田中角栄 日本史トリビア

戦後日本の政治を牽引した田中角栄。その最期については意外と知られていない部分も多い。彼はどのような最後を迎え、直接の病名は何だったのか。かつての「今太閤」と呼ばれた輝かしい功績の裏側で、どのような闘病生活を送っていたのかを詳しく見ていく必要がある。

1985年に脳梗塞で倒れて以来、彼は長きにわたる闘病生活を余儀なくされた。かつての「闇将軍」としての強大な影響力は影を潜め、沈黙の日々が続いたのである。言葉を失いながらも、彼は必死に再起の道を模索し続け、孤独な戦いに身を投じていた。

晩年の彼は言葉を自由に操ることができなくなりながらも、家族の支えを受けながら懸命に生きた。その執念は、まさに「戦後最大の政治家」と呼ぶにふさわしいものであった。家族の愛と、過去の栄光に包まれながら、彼は静かに人生の黄昏時を過ごしていた。

田中角栄の死因となった肺炎の詳細や、病床での様子、そして彼が残した歴史的遺産を紐解いていくことは、戦後史を理解する上で欠かせない。複雑な政治的な背景とともに、彼の人生の幕引きを丁寧に解き明かそう。彼の最期を知ることで、戦後日本という時代の本質が見えてくるはずだ。

田中角栄の死因と最期までの病状の推移

1985年の脳梗塞発症が招いた政治生命の終わり

1985年2月27日、田中角栄を襲った脳梗塞は彼の人生を劇的に変えた。この直前、自民党内では竹下登らによるグループが結成され、自らの派閥が分裂の危機に瀕していた。その精神的ストレスが発症の大きな要因となったと言われている。

脳梗塞により、彼は右半身の麻痺と言語障害を患うことになった。それまで「コンピュータ付きブルドーザー」と称された圧倒的な弁舌は、この瞬間に失われてしまったのである。入院直後から政治活動は不可能となり、長年守り続けてきた権力は急速に衰えていった。

公の場から姿を消した彼は、東京都内にある慶應義塾大学病院などで長期の療養生活に入った。一時は回復を信じてリハビリに励んだが、政界への復帰はついに叶わなかった。この脳梗塞の発症こそが、肉体的な衰えだけでなく、政治家としての終焉を告げる重大な出来事となった。

彼は病床にあってもなお、自らの影響力が失われていくことを肌で感じていたはずだ。鉄の結束を誇った派閥が切り崩されていく様を見守るしかなかった日々の悔しさは、想像に難くない。かつての輝きを失い、沈黙を守らざるを得なかった晩年の始まりが、この日の発症だったのである。

失語症との闘いと過酷なリハビリテーションの日々

脳梗塞の後遺症で最も彼を苦しめたのは、意思疎通が困難になる失語症であった。雄弁を武器に国を動かしてきた彼にとって、言葉を奪われることは何よりも辛い経験だったに違いない。それでも彼は、再起をかけて懸命にリハビリテーションに取り組んでいた。

病院での生活は厳重に管理され、外部との接触は極端に制限されていた。その中で、長女である田中眞紀子氏の献身的な介護が、彼の唯一の心の拠り所となっていた。彼女は父の尊厳を守るため、病状が安易に世間に漏れることを防ぎつつ、最善の医療環境を整えるために奔走したのである。

療養中の彼は、新聞やテレビを通じて常に世の中の動きを追っていた。時には激しい怒りを見せることもあったが、かつてのように直接的な指示を飛ばすことはできなかった。孤独な闘病生活は8年以上に及び、沈黙の中で自らの政治人生を振り返る日々が続いた。

このように、晩年の彼は肉体の不自由さと静かに戦いながら、最期の時を待っていたのである。側近たちが見舞いに訪れることも稀になり、かつての賑わいが嘘のような静寂に包まれていた。それは、一時代を築き上げた者だけに訪れる、あまりにも過酷で孤独な時間の経過であった。

1993年12月の容態急変と肺炎を併発した経緯

1993年12月に入ると、田中角栄の健康状態は限界を迎えた。16日の午後2時4分、彼は慶應義塾大学病院にて75年の生涯に幕を閉じたのである。直接の死因は肺炎であったが、その発端となったのは、喉に痰が詰まったことによる急激な呼吸不全であった。

脳梗塞の後遺症により、彼は自力で痰を吐き出す力が著しく弱まっていた。肺に炎症が広がり、高熱が続く中で、ついに身体の抵抗力が尽きてしまったのである。当時の報道によれば、最期は苦しむことなく、家族に見守られながら眠るように息を引き取ったとされている。

実は、彼は以前から糖尿病や甲状腺に関する持病も抱えていた。長期の療養で全身の機能が低下していたことが、今回の肺炎を致命的なものにした要因と言える。戦後最大の権力者と呼ばれた巨人も、最後は病魔という抗えない力に屈することとなった。全盛期とは対照的な最期であった。

しかし、その死は日本中に大きな衝撃を与え、昭和という時代が完全に終わったことを人々に実感させた。死の直前まで彼は自らの信念を失わず、家族の愛に包まれて旅立ったのである。喉の痰という、小さな原因が巨人の命を止めた事実は、生命の儚さを物語っているようであった。

田中角栄の死因から見るロッキード事件の結末

被告人の死亡による公訴棄却と裁判の未完の終焉

田中角栄の死は、法的にも重大な意味を持っていた。彼が亡くなった当時、ロッキード事件を巡る裁判はまだ終わっておらず、最高裁判所に上告中であった。しかし、日本の刑事訴訟法の規定により、被告人が死亡すると裁判を継続することができなくなる。

その結果、最高裁は「公訴棄却」という決定を下した。これは有罪や無罪の判断を下すのではなく、裁判そのものを法的に打ち切るという手続きである。一審と二審では実刑判決が出ていたが、確定判決が出る前に本人が亡くなったことで、法的な結末はつかないままとなった。

彼自身は最後まで無罪を主張し続けており、法廷での名誉回復を望んでいたとされる。しかし、死によってその機会は永遠に失われてしまった。この未完の終焉は、支持者にとっては無念の結末となり、批判者にとっては真実の解明が阻まれたという大きな不満を残すことになった。

戦後最大の疑獄事件と呼ばれたロッキード事件は、こうして主役の死という形であやふやな結末を迎えたのである。司法の判断が下されないまま歴史の闇に消えた部分は多いが、本人の死によってすべての公訴が取り消された事実は、法の下における平等の原則を示すものでもあった。

刑事被告人の立場が影響した位階勲章授与の見送り

総理大臣を務めた人物が亡くなった際、通常であれば正二位などの位階や勲章が授与されるのが日本の慣例である。しかし、田中角栄に対しては、これらの栄誉が一切与えられることはなかった。その最大の理由は、彼がロッキード事件の刑事被告人のまま亡くなったことにある。

たとえ政治的功績が大きくても、司法の場での潔白が証明されていない人物に国家としての名誉を授けることは適切ではないと判断されたのである。これは当時の政府内でも議論があったが、最終的には法の厳格性と世論の動向を重んじる結果となり、授与の見送りが決定された。

日中国交正常化や日本列島改造など、彼が成し遂げた仕事は日本の近代化に多大な貢献をした。しかし、金権政治のイメージと刑事被告人という立場が、その功績を公に認めることを阻んだのである。勲章が贈られなかった事実は、彼の人生がいかに毀誉褒貶に満ちていたかを象徴している。

彼は形式的な栄誉を手にすることなく、一人の民間人として歴史の中に刻まれることになった。これは、権力者の最期としては寂しいものかもしれないが、同時に彼が生きた激動の時代の厳しさを物語っている。栄光と挫折が入り混じったまま、彼はその幕を閉じることになったのである。

現代日本に語り継がれる「角栄ブーム」と残された教訓

没後30年以上が経った今でも、田中角栄という名前は多くの日本人の記憶に強く残っている。書店には彼のリーダーシップを説く本が並び、その決断力や人間的な魅力に注目が集まる「角栄ブーム」が起きている。現代の政治家にはない力強さへの憧れが、再評価を後押ししているのだ。

彼の死因となった肺炎や脳梗塞の影には、激動の昭和を駆け抜けた者の壮絶な疲労が隠されていた。死してなおこれほどまでに語り継がれる政治家は、後にも先にも彼一人と言っても過言ではないだろう。多くの人々が、彼の成し遂げた事業の恩恵に預かりながら、今も生活を営んでいる。

しかし、私たちが彼から学ぶべきは、単なる懐古的な賛美ではない。彼が目指した国土の均衡ある発展という理想と、一方で招いた政治の透明性の欠如という教訓を、セットで考える必要がある。彼の死によって幕を閉じた「昭和の政治」を見つめ直すことは、未来を考える上での重要な指針だ。

田中角栄という巨人が残した足跡は、今もなお私たちの社会の至るところに刻まれている。その最期を知ることは、彼という人間が何を信じ、何に敗れたのかを理解することに繋がる。死という終着点を超えて、彼の思想や実行力は、現代を生きる私たちに問いを投げかけ続けているのである。

まとめ

  • 田中角栄の直接の死因は、重度の肺炎による呼吸不全であった。

  • 1993年12月16日午後2時4分、慶應義塾大学病院で息を引き取った。

  • 1985年に発症した脳梗塞が、健康状態を悪化させる最大の起点となった。

  • 脳梗塞の後遺症により失語症を患い、政治家としての影響力を失った。

  • 晩年は糖尿病や甲状腺に関する持病も抱え、体力が著しく低下していた。

  • 喉に詰まった痰を自力で吐き出せなかったことが、肺炎の発端となった。

  • 長女の田中眞紀子氏ら家族による献身的な介護が、闘病を支えた。

  • 逝去により上告中だったロッキード事件の裁判は公訴棄却となった。

  • 刑事被告人のまま亡くなったため、位階や勲章の授与は見送られた。

  • 彼の死は昭和の政治の終焉を象徴し、今もなお多くの教訓を残している。