が天皇のものとなり、旧藩主は「知藩事」という地方官に任命された。西郷が参議としてこの改革を推進した背景には、強力な中央政府を作らなければ欧米列強に対抗できないという危機感があった。薩摩藩という最大の実力者が範を示したことで、他の藩もこれに従わざるを得なくなったのである。版籍奉還は、数百年続いた封建的な支配体制を崩し、近代国家へと脱皮するための第一歩となる極めて重要な改革であった。
廃藩置県を断行し中央集権国家を樹立
版籍奉還後も、知藩事となった旧大名が以前と同じように領地を治めており、政府の命令が全国に行き届かない状態が続いていた。そこで西郷隆盛らが中心となって断行したのが「廃藩置県」である。これは全国の「藩」を完全に廃止し、政府から派遣された役人が治める「県」を設置するという、革命的な改革だった。大名から権力を完全に取り上げるため、反乱が起きる可能性が極めて高かったが、西郷はこれを武力で抑え込む覚悟を決めていた。
西郷は、薩摩・長州・土佐から約1万人の兵を集めて「御親兵(後の近衛兵)」を組織し、軍事的な威圧力を背景に一気に改革を宣言した。彼は「もし反乱が起きたら、すべて自分が引き受ける」と語り、全責任を負う姿勢を示したといわれる。結果として、政府が藩の借金を肩代わりするなどの条件もあり、大きな反乱もなく廃藩置県は成功した。これにより日本は初めて一つの中央集権国家としてまとまり、税制や軍制の統一が可能となった。西郷の政治力と武力がなければ成し得なかった大業である。
留守政府を率いて近代化政策を推進
明治4年、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら政府の首脳陣が、条約改正交渉と欧米視察のために「岩倉使節団」として海外へ出発した。西郷は日本に残り、留守政府の筆頭参議として国政を任されることになった。出発組とは「留守の間は大きな改革を行わない」という約束があったが、現実には社会の混乱や新しい課題への対応が急務であり、西郷のもとで多くの重要な政策が次々と実行されていった。
この時期に行われた改革には、国民皆兵を目指した「徴兵令」の布告、すべての子供に教育を受けさせる「学制」の頒布、太陰暦から太陽暦への改暦、キリスト教禁制の高札撤去などがある。これらは日本の近代化にとって不可欠な制度であった。西郷自身は細かい実務を部下に任せ、彼らが働きやすいように責任を持って決裁するという大らかなリーダーシップを発揮した。また、明治天皇の東北・北海道巡幸に同行し、天皇の威光を国民に示す役割も果たしている。留守政府の期間は、明治国家の骨格が急速に作られた時期でもあった。
西郷隆盛がしたこと・晩年と最期の戦い
征韓論争で敗れ明治政府から下野する
留守政府の期間中、朝鮮との国交問題を巡って政府内で大きな対立が生まれた。当時、鎖国していた朝鮮が日本の開国要求を拒絶したため、武力を使ってでも開国を迫るべきだという強硬論が高まっていた。これに対し西郷は、武力行使の前に道義を尽くすべきだと主張し、自らが全権大使として朝鮮に渡り、話し合いで解決する「遣韓使節」を提案した。彼は自分が殺されることで開戦の大義名分ができるならそれでも構わないという、死を覚悟した決意を持っていたとされる。
一度は西郷の派遣が決定したが、帰国した大久保利通や岩倉具視らは、国内の産業育成や体制整備が最優先であり、対外的なリスクを冒すべきではないとして猛反対した。これが「征韓論争」である。激しい権力闘争の末、西郷の派遣は中止と決まった。自分の信義が踏みにじられ、政府の方針と合わなくなったと感じた西郷は、参議や陸軍大将の職を辞任し、故郷の鹿児島へ帰ることを決意する。この時、西郷を慕う多くの軍人や官僚も一斉に辞職し、政府は大分裂する事態となった。
鹿児島に私学校を設立し若者を育成
政府を去り鹿児島に戻った西郷は、当初は隠居生活を送るつもりで、畑仕事や狩りを楽しんでいた。しかし、彼を慕って一緒に下野した若者たちが全国から鹿児島に集まってくると、彼らの溢れるエネルギーを放置することはできなくなった。そこで西郷は、自身の賞典禄(功績に対する手当)などを資金として、県内各地に「私学校」を設立した。これには、不平を持つ士族たちの暴発を防ぎ、国家に貢献できる人材を育てるという目的があった。
私学校には、欧米の軍事技術を学ぶ「銃隊学校」「砲隊学校」のほか、中国の古典などを通じて人間性を磨く教育が行われた。当時の鹿児島県令(知事)であった大山綱良も西郷に協力し、県を挙げて私学校を支援した。ここでは生徒たちが自治を行い、質実剛健な気風が育まれたが、一方で政府からは「独立国のような軍事組織」として強い警戒心を抱かれる要因ともなった。西郷自身は教育に情熱を注いだが、結果としてここが反政府勢力の最大の拠点となってしまったのである。
西南戦争が勃発し士族反乱の指揮官へ
明治政府が進める廃刀令や秩禄処分(武士の給与廃止)などの政策により、特権を奪われた士族たちの不満は限界に達していた。佐賀の乱などを皮切りに各地で反乱が相次ぐ中、1877年、ついに鹿児島でも事件が起きる。政府が鹿児島の火薬庫から武器弾薬を秘密裏に搬出しようとしたことや、西郷暗殺計画の噂が流れたことに激昂した私学校の生徒たちが、政府の施設を襲撃してしまったのである。
報告を受けた西郷は「しっまった(しまった)」と漏らしたと伝えられているが、もはや愛する弟子たちの暴走を止めることはできず、彼らを見捨てて自分だけ生き残ることも良しとしなかった。西郷は「おはんらにやった命(お前たちにあげた命だ)」と告げ、全軍の指揮を執ることを決意する。こうして日本最後の内戦である「西南戦争」が始まった。西郷軍は熊本城へ向けて進軍するが、近代的な装備を持つ政府軍の抵抗に遭い、激戦の末に敗退を重ねることになる。不本意ながらも反乱軍の長となった西郷の、悲壮な戦いの始まりであった。
城山の戦いで自刃し武士の時代を終える
熊本城の攻略に失敗し、田原坂の戦いでも敗れた西郷軍は、宮崎方面へ逃れながら抗戦を続けたが、圧倒的な物量差の前に壊滅的な打撃を受けた。わずかに生き残った数百名の兵と共に、西郷は故郷である鹿児島の城山に戻り、最後の陣を敷いた。政府軍は城山を完全に包囲し、総攻撃の準備を整えた。西郷は洞窟で最後の数日間を過ごし、仲間たちと碁を打つなどして静かに最期の時を待ったという。
9月24日の早朝、政府軍の一斉砲撃が開始されると、西郷は別府晋介らと共に洞窟を出て進撃を開始した。しかし、間もなく銃弾を腰と太腿に受け、歩行が困難となる。西郷はこれ以上の抵抗は無意味と悟り、その場に正座して襟を正し、遥か皇居の方角を拝んだ。「晋どん、もうここでよか」と静かに告げると、別府晋介の介錯によってその49年の生涯を閉じた。西郷の死により西南戦争は終結し、それと同時に武士という存在が力を持っていた時代も完全に終わりを告げたのである。
まとめ
西郷隆盛がしたことを振り返ると、彼が常に「公」のために動き、私利私欲を捨てて行動していたことがよくわかる。幕末においては、薩長同盟や戊辰戦争を通じて古い幕府体制を破壊し、明治維新への道を切り開いた。その一方で、江戸無血開城に見られるように、無益な殺生を避けて平和的に問題を解決しようとする高い道徳心も持ち合わせていた。
明治政府においては、廃藩置県という困難な改革を断行して日本を統一国家へと導き、留守政府を預かって近代化の土台を作った。最後は西南戦争で反乱軍の将として散ったが、それは変化する時代の中で取り残された士族たちへの最後の責任の取り方だったのかもしれない。
彼は「破壊」と「創造」の両方を成し遂げた稀有な人物だ。その豪快でありながら繊細で、情に厚い人間性は、今もなお多くの日本人を惹きつけている。西郷隆盛が命懸けで築いた日本の礎の上に、現在の私たちの社会があることを忘れてはならない。