水野忠邦の天保の改革はなぜ失敗した?やったことを簡単に解説

水野忠邦が主導した天保の改革は、江戸時代の終わりを告げるような大きな出来事だった。徹底した倹約や厳しいルールで世の中を立て直そうとしたが、なぜかうまくいかず、水野忠邦も失脚してしまう。

この記事では、天保の改革がどんなことをやったのか、なぜ失敗に終わったのかをわかりやすく解説する。当時の社会の様子や、水野忠邦がどんな人だったのかを知ると、歴史がもっと面白くなるだろう。

この記事のポイント
  • 天保の改革は、江戸時代の「内憂外患」という二つの大きな危機を乗り越えようとした幕府の最後の試みだった。
  • 改革のリーダー、水野忠邦は強い野心と行動力で老中のトップに上り詰めた。
  • 改革の厳しい政策は、庶民や商人の生活を苦しめ、かえって不景気や混乱を招いた。
  • 幕府の権威をかけた「上知令」は、大名や旗本の猛反対で撤回され、水野忠邦失脚の直接の原因となった。
  • 天保の改革の失敗は、幕府が時代の変化に対応できなくなっていたことを示し、幕末の動乱を加速させるきっかけとなった。

天保の改革、その始まりと水野忠邦の野心

時代の危機に立ち向かう

天保の改革は、江戸時代後期の天保年間(1830年から1844年)に、幕府を立て直すために行われた大規模な改革だ。江戸時代の三大改革の一つにも数えられている。この改革が始まった背景には、当時の日本が直面していた二つの大きな危機、「内憂」と「外患」があった。「内憂」とは、国内の深刻な問題のことだ。幕府の財政は破綻寸前で、天保の大飢饉によって物価は上がり、全国で一揆や打ちこわしが激しくなっていた。人々は貧困にあえぎ、社会は不安定になっていたのだ。

「外患」とは、外国からの脅威のことだ。イギリスやロシアなど、外国の船が日本の近くにたびたび現れるようになり、鎖国を続ける幕府にとって大きなプレッシャーになっていた。特に、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたというニュースは、日本に大きな衝撃を与え、「このままでは日本も危ない」という危機感を幕府に抱かせた。

天保の改革は、これらの複合的な危機を克服し、なんとか幕府の支配を続けようとする、最後の本格的な試みであった。水野忠邦は、この改革を指揮するリーダーだった。

水野忠邦はどんな人だった?

水野忠邦は、もともと肥前唐津藩(今の佐賀県)の藩主の次男として生まれた。次男ながらも家督を継ぎ、19歳で藩主になると、すぐに藩の政治を立て直した。若い頃から、優れた政治の才能と強いリーダーシップを発揮していたことがわかる。

彼は、幕府の中心で政治を動かす「老中」になることを強く望んでいた。唐津藩主は長崎の警備を担当する決まりがあり、その役職にいると老中になれないというルールがあった。そこで忠邦は、あえて石高(米の生産量)が少ない遠江浜松藩(今の静岡県)への転封(引っ越し)を願い出たのだ。石高が減るにもかかわらず、自分の野心のために転封を選ぶなんて、すごい覚悟だ。

浜松藩主になった忠邦は、その後も順調に幕府の要職を歴任し、ついに幕府のトップである老中首座にまで上り詰めた。彼がここまで上り詰めることができたのは、単に能力があっただけでなく、幕府の慣例や派閥をよく理解し、戦略的に行動したからだ。彼の個人的な野心こそが、天保の改革を推し進める大きな原動力となった。

私が水野忠邦の立場だったとしたら、減封までしてまで老中になりたいと思えただろうか。きっと、彼には幕府の未来をなんとかしなければならないという強い使命感があったのだろう。しかし、その強すぎる信念が、後に庶民の反感を買うことになるとは、この時は誰も知らなかった。

天保の改革で水野忠邦が「やったこと」を簡単に解説

庶民の生活まで厳しく取り締まった倹約令

水野忠邦が改革でまず行ったのが、徹底的な「綱紀粛正」と「倹約令」だ。これは、先代将軍である徳川家斉の時代に、政治が乱れて贅沢な暮らしが広がったことを問題視したためである。

忠邦は、華やかな着物や贅沢な食事を禁止し、庶民の娯楽にも厳しく制限を加えた。寄席の数を減らしたり、歌舞伎座を浅草に移転させたりした。さらに、高価な絹製品や櫛、かんざし、金銀の装飾品、さらには季節の「初物」(その季節に初めて収穫されたもの)の売買まで禁止した。

こうした厳しい取締りは、当時の人々から「急に世の中が変わって、武士も農民も商人も職人も、みんな震え上がった」と言われるほどだった。しかし、この厳しすぎるルールは、人々の生活から楽しみを奪い、経済活動を停滞させてしまった。物も売れなくなり、深刻な不景気を引き起こしてしまったのだ。

農民を無理やり田舎に帰らせた「人返しの法」

当時の社会では、貧しい農民が農村を離れて江戸のような都市に流れ込むことが問題になっていた。忠邦は、こうした人々を強制的に故郷に帰らせる「人返しの法」を出した。これは、農村を立て直して、幕府の収入源である米の生産を増やそうという狙いがあった。

しかし、この法律は、すでに都市で新しい生活を始めていた農民たちや、働き手が減って困っていた農村の人々から猛反発を受けた。この法律は、結局ほとんど効果がなく、水野忠邦が失脚するとすぐに廃止されてしまった。

物価を混乱させた株仲間の解散

忠邦は、物価が高くなった原因の一つに、特定の商人グループが流通を独占している「株仲間」があると考えた。そこで、すべての株仲間に解散を命じたのだ。

しかし、この政策は逆効果だった。株仲間が解散したことで、流通の仕組みがめちゃくちゃになり、かえって物価がさらに上がってしまった。これは、忠邦が当時の経済の仕組みをちゃんと理解していなかったことを示している。

貨幣の価値を下げてしまった「悪貨」の発行

幕府の財政が苦しかったため、忠邦は「天保通宝」という新しいお金を発行した。これは、実際の重さに対して高い価値をつけていたため、「悪貨」と呼ばれた。このお金を発行することで、幕府は一時的にたくさんのお金を手に入れた。

しかし、これも長くは続かなかった。お金の価値が下がったことで、金や銀の相場は混乱し、物価はさらに高くなった。商人たちの取引も低迷して、人々の生活はますます苦しくなったのだ。この政策は、目先の利益を優先した結果、長期的な経済の安定を損なった典型的な例だと言えるだろう。

外国の脅威への対応:対外政策の転換

アヘン戦争で清がイギリスに負けたという情報が伝わると、忠邦はこれまでの「異国船打払令」(外国の船を見つけたら問答無用で追い払うという厳しい命令)を緩め、「薪水給与令」を出した。これは、外国の船に燃料や水、食料を与えて、平和的に立ち去らせるという方針に転換したものだ。

また、西洋の技術を学ぶため、西洋式の砲術を研究していた高島秋帆という人物を登用し、西洋式の大砲や銃を導入しようとした。しかし、これも忠邦が失脚した後に、高島秋帆が投獄されるなど、結局は進まなかった。幕府は外国の脅威を認識し始めてはいたが、内部の対立や保守的な勢力のせいで、本格的な軍事改革には踏み切れなかったのだ。

水野忠邦失脚の原因となった「上知令」

天保の改革の最後にして最大の政策が「上知令」だった。これは、江戸と大坂の周辺にある大名や旗本の領地を幕府が取り上げ、代わりに別の土地を与えるという、とんでもない内容だった。

忠邦の狙いは、幕府の直轄領を増やして財政を強くすることと、万が一外国と戦争になったときに江戸を守るための準備だった。しかし、これは大名や旗本たちの既得権益を直接奪うものだったため、彼らは猛反対した。この反対はあまりに激しく、最終的には将軍の徳川家慶でさえ撤回を命じるほどだった。

この「上知令」の撤回が、水野忠邦が失脚する直接の原因となった。この失敗は、幕府がもはや大名たちを思うように動かせないほど、その権威が弱まっていたことをはっきりと示していた。

天保の改革が失敗した本当の理由と歴史的評価

なぜうまくいかなかったのか?

天保の改革が失敗した理由は、当時の社会の現実を無視した「復古的な政策」に固執したことだ。水野忠邦は、享保の改革や寛政の改革をお手本にしようとした。しかし、その頃の社会と天保の時代の社会は大きく変わっていた。

天保の時代には、貨幣経済が日本中に深く浸透し、経済の仕組みが複雑になっていた。それなのに、忠邦は古い「米」を中心とした経済に戻そうとしたり、株仲間を解散させて流通を混乱させたりした。まるで、スマートフォンが普及した時代に、昔の黒電話を使わせようとするようなものだ。

さらに、彼の改革は、庶民の生活から楽しみや自由を奪うような強圧的なやり方だった。その結果、武士から農民、商人、庶民まで、あらゆる階層の人々から強い反感を買い、支持を得ることができなかった。水野忠邦が失脚したとき、怒った庶民が彼の屋敷を取り囲んで石を投げつけたという出来事は、改革に対する人々の不満がどれだけ溜まっていたかを物語っている。

幕府の力の限界を露呈させた改革

上知令の失敗は、幕府の権力が大きく衰えていたことを白日の下に晒した。将軍の命令をもってしても、大名たちの反対を抑えられなかったことは、幕府が全国を支配する絶対的な権威を失いつつあったことを示している。

天保の改革は、幕府が自力で体制を立て直すことがもう困難になっていたことを証明してしまった。この失敗を機に、幕府の権威はさらに低下し、幕末の動乱期へと向かう流れを加速させた。

一方で、幕府の改革が失敗する中で、長州藩や薩摩藩といった一部の有力な藩(雄藩)は、独自の改革を進めて力を蓄えていた。彼らが幕末に幕府と対立するほどの力をつける土壌を、天保の改革の失敗が作ったとも言えるだろう。

天保の改革は、社会の変化を理解せず、時代に逆行しようとした政策が、いかに人々の反発を買い、失敗に終わるかということを私たちに教えてくれる。そして、この失敗こそが、260年以上続いた江戸幕府が、いよいよ終わりに近づいていることをはっきりと示した出来事だったのだ。

水野忠邦に関するよくある質問

Q1: 水野忠邦はなぜ天保の改革を始めたのですか?

A1: 幕府の財政が破綻寸前で、天保の大飢饉による物価高騰、各地での一揆や打ちこわしが頻発した「内憂」と、外国船の来航という「外患」という二つの大きな危機を乗り越え、幕府の支配を立て直すためである。

Q2: 天保の改革で行われた主な政策は何ですか?

A2: 綱紀粛正のための厳しい倹約令、都市に流入した農民を故郷に帰らせる「人返しの法」、流通を混乱させた「株仲間の解散」、そして水野忠邦失脚の原因となった「上知令」などである。

Q3: 天保の改革の失敗を簡単に言うと?

A3: 時代の変化に対応できなかったからだ。当時の社会はすでに貨幣経済が浸透していたのに、改革は古い「米」を中心とした経済に戻そうとしたり、強引なやり方で人々の反感をかったりしたため、結局は失敗に終わった。

Q4: なぜ天保の改革は幕府の終焉につながったのですか?

A4: 改革の失敗、特に「上知令」の撤回によって、幕府がもはや大名たちを思うように動かせないほど権威が低下していることが明らかになった。これにより、幕府の弱体化が加速し、幕末の動乱期へと向かう流れを作ってしまったからである。

Q5: 天保の改革は「失敗」という評価が一般的ですか?

A5: はい、歴史学では一般的に「失敗」と評価されている。一時的に幕府の財政を潤す効果はあったが、社会の構造的な変化に対応できず、かえって社会の混乱を招いたからだ。

まとめ

天保の改革は、水野忠邦という強力なリーダーが主導した、幕府の存続をかけた最後の本格的な試みであった。しかし、時代の変化を読み切れず、強引な政策を推し進めた結果、失敗に終わった。この失敗は、幕府の権威を大きく低下させ、幕末の動乱を加速させるきっかけとなった。

この記事を読んで、天保の改革についてもっと詳しく知りたいと思った方は、ぜひ水野忠邦の側近であった鳥居耀蔵や遠山景元(遠山の金さん)について調べてみてほしい。彼らの物語から、当時の社会の裏側や、改革の厳しさがより鮮明に見えてくるだろう。