結論:森鴎外は陸軍軍医の最高位に就き、『舞姫』で知られる作家でもあった人物
森鴎外(本名・森林太郎)は、1862年に石見国津和野(現在の島根県津和野町)の藩医の家に生まれ、1922年に満60歳で亡くなった。陸軍では1907年に軍医総監となり、陸軍省医務局長を務めた。一方で、ドイツ留学の経験をもとにした小説『舞姫』(1890年)を発表して以来、小説や翻訳を書き続けた。
軍医と作家という二つの顔は、よく知られている。ただし、「年齢を偽って大学に入った」「脚気の被害を広げた」「潔癖症で風呂に入らなかった」「子どもの名は西洋人が読めるように付けた」といった話は、どこまでが資料で言えることなのか、整理して読む必要がある。この記事では、そうした逸話を一つずつ確かめていく。
基本情報
- 生没年:文久2年1月19日(1862年2月17日)〜大正11年(1922年)7月9日
- 出身:石見国津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)、藩医の家の長男
- 時代:明治〜大正時代
- 立場:陸軍軍医(1907年に軍医総監・陸軍省医務局長)、作家、翻訳家。のちに帝室博物館総長兼図書頭、帝国美術院の初代院長
- 主な作品:『舞姫』『ヰタ・セクスアリス』『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』
- 死因:萎縮腎(腎萎縮)と肺結核
森鴎外はどんな人?エリート軍医と作家の二つの顔
年齢を偽って入学したのは本当か
鴎外が1873年に東京医学校予科へ入ったとき、実年齢より2歳多く偽ったことは、Wikipedia に書かれている。当時の満年齢は11歳10か月だった。つまり「年齢を偽った」という話は本当で、偽ったのは2歳分ということになる。
その後、1881年7月に東京医学校本科を卒業した。席次は8番で、首席ではない。同年12月に陸軍軍医副となり、軍医としての経歴が始まった。「神童」の逸話が語られがちだが、卒業順位だけを見れば、飛び抜けた首席だったわけではない点は覚えておきたい。
留学から軍医総監まで、二つの顔の年表
1884年から1888年にかけて、鴎外はドイツに留学した。滞在先はライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンである。帰国後の1890年1月、留学中の経験を素材にした『舞姫』を雑誌『国民之友』に発表した。帰国直後にドイツ人女性が来日し、約1か月で離日した出来事が、この小説の素材の一つとされている。
1904年から1906年には、日露戦争で第2軍の軍医部長として出征した。1907年10月に軍医総監となり、1916年4月に医務局長を退いて予備役に入る。作家としての転機は1912年9月で、乃木希典の殉死に影響を受けて「興津弥五右衛門の遺書」を書き、そこから「阿部一族」「高瀬舟」「山椒大夫」などの歴史小説へ進んだ。
1916年1月から5月には、史伝『渋江抽斎』を新聞に連載した。連載当時は読者や編集者からの評判が悪かったとされる。
脚気論争:鴎外はどう関わったのか
軍医としての鴎外について、最も議論が分かれるのが脚気をめぐる問題である。海軍の高木兼寛らが食事(兵食)の改善で脚気を減らそうとしたのに対し、鴎外は白米食を擁護する立場をとり、両者は対立した。1901年には、麦飯で脚気が減ったとする見解に反論する論文を発表している。この論文については、根拠が乏しいという指摘がある。
日露戦争では、陸軍が麦飯への切り替えに消極的だったと批判されている。Wikipedia には、陸軍の脚気患者が約25万人、死者が約2万7千人にのぼったとする記述がある。鴎外は1916年まで臨時脚気病調査会の会長を務めた。
ここで注意したいのは、書けるのは「立場」と「批判の存在」までだという点だ。陸軍全体の判断に鴎外個人がどれだけ責任を負うのかは、この記事で確かめた資料の範囲では言い切れない。脚気は、いまではビタミンB1の欠乏によって起こる病気とされている。原因が分かっていなかった時代の論争であることも、あわせて押さえておきたい。
「石見人森林太郎」の遺言は何を意味するか
鴎外の遺言は、1922年7月6日付で、友人の賀古鶴所に代筆を頼んだものだ。冒頭は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という一文で始まる。墓には号や階級などを記さず、「森林太郎ノ墓」とだけ刻むよう指定した。軍医総監という官職も、作家としての名も、墓石には残さないということである。
鴎外は1872年に父とともに上京し、翌1873年には家族も津和野の家を売って上京した。その人が、最後に「石見人」と名乗ったことになる。
一方で、Wikipedia の注釈には、遺言の信憑性や、叙爵(爵位や位を与えられること)への執着を疑う見解も紹介されている。遺言の翌日には大正天皇と貞明皇后から葡萄酒が下賜され、その後、従二位に叙せられている。「すべての肩書きを捨てた」と単純に読む説と、疑問を示す説があり、遺言の真意は一つに決めにくい。
森鴎外の素顔:潔癖症・甘党・子どもの名前の真相
潔癖症と「風呂嫌い」の中身
細菌学・衛生学を究めたあと、鴎外はパスツールと同じように潔癖症になったとされる。果物も加熱しないと食べられず、煮て砂糖をかけたものを好んだという。
入浴についても独特だった。風呂を湯の無駄、細菌の温床とみなして嫌い、金盥(かなだらい)を使って、一日2回、手拭いで体を清めていた。「風呂に入らなかった」という言い方は雑だが、湯に浸かる習慣を嫌い、体を拭く方法で清潔を保っていたと言える。
甘党と「饅頭茶漬け」
鴎外は酒が飲めず、あんこ、汁粉、木村屋のあんぱん、焼き芋を好んだ。宮中で出たデザートを、子どもへの土産に隠し持ち帰ることもあったという。
有名な「饅頭茶漬け」は、ご飯の上に四等分にした饅頭をのせ、お茶をかけて混ぜ溶かして食べるものだ。「渋く粋な甘味」と評されている。変わった食べ方に見えるが、本人は好んで食べていた。
子どもたちの名前は何を意図したのか
鴎外の子は、長男の於菟(おと)、長女の茉莉(まり)、次女の杏奴(あんぬ)、二男の不律(ふりつ)、三男の類(るい)の5人である。二男の不律は1908年に亡くなっている。
これらの名前は、本人の名「林太郎」が外国人に発音しづらかったことから、世界に通用する名にする意図で付けられたとされる。「とされる」と書くのは、名付けの意図を鴎外自身が説明した文を、この記事で確かめられていないためである。孫の名も鴎外が付けたとされ、「爵」ではなく「雀」の字から採ったという。
文芸誌『スバル』と若い書き手たち
鴎外は雑誌『スバル』に「椋鳥通信」を1909年から1913年まで連載した。「ヰタ・セクスアリス」も1909年7月の『スバル』に載ったが、掲載号は発売禁止処分を受けている。官僚として高い地位にいながら、発禁になる作品を書いていたことになる。
ゆかりの地と関連する人物
- 津和野(島根県津和野町):生家の森鴎外旧宅は、1969年に国の史跡に指定された。木造平屋建てで、堀跡沿いの道に面している。上手の4畳半の茶室は、父が鴎外の勉強部屋として与えたものといわれる。
- 文京区立森鷗外記念館(東京都文京区千駄木):鴎外は1892年に千駄木に観潮楼を建て、後半生を過ごした。観潮楼は現存せず、跡地一帯に記念館がある。
- 禅林寺(東京都三鷹市):鴎外の墓所。はじめは本所区の弘福寺に埋葬され、1927年に三鷹の禅林寺へ移された。太宰治も、希望どおり鴎外の墓のはす向かいに埋葬されている。
- 乃木希典:1912年の殉死が、鴎外が歴史小説へ進む転機になった。
- 賀古鶴所:遺言の代筆を頼まれた友人。
- 高木兼寛:脚気をめぐり、食事の改善を主張して鴎外と対立した海軍の人物。
よくある質問
森鴎外は何をした人ですか?
陸軍の軍医として1907年に軍医総監まで昇った人物で、同時に『舞姫』『高瀬舟』『渋江抽斎』などを書いた作家でもある。
鴎外は本当に年齢を偽って入学したのですか?
本当である。1873年に東京医学校予科へ入るとき、実年齢より2歳多く偽った。当時は満11歳10か月だった。
鴎外の死因は何ですか?
1922年7月9日に満60歳で亡くなり、死因は萎縮腎(腎萎縮)と肺結核とされる。
墓には何と刻まれていますか?
遺言の指定により、号や階級を記さず「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれている。墓所は三鷹市の禅林寺である。
脚気の被害は鴎外のせいですか?
鴎外が白米食を擁護する立場をとり、麦飯への切り替えに消極的だったと批判されているのは事実である。ただ、陸軍全体の判断に個人がどこまで責任を負うかは、この記事の資料の範囲では言い切れない。




