結論:光秀が信長を討った理由に、定説はない
天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀は京都の本能寺で織田信長を討ちました。ただし「なぜ」を直接語った光秀の史料はなく、手紙もほとんど残っていません。重臣たちも短期間で討たれたため、動機は今も分かっていません。
怨恨説と野望説が古くからの代表的な説で、のちに「不安説」、さらに朝廷・足利義昭・羽柴秀吉などを黒幕とする説が加わりました。研究者の間では、どの説にも十分な根拠がないと見られています。
基本情報
- 事件:本能寺の変(天正10年6月2日、西暦1582年6月21日)
- 時代:安土桃山時代
- 織田信長:天文3年(1534年)生まれ、本能寺の変で死去。享年49
- 明智光秀:生年は同時代の史料で確認できず、1516年・1528年など複数の説がある。没年は天正10年6月13日(山崎の戦いの後)
- 立場:光秀は信長の家臣で、丹波平定を担い、近江の坂本城などを築いた武将
- 結果:信長と嫡男の織田信忠が死去。光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた
本能寺の変の経緯:光秀はいつ、どう動いたのか
信長はなぜ本能寺にいたのか
信長は5月29日に少数の小姓衆を連れて上洛し、本能寺に宿泊しました。毛利氏への出兵を控え、家臣たちに出陣の準備をさせていた時期です。名物の茶器を披露する茶会を開く予定があり、6月4日ごろには淡路へ向かうとも見られていました。ただし、上洛の正確な目的は分かっていません。
この年の5月、光秀は徳川家康の饗応役を命じられていました。しかしその後、秀吉を支援する出陣を命じられ、饗応役は別の者に代わっています。
1万3,000の軍勢が本能寺を囲む
光秀は6月1日、丹波の亀山城を約1万3,000の軍勢で出発しました。夕方に柴野で軍勢を整え、兵たちには西国出陣の準備を信長に見せるためだと伝えられていたとされます。軍勢は老ノ坂を越え、2日未明に桂川へ達し、夜明けごろに本能寺を取り囲みました。襲撃した人数については、3,000騎以上とする史料もあります。
信長と信忠の最期
襲撃を知った信長は「是非に及ばず」と言ったと伝えられます。建物が燃える中で自害したとされ、森成利(蘭丸)も本能寺で死去しました。信長の遺体は見つかっておらず、光秀方が捜したものの見つけられなかったという記述が残るのみです。
信忠は妙覚寺から二条新御所に移りました。正午ごろ、約1万の明智勢が攻めかかります。信忠側は信長の護衛も加わって1,000〜1,500人ほどでした。建物に火がかけられた後、信忠は自害しています。
明智光秀が織田信長を討った理由の諸説
怨恨説:折檻や冷遇の逸話は信頼できるのか
信長に侮辱された、冷遇されたという恨みが動機だとする説です。根拠として、諏訪での折檻、家康の饗応役の解任、旧領の召し上げ、重臣・斎藤利三をめぐる争い、光秀の老母が磔にされた話などが挙げられてきました。ところがこれらの逸話は、どれも二次・三次の史料に基づいており、信憑性に問題があるとされています。
野望説:天下を狙ったのか
光秀は近畿一帯を担当する立場にあり、織田家の中で「ナンバーツー」の自負があったとする見方があります。光秀が詠んだ愛宕百韻の発句も、野望の表明として根拠の一つにされてきました。一方で、「とき」を光秀の本姓・土岐氏とみる読み方は後世のこじつけだと批判する研究者もおり、解釈は一つに定まっていません。山陰への転封を、近畿の要職からの左遷と受け取った可能性を指摘する研究者もいます。
四国説:2014年に見つかった手紙
2014年、石谷家の文書から、長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状が見つかりました。四国をめぐる信長の方針転換が光秀の面目を失わせ、引き金になったのではないかと考える研究者がいます。しかし、これを直接の証拠とは見ない研究者もいます。
黒幕説:朝廷・足利義昭・秀吉
光秀の背後に誰かがいたとする黒幕説も多く唱えられています。
- 朝廷黒幕説:1990年代に研究者が唱えました。これに対し、朝廷から命令が出た形跡がないことや、信長と朝廷が対立していたという前提自体に異論があることが指摘されています。
- 足利義昭黒幕説:義昭を黒幕とする見方も提唱されました。これには、光秀の書状に義昭への言及がないこと、毛利氏が目立った反応を見せていないことを根拠にした反論があります。
- 羽柴秀吉黒幕説:史料的な裏づけはありません。
徳川家康やイエズス会を黒幕とする説もあります。これら黒幕説に対しては、文書による裏づけがないという批判があります。
「敵は本能寺にあり」は本当に言ったのか
同時代の史料には見えない言葉
「敵は本能寺にあり」は、光秀が全軍に告げた言葉として有名です。しかし同時代の史料には残っていません。
江戸時代に広まった過程
この言葉は、元禄年間ごろの『明智軍記』、1641年(寛永18年)の林羅山『織田信長譜』、1827年(文政10年)の頼山陽『日本外史』などを経て広まった、後世の俗説とされています。
山崎の戦いとその後:光秀は13日で敗れる
羽柴秀吉との戦い
6月13日、光秀は山崎で羽柴秀吉の軍と戦って敗れました。秀吉はこの後に台頭し、豊臣政権を築く足がかりを得ます。変の直後、秀吉が「信長は逃れて膳所ヶ崎にいる」という偽りの噂を流したとも伝えられます。
小栗栖での最期
敗れた光秀は坂本城へ向かう途中、小栗栖で農民に襲われました。その場で討たれたのか、自害したのかは、記録によって異なります。重臣の斎藤利三は山崎の戦いの後に処刑されています。
説は約59にのぼる
本能寺の変をめぐる説は、研究者の整理で3つに大別され、50に細分化されています。資料の表では59に整理されています。ただし多くは重なり合っていたり、推測に頼っていたりします。決定的な史料が見つかるまで、「これが真相」と言い切れる説はありません。
ゆかりの地と関連する人物
ゆかりの地
- 本能寺(京都市中京区):信長の墓所のひとつとされる寺
- 大徳寺総見院(京都市北区)、妙心寺玉鳳院(京都市右京区)、阿弥陀寺(京都市上京区):信長の墓所・供養の寺とされる
- 光秀の墓所:谷性寺(京都府亀岡市)、西教寺(大津市)、高野山奥之院、岐阜県山県市などに伝わる
- 坂本城・亀山城・福知山城:光秀が築いた、あるいは整えた城
関連する人物
- 織田信忠:信長の嫡男。二条新御所で自害した
- 斎藤利三:光秀の重臣。四国説で鍵となる人物
- 羽柴秀吉:山崎の戦いで光秀を破った
- 細川藤孝・忠興:光秀と関わりが深い細川家。忠興の妻は光秀の娘、細川ガラシャ
- 明智秀満:光秀の家臣。坂本城で亡くなった
よくある質問
光秀が信長を討った理由は分かっている?
分かっていません。光秀が動機を記した史料はなく、定説もありません。怨恨・野望・不安・四国をめぐる問題などが議論されています。
信長にいじめられたから討った、は本当?
怨恨説の根拠とされる逸話は、いずれも二次・三次の史料に基づき、信憑性に問題があるとされています。事実と確かめられたものではありません。
「敵は本能寺にあり」は実際の言葉?
同時代の史料にはなく、江戸時代の『明智軍記』や『日本外史』などで広まった言葉です。光秀が実際に述べたとは確かめられていません。
信長の遺体は見つかった?
見つかっていません。光秀方が捜したものの見つけられなかったという記述があるのみです。
光秀が天下を取る準備はあったの?
確かな史料はありません。野望説は愛宕百韻の発句などを根拠にしてきましたが、その句の解釈も分かれています。





