結論:鶴松は秀吉53歳での待望の子で、数え3歳で亡くなった後継ぎ
豊臣鶴松は、豊臣秀吉と淀殿(茶々)の間に生まれた男子で、天正19年8月5日(1591年9月22日)に数え3歳で亡くなりました。死因は、確かめた資料には確定したものが書かれていません。
天正17年5月27日(1589年7月9日)に山城の淀城で生まれ、淀城で亡くなっています。秀吉は誕生の時点で53歳で、鶴松を後継者にしようと期待していました。病の知らせに全国の神社仏閣へ平癒の祈祷を命じ、天下の名医も集めたとされます。それでも命は救えず、豊臣家は後継ぎを失いました。
この記事では、鶴松の名前の由来、短い生涯の足取り、秀吉の悲しみ、死後に起きたこと、そして墓所のある京都・妙心寺について、Wikipedia で確かめられた事実の範囲でまとめます。
基本情報
- 生年:天正17年5月27日(1589年7月9日)
- 没年:天正19年8月5日(1591年9月22日)、数え3歳
- 時代:安土桃山時代
- 立場:豊臣秀吉の子(後継者として期待された)
- 父母:父は豊臣秀吉、母は淀殿(浅井長政の娘)
- 幼名:棄(すて)。棄丸(捨丸)、於棄とも呼ばれた。通称は八幡太郎
- 法名:祥雲院殿玉厳麟公神童
- 生誕・没地:淀城(山城)
- 墓所:京都市右京区の妙心寺塔頭・玉鳳院の傍ら(祥雲院霊廟)
豊臣鶴松の誕生と短い生涯
父は豊臣秀吉、母は淀殿
鶴松の父は豊臣秀吉、母は浅井長政の娘である淀殿です。秀吉は鶴松が生まれたとき53歳でした。
「棄」と名付けられた理由
鶴松の幼名は「棄(すて)」でした。これは、棄て児はよく育つという民間信仰にちなんだ名付けとされています。わが子に「棄」と付けたのは、無事に育ってほしいという願いの裏返しでした。棄丸(捨丸)、於棄とも呼ばれ、通称は八幡太郎でした。
「鶴松」という名に改めたことは知られていますが、その時期や経緯は厳密には分かっていません。当時の人々は、棄君や若君といった呼び方をしていたようです。
淀城と「淀殿」の呼び名
淀城は、秀吉の子を身ごもった茶々に産所として与えられた城です。茶々が「淀殿」と呼ばれるようになった由来も、この淀城だとされています。鶴松はこの城で生まれ、この城で亡くなりました。
生後4か月にあたる9月13日には、大坂城に迎え入れられました。翌天正18年2月13日には京に戻って聚楽第に入りました。
秀吉の喜びがうかがえる場面
天正18年、秀吉は小田原征伐の間は大坂城にいて、同年9月20日に遠征から聚楽第へ戻りました。秀吉は鶴松の消息を気にして、書状を頻繁にやり取りしていたとされています。
同年11月7日、朝鮮使節との謁見の場に鶴松が同席し、小便を漏らしてしまい、それを見た秀吉が笑った、という出来事も伝わっています。外交の場に幼い子を連れ出していたことからも、秀吉がわが子を手放さなかった様子がうかがえます。
鶴松の死と、その後の豊臣家
病と秀吉の祈り
鶴松は、天正18年の7月27日頃に病気になりました。翌天正19年にも、閏1月3日と8月2日に病が記録されています。Wikipedia には確定した死因は書かれていません。注釈には、鶴松の死のおよそ1か月前、7月9日に養女の小姫が亡くなっていることから、伝染病が流行して幼い二人が命を落とした可能性を指摘する説がある、と記されています。あくまで一つの説です。
天正19年の病のとき、秀吉は全国の神社仏閣に平癒の祈祷を命じ、春日神社には寄進を約束しました。天下の名医も集めたとされます。
秀吉の悲しみ
8月5日に鶴松が亡くなると、翌6日、秀吉は東福寺で髻(もとどり)を切り、喪に服しました。徳川家康や毛利輝元ら諸大名や近習も剃髪し、集められた髪の束が塚になったと伝えられています。
7日には清水寺で気持ちを鎮め、9日からは有馬温泉へ湯治に向かいました。悲しみの深さがうかがえる動きです。
鶴松の死後に起きたこと:秀次の関白就任
鶴松が亡くなり、秀吉に後継ぎがいなくなりました。通説では、甥の豊臣秀次が秀吉の養嗣子となったのは同じ年の11月とされますが、正確な日付は分かっていません。秀次はその後、11月28日に権大納言、12月4日に内大臣となり、12月28日に関白に就任しました。内覧宣下と豊臣氏長者宣下も受けています。
秀頼の誕生と、秀次事件へ
文禄2年8月3日(1593年)、淀殿は大坂城二の丸で秀頼を産みました。『言経卿記』によると、同年9月4日に秀吉は、日本を五つに分けて四つを秀次に、一つを秀頼に譲ると伝えたとされています。また『駒井日記』によると、10月1日には秀頼と秀次の娘との婚約を考えていたとされます。
その後、文禄4年(1595年)に秀次に謀反の疑いが浮上します。秀次は伏見で剃髪して高野山へ入り、7月15日に高野山で切腹し、享年28で亡くなりました。8月2日には三条河原で妻妾や子ら39名が処刑されています。事件の真相や粛清の理由には諸説があり、鶴松の死だけで説明できる話ではありません。ここで確かなのは、鶴松の死から秀次の関白就任、秀頼の誕生、秀次事件までが、年表の上でつながっているということです。
ゆかりの地と関連する人物
妙心寺と祥雲院霊廟
鶴松の葬儀は、傅役(もりやく)の石川光重の進言により、妙心寺で行われました。遺骸もそのまま同寺に葬られました。墓所は京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺塔頭・玉鳳院の傍らにあり、祥雲院霊廟として現在も残っています。
隣華院と棄丸人形像
妙心寺内の隣華院には、鶴松の遺物が現在も保存されています。蒲生氏郷が贈った刀などが含まれるとされます。棄丸人形像も、後述の祥雲寺が廃寺となった後に隣華院へ移されました。
祥雲寺と智積院
秀吉は、方広寺大仏の近くに鶴松の菩提寺として祥雲寺を建立し、文禄2年(1593年)に竣工しました。慶長元年(1596年)には300石の寺領が寄進されています。豊臣氏の滅亡後、祥雲寺の敷地は智積院となり、祥雲寺は廃寺になりました。
関連する人物
- 豊臣秀吉:父。鶴松の死後に剃髪して喪に服した
- 淀殿:母。淀城は産所として与えられた城で、通称の由来
- 豊臣秀次:秀吉の甥。鶴松の死後に養嗣子となり、関白に就いた
- 豊臣秀頼:鶴松の弟。1593年に淀殿が産んだ
- 小姫:秀吉の養女。鶴松の約1か月前に亡くなった
- 石川光重:傅役。妙心寺での葬儀を進言した
よくある質問
豊臣鶴松は何歳で亡くなりましたか。
数え3歳です。天正19年8月5日(1591年9月22日)に淀城で亡くなりました。
鶴松の幼名はなぜ「棄」なのですか。
棄て児はよく育つという民間信仰にちなんだ名付けとされています。「鶴松」への改名の時期や経緯は、厳密には分かっていません。
鶴松の死因は何ですか。
確定した死因は Wikipedia に書かれていません。養女の小姫が約1か月前に亡くなっていることから、伝染病が流行した可能性を指摘する説がある、とされています。
鶴松のお墓はどこにありますか。
京都市右京区の妙心寺の塔頭・玉鳳院の傍らに、祥雲院霊廟として現存しています。遺物は同じ妙心寺内の隣華院にも保存されています。
鶴松の死のあと、後継者はどうなりましたか。
甥の豊臣秀次が秀吉の養嗣子となり、1591年12月28日に関白に就任しました。1593年に弟の秀頼が生まれ、1595年には秀次が高野山で切腹しています。





