中岡慎太郎

結論:中岡慎太郎館は、薩長和解を奔走した土佐の志士・中岡慎太郎の故郷にある顕彰施設

中岡慎太郎館は、高知県安芸郡北川村柏木にある、中岡慎太郎の生涯を伝える施設です。慎太郎は同じ柏木村の大庄屋の長男として生まれ、土佐勤王党への加盟、脱藩、長州での活動、薩長和解の周旋、陸援隊の結成と進み、慶応3年11月、京都の近江屋で襲われて世を去りました。

よく「坂本龍馬とともに薩長同盟を結んだ人」と紹介されますが、Wikipedia によると、慶応2年1月の薩長同盟の締結の場に慎太郎はいませんでした。当時は、太宰府に移された三条実美ら五卿の応接にあたっていたためです。慎太郎の役割は、同盟の場に座ることではなく、薩長の和解に向けて両藩の間を周旋して回ることでした。

この記事では、慎太郎の生涯を順にたどり、そのうえで故郷・北川村に残るゆかりの地を紹介します。展示の細かな内容は時期によって変わるため、見学の前に公式サイトで確認してください。

基本情報

  • 生年:天保9年4月13日(1838年5月6日)
  • 没年:慶応3年11月17日(1867年12月12日)。満29歳。数え年では享年30とされる
  • 時代:江戸時代後期(幕末)
  • 出身:土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)。大庄屋・中岡小傳次の長男
  • 立場:土佐勤王党に加盟した志士。のちに陸援隊の隊長
  • 主な業績:薩長和解の周旋、政治論文『時勢論』の執筆、陸援隊の結成
  • 最期:京都の近江屋で襲撃され、2日後に死去

中岡慎太郎の生涯:北川村から京都、長州へ

大庄屋の長男として育った少年時代

慎太郎が生まれた柏木村は、高知県東部の山あいにあります。家は大庄屋でした。大庄屋は、複数の村をまとめる役目の庄屋で、慎太郎は村の暮らしを預かる家の跡取りとして育ちます。生家の近くには、幼いころに遊んだ崖や、私塾に通った山越えの道(「向学の道」)といった史跡が伝わっています。

学問と武芸の面では、1854年に間崎哲馬に学び、翌1855年には武市瑞山の道場で剣術を学びました。後に土佐勤王党の中心となる武市瑞山との縁は、このときに生まれています。

土佐勤王党への加盟と脱藩

1861年、慎太郎は土佐勤王党に加盟し、本格的に志士としての活動を始めます。1862年には信濃の松代で佐久間象山に会い、国防や政治の改革について議論しました。

1863年8月、捕縛の危機を同志から知らされた慎太郎は脱藩します。同年9月には長州藩に身を寄せ、「石川清之助」の名で、五卿(七卿)の護衛や志士たちの連絡役を務めました。

禁門の変と攘夷から開国への転換

1864年の禁門の変では、忠勇隊の一員として戦い、負傷しました。その後、真木和泉の死を受けて、忠勇隊の総督を務めています。

その後、下関戦争での敗北を経て、慎太郎は攘夷論を捨て、開国によって富国強兵をはかる考えに転じました。この考えは、政治論文『時勢論』を何度かに分けて書いたことにも表れています。

薩長和解の周旋と陸援隊:慎太郎は何をしたのか

薩長同盟の「場」にはいなかった慎太郎

慎太郎は、土方久元らとともに薩長の和解に向けた周旋を始めました。ただし、慶応2年(1866年)1月に薩長同盟が結ばれた場には出席していません。第一次長州征討のあとに太宰府へ移った三条実美ら五卿への応対にあたっていたからです。

同年2月、西郷隆盛の働きかけもあって、慎太郎と龍馬は土佐藩から脱藩の罪を赦免されました。ただし、身分は浪士のままでした。「薩長同盟の立役者」という評価は、締結の瞬間ではなく、そこへ至るまでの周旋を指す言葉として読むのが正確です。

陸援隊の結成

慶応3年(1867年)7月、慎太郎は京都郊外の白川村にある土佐藩邸に浪士を集めて陸援隊を組織し、自ら隊長になりました。藩の承認は7月27日、藩邸に入ったのは29日です。

隊士は約50名とも約70名ともいわれ、十津川郷士約50名も加わったとされます。薩摩藩の鈴木武五郎の指導で、洋式の銃隊の訓練も行われました。一方で、土佐藩の上層部には支持する人がいた反面、佐幕派からは危険視されており、立場は安定したものではありませんでした。

近江屋事件:慎太郎の最期をめぐる事実と諸説

慶応3年11月15日の襲撃

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都の近江屋で坂本龍馬を訪ねていた慎太郎は、何者かに襲われました。慎太郎は両手足など11か所の傷を負います。龍馬は即死、あるいは翌未明に亡くなったとされ、従者の山田藤吉も命を落としました。

2日間の命と、仲間に託した言葉

近江屋事件について書かれた Wikipedia によると、慎太郎は一時持ち直し、谷干城や田中光顕らに襲撃の様子を語りました。しかし出血が続いて衰弱していきます。陸援隊の香川敬三には、岩倉具視へ王政復古への尽力を伝えること、速やかに討幕を実行することを託しました。11月17日に息を引き取っています。

慎太郎の証言は、事件の経過を知る手がかりのひとつです。ただし、誰が襲ったのかは、いまも確定していません。

犯人をめぐる諸説

最も広く受け入れられているのは、京都見廻組の佐々木只三郎らの一隊とする説です。これは主に、元見廻組の今井信郎の後年の供述に基づいており、他の記録と食い違う点もあります。

ほかに、現場で見つかった鞘を理由に新選組を疑う説(近藤勇は関与を否定)、紀州藩の報復とする説、薩摩藩の陰謀とする説などがあります。薩摩藩陰謀説は、研究者の間では行き過ぎた見方とされています。外国の関与や、本当の標的は慎太郎だったとする説もありますが、十分に裏づけられたものはありません。

ゆかりの地と関連する人物

北川村:中岡慎太郎館と生家

中岡慎太郎館は、慎太郎の生家(復元・保存されている)とあわせて整備されています。公式サイトには、館の案内、収蔵品、企画展などのページがあります。開館時間・休館日・料金は公式サイトの案内ページで確認してください。

北川村は高知県東部の安芸郡にある、森林に囲まれた村です。観光地として、慎太郎館のほかに「モネの庭 マルモッタン」、北川温泉「ゆずの里」などが挙げられます。村ではユズが特産品になっており、ユズを使った食品加工も行われています。村の催しとして、Wikipedia には「中岡慎太郎とゆず祭り」が挙げられています。なお、Wikipedia には、飢饉で塩に困った村民のために慎太郎が柚子の生産に貢献したとされる、との記述があります。

京都:墓所と顕彰碑

慎太郎の墓は、京都市東山区の京都霊山護国神社の境内にある霊山墓所(中腹)にあり、坂本龍馬の墓と並んでいます。近くには土佐藩招魂社があり、墓石のわきには顕彰碑と手水場があります。故郷の北川村にある中岡家歴代墓所には、遺髪塚があります。靖国神社にも祀られています。

銅像

慎太郎の銅像は、高知県の室戸岬、京都の円山公園(龍馬の像と並ぶ)、京都霊山護国神社にあります。室戸岬の像は本山白雲の制作で、1935年(昭和10年)に除幕され、戦時中の金属供出を免れました。円山公園の像は、戦後に再建された2代目です。

関連する人物

  • 坂本龍馬:薩長の周旋で動きを連ねた同郷の志士。近江屋で同じ夜に襲われた
  • 武市瑞山:土佐勤王党の中心人物。慎太郎は1855年に道場で剣術を学んだ
  • 西郷隆盛:薩摩側の有力者。慎太郎と龍馬の赦免に働きかけた
  • 三条実美:五卿の一人。慎太郎は太宰府で五卿の応接にあたった
  • 佐久間象山:1862年に松代で慎太郎と国防などを議論した

よくある質問

中岡慎太郎館はどこにありますか?

高知県安芸郡北川村柏木にあります。慎太郎の生まれ故郷で、生家が復元・保存されています。開館時間や料金は、公式サイトで最新の案内を確認してください。

中岡慎太郎は薩長同盟の締結の場にいたのですか?

いませんでした。慶応2年1月の同盟締結のとき、慎太郎は太宰府で三条実美ら五卿の応接にあたっていました。ただし、土方久元らとともに薩長和解の周旋を進めた人物です。

中岡慎太郎は何歳で亡くなりましたか?

満29歳です。数え年では享年30とされます。慶応3年11月15日に近江屋で襲われ、17日に亡くなりました。

近江屋事件の犯人は誰ですか?

京都見廻組の佐々木只三郎らの一隊とする説が最も広く受け入れられていますが、確定はしていません。新選組説や紀州藩説などもあります。

陸援隊とは何ですか?

慶応3年7月に、慎太郎が京都郊外の土佐藩邸に浪士を集めて結成し、自ら隊長になった組織です。隊士は約50名とも約70名ともいわれ、十津川郷士も加わりました。