結論:本名は「森林太郎」、遺言で「鷗外」を捨てて本名で死ぬことを望んだ
森鴎外の本名は「森林太郎(もり りんたろう)」です。「鷗外」は筆名で、石見国津和野(現在の島根県津和野町)の藩医の家に生まれた林太郎が、軍医と作家の二つの顔を持つなかで使った名前でした。
1922年(大正11年)7月6日付の遺言は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まります。この遺言により、墓には「鷗外」の号も、生前の肩書も刻まれず、「森林太郎ノ墓」の文字だけが刻まれました。
なお、筆名「鷗外」の由来は、今回確認できた Wikipedia(日本語版・英語版)と森鷗外記念館の公式ページには書かれていません。巷には由来を語る話がありますが、確かめられないものは、この記事では取り上げません。
基本情報
- 本名:森林太郎(もり りんたろう)。筆名は森鷗外(「鴎外」とも表記される)
- 生没年:文久2年1月19日(1862年2月17日)生まれ、1922年(大正11年)7月9日没、満60歳(日本語版 Wikipedia による。英語版は7月8日としており、資料で日付が分かれている)
- 出身:石見国鹿足郡津和野町田村(現在の島根県鹿足郡津和野町)
- 家柄:代々津和野藩の典医を務めた森家。禄高は50石
- 時代:江戸末期から大正時代
- 立場:陸軍軍医、作家。陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭、帝国美術院初代院長などを務めた
- 死因:腎萎縮と肺結核
本名「森林太郎」と医師としての生涯
津和野藩の典医の家に生まれる
林太郎が生まれたのは1862年、石見国津和野の田村です。森家は代々津和野藩の典医、つまり藩主やその家族を診る医師の家柄で、禄高は50石でした。祖父と父は婿養子として家に入っており、林太郎は森家にとって久しぶりの跡継ぎだったと記されています。
生まれた町を離れたのは、まだ少年のころです。翌年に残る家族も住居などを売却して津和野を去り、父が医院を営んでいた千住(東京)に移り住みました。
ドイツ留学と軍医の道
林太郎は1884年(明治17年)に留学生の一人としてドイツへ渡りました。滞在先はライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで、細菌学者のコッホにも師事しています。留学中の日記は『獨逸日記』として残っています。1888年に帰国するまでの約4年間は、のちの作家活動の土台にもなりました。
陸軍軍医のトップへ
1907年(明治40年)から1916年(大正5年)4月まで、林太郎は陸軍省医務局長(第7代)を務めました。陸軍の医療部門の最高位にあたり、英語版 Wikipedia は、中将に相当する地位だったと紹介しています。陸軍省医務局長を約8年半勤めたのち、予備役に編入されました。
この間、公の場では本名の「森林太郎」で職務にあたり、小説や評論は「鷗外」の名で発表するという使い分けがあったと見るのが自然ですが、使い分けの具体的な経緯は今回確かめた資料には書かれていません。
筆名「鷗外」と家族の名前に見る名づけ
「鷗外」の由来は確かめられなかった
千住の渡し場にちなむ説や、漢詩や友人の名から取ったとする説は、よく語られます。ただし、日本語版 Wikipedia の森鷗外の項目には、号の由来についての記述がありません。英語版にも書かれておらず、記念館の公式ページにも見当たりませんでした。そのため、どの説が有力かは、この記事では判断しません。確かなのは、「鷗外」が本名ではなく筆名だという点です。
観潮楼で過ごした後半生
1892年、林太郎は東京府本郷区千駄木(現在の東京都文京区)に邸宅「観潮楼」を建て、後半生をここで過ごしました。建物は現存せず、跡地には文京区立森鷗外記念館があります。所在地は文京区千駄木1丁目23番4号です。
子どもたちの名前は「世界に通用する名前」
林太郎の子どもには、長男の於菟(おと)、長女の茉莉(まり)、二男の不律(ふりつ)、次女の杏奴(あんぬ)、三男の類(るい)がいます。英語版 Wikipedia は、於菟は最初の妻・赤松登志子との子で、茉莉・不律・杏奴・類は後妻の志げとの子と記しています。
日本語版 Wikipedia によると、これらの名前は当時としては珍しいものでした。林太郎という自分の名前が外国人に発音しにくかったため、「世界に通用する名前にしよう」としたことが理由とされています。ドイツ留学の経験が、子どもの名づけにも影響したことがうかがえます。
遺言「石見人森林太郎」と墓に刻まれた文字
最期の経過
1922年6月29日に萎縮腎と診断された林太郎は、7月9日の午前7時すぎに亡くなりました。死因は腎萎縮と肺結核で、満60歳でした。当時は宮内省で帝室博物館総長兼図書頭を務め、帝国美術院の初代院長にも就いていました。宮内省図書頭としては、天皇の諡や元号の考証・編纂にも着手していました。
遺言は「石見人森林太郎」で始まる
死の3日前の7月6日付の遺言は、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という一文で始まります。石見は津和野のある旧国名です。陸軍軍医のトップまで進み、宮内省の要職にもあった人物が、最後に名乗ったのは、官職でも筆名でもなく、生まれた土地と本名でした。
墓碑と、いまの墓所
遺言どおり、墓には「鷗外」の号も、生前の肩書も刻まれず、「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれました。墓碑銘の筆は、中村不折が執っています。戒名は「貞献院殿文穆思斎大居士」です。
墓は当初、東京市本所区の弘福寺にありました。関東大震災のあと、1927年(昭和2年)に三鷹市の禅林寺に移されています。また、分骨された墓が出生地の津和野町の永明寺にもあります。
ゆかりの地と関連する人物
- 津和野(島根県津和野町):生誕地。津和野藩の典医の家に生まれ、少年期までを過ごした。分骨された墓が永明寺にある
- 千住(東京都):津和野を離れた一家が、父の医院のある土地として移り住んだ
- 観潮楼の跡地(文京区千駄木):1892年に建てた邸宅の跡で、文京区立森鷗外記念館が建つ
- 禅林寺(東京都三鷹市):1927年に墓が移された寺。墓碑には「森林太郎ノ墓」とある
- 中村不折:遺言により、墓碑銘の筆を執った
- コッホ:ドイツ留学中に林太郎が師事した
よくある質問
森鴎外の本名は何ですか?
本名は「森林太郎」で、読みは「もり りんたろう」です。「森鷗外」は筆名です。
「鷗外」という名前の由来は何ですか?
由来は、Wikipedia(日本語版・英語版)や森鷗外記念館の公式ページには書かれておらず、確かめられませんでした。
遺言には何と書かれていましたか?
1922年7月6日付の遺言は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まります。遺言により、墓には「鷗外」の号も生前の肩書も刻まれませんでした。
墓にはどんな文字が刻まれていますか?
「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれています。墓碑銘の筆は中村不折です。墓は三鷹市の禅林寺にあり、津和野町の永明寺にも分骨された墓があります。
子どもの名前はなぜ変わっていたのですか?
「林太郎」が外国人に発音しにくかったため、「世界に通用する名前にしよう」としたことが理由とされています。




