結論:家康の死因は胃癌とみる説が主流。鯛の天ぷら中毒説は、発病から死去までの長さと合わない
徳川家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)の巳の刻(現在の午前10時ごろ)、駿府城で亡くなりました。数えで75歳、満年齢では73歳4か月です。死因は、長く「鯛の天ぷらによる食中毒」と語られてきましたが、現在は胃癌説が主流です。根拠は『徳川実紀』にある吐血、黒い便、腹のしこりといった症状の記述です。
基本情報
- 生没:没年は元和2年4月17日(1616年6月1日)。享年75(満73歳4か月)
- 時代:安土桃山時代から江戸時代初期
- 立場:江戸幕府の初代将軍。晩年は将軍職を子の秀忠に譲った
- 死去の場所:駿府城
- 死因:胃癌説が主流。天ぷら食中毒説、寸白(さなだ虫)説もある
- 神号:東照大権現。戒名は安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
家康の最期:鷹狩りでの発病から駿府城での死去まで
元和2年1月、鷹狩りの先の田中で倒れる
発病は死去の約3か月前にさかのぼります。元和2年(1616年)1月21日、家康は鷹狩りに出た田中で倒れました。25日には小康を得て、駿府へ戻っています。
この1月21日の夕食に鯛の天ぷらを食べたとされ、この話が、のちに死因として広まる「天ぷら説」の出発点です。
侍医頭・片山宗哲と、薬をめぐる対立
侍医頭の片山宗哲は、診察の結果を胃癌と判断したとされます。ところが家康は、宗哲の薬を飲まず、自分で調合した万病丹や銀液丹を飲み続けました。家康は、自分の病を寸白(さなだ虫)によるものと考えていたのです。
子の秀忠は、万病丹の服用をやめさせるよう宗哲に頼み、宗哲も家康に同じことを進言しました。しかし家康は怒り、宗哲を流罪にしたと伝えられます。主治医の診断と本人の自己診断が食い違ったまま、病は進んだことになります。
4月17日の死去と、その夜の遺体の移動
家康は4月17日に駿府城で亡くなり、その夜のうちに遺体は久能山に移されました。幕府は、大名や旗本に対して、弔問のために駿府へ下る必要はないと伝えています。増上寺以外での法要も不要としました。
天下人の死としては、ずいぶん静かな扱いです。5月17日に増上寺で営まれた葬儀も内々のもので、大名の参列や香典は不要とされました。
死因の諸説と、遺言・埋葬・神号をめぐる議論
天ぷら食中毒説:長く通説だったが、時間が合わない
鯛の天ぷらで食あたりを起こした、という説は、長く一般に広まっていました。しかし、1月の夕食から死去までは約3か月近くあります。食中毒が原因なら、これほど長引くのは不自然で、この説には無理があるとされています。発病の1月21日に倒れ、25日に小康を得た後も、病が続いていたことになるからです。
天ぷらは、病の経過の中で出てくる食事の一つにすぎず、死因として結びつけるには根拠が足りない、というのが現在の見方です。
胃癌説:『徳川実紀』の症状の記述が根拠
現在の主流は胃癌説です。根拠は、『徳川実紀』に書かれた症状です。吐血、黒い便、腹にできたしこり。これらは胃癌を思わせるものとして挙げられています。侍医頭の片山宗哲が胃癌と判断した、という伝えとも重なります。
ただし、これは江戸時代の記録の症状から推し量った見方です。現代の医学的な検査をもとにした確定ではない点は、区別しておく必要があります。
寸白(さなだ虫)説:家康本人の自己診断
三つめは寸白説です。これは後世の学者の推測ではなく、家康自身が自分の病をそう見立てたものです。自分で薬を調合する家康は、宗哲の診断を退け、寸白を治すつもりで薬を飲み続けました。
本人の見立てが外れていたとすれば、胃癌説が主流である現在、結果として適切な治療の機会を逃したことにもなります。ただ、それは後から見た評価であり、当時の家康が何を根拠にそう考えたかまでは、資料から分かりません。
遺言・埋葬・神号・殉死の禁止
『本光国師日記』によれば、家康は次のように遺言したとされます。遺体は久能山に納める。葬儀は増上寺で行う。位牌は三河の大樹寺に立てる。一周忌のあとに、日光山に小さな堂を建てて勧請する。
遺言どおり、遺体は久能山に葬られ、一周忌を経て日光の東照社に分霊されました。久能山東照宮、日光東照宮、大樹寺、高野山が、家康の墓所や霊廟ゆかりの地として挙げられています。お墓の場所をめぐる話は、徳川家康のお墓はどこ?三か所説の真実と歴史を徹底解説でも整理しています。
死後の神号をめぐっては、意見が割れました。天海は「権現」を、崇伝は「明神」を主張します。豊臣家が「豊国大明神」を贈られて滅んだことから、明神は不吉だとする天海の意見が採られ、秀忠が権現とすると裁定しました。
朝廷には、二条昭実や今出川晴季らが神号の案を出しました。秀忠はその四案から「東照大権現」を選び、1617年に勅許されています。
家康は殉死を嫌い、禁じました。名のある者の殉死はありませんでしたが、厩舎人の井出八郎右衛門が殉死した、という逸話が残っています。
ゆかりの地と関連する人物
- 駿府城(静岡県):家康が亡くなった城です。
- 田中:元和2年1月、鷹狩りの先で家康が倒れた場所です。
- 久能山東照宮:遺体がその夜のうちに移され、葬られた地です。
- 日光東照宮:一周忌を経て、東照社に分霊されました。
- 増上寺:遺言で葬儀の場とされ、5月17日に葬儀が営まれました。
- 大樹寺(三河):遺言で位牌を立てるとされた寺です。
関係する人物では、秀忠が、薬の服用をやめさせようとし、葬儀や神号の裁定にも関わりました。天海と崇伝は神号をめぐって対立した僧、片山宗哲は主治医です。
家康のあだ名がどう生まれたかは【徳川家康のあだ名】徹底解説:狸親父から東照大権現に書きました。同じ「死因・最期」の型では、織田信長の死因は?本能寺の変での最期と遺体が見つからない理由や、源頼朝の死因は本当に落馬?鎌倉幕府最大のミステリーを徹底考察もあわせてどうぞ。
よくある質問
家康は本当に鯛の天ぷらで死んだのですか?
いいえ。天ぷらを食べたとされるのは1月21日の夕食で、死去は4月17日です。約3か月近い隔たりがあり、食中毒説には無理があるとされています。
家康は何歳で、どこで亡くなりましたか?
元和2年4月17日に駿府城で、数えで75歳、満年齢で73歳4か月で亡くなりました。
胃癌説の根拠は何ですか?
『徳川実紀』にある吐血、黒い便、腹のしこりという症状の記述です。侍医頭の片山宗哲が胃癌と判断したことも、この説と重なります。
家康はなぜ医師の薬を飲まなかったのですか?
家康は自分の病を寸白(さなだ虫)によるものと考え、自分で調合した万病丹や銀液丹を飲み続けていたためです。
家康の遺体はどこに葬られましたか?
亡くなった夜に久能山へ移されて葬られ、一周忌を経て日光の東照社に分霊されました。






